今日は「イエスタデイをうたって」4巻(冬目景集英社 ISBN:4088766466)と、「ハイウイング・ストロール」(小川一水朝日ソノラマ ISBN:4257770279)を読んですごしました。


 ハイウイング・ストロールには、おおいにひざを叩かされました。ああ、そういえばそうだよな、と。なにがそうなのかと言うと、「セックスのあとにも恋愛は続いている」ということ。そう、現実見てみれば確かにそうなんですよね。
 ライトノベルにおける恋愛の書かれかたは、ギャルゲー・エロゲーのそれと根の近いものを感じます。つまり、想いあうふたりの行き着く果ては、「互いの心情が明るみになる」か「キス」か「セックス」で、その先は物語には現れない。(ライトノベルとゲームの近さは、そうしたゲームをライトノベルレーベルで小説化していることに端的に出ています)
 ハイ・スト(←長いので略しますが)の恋愛部は、そうしたゲーム的な恋愛のプロットとは明らかに異なるものです。まあ、けっして恋愛メインの話ではないので、そうしたものと恋愛そのものを主題としたものを比較するのは正しくないのかもしれませんが。
 ハイ・ストはセックスのあとにも、ふたりを揺さぶる出来事やらなにやら、つまり盛り上がり、上がって落ちて上がる、をきっちり書いています。セックスで止めるのではなく、セックスのあとを書くというのは、現実的な恋愛にのっとった書きかただと言えるでしょう。まあでも、ほとんどの未経験の少年にとってセックスが「世界が変わるかもしれないと期待させるできごと」である以上、これからもライトノベルでは、セックスの向こうのことはあまり書かれないのではないかと思います。恋愛において、セックス以上の大事件が彼らのなかには存在してませんので。
ライトノベルの読者層のメインは、未経験の男子であると確信して上のを書いたのですが、実際どうなんでしょうね。データ持ってらっしゃる方がいたら突っこんでください)


 いやまあ、結局はテメーの脳みそがゲーム型恋愛プロットで固着しちまってたことが問題なんですけどさぁ。もっといろいろな価値観を知らなければダメですね。自分という領域外の価値観を知らなさすぎる。




 冬目景氏のほうは、連載中に雑誌で読んでるので特になし。モーニングで始めた連載が閉鎖学園ものだったのはちょっくら意外でしたけど。