「四方遊戯」(遠藤達哉/集英社)

 四方遊戯 遠藤達哉短編集 (ジャンプコミックス)

 遠藤達哉は、オイラの目の前に現れた、初めての同い年の漫画家だった。
 もちろんオイラの目の届かないところでは、もっと前にデビューした同い年漫画家だっていただろう。あれから8年も経ってしまって、その程度のモノワカリはオイラも持つようになってしまった。
 遠藤達哉のデビューは赤マルジャンプという、いわゆるジャンプの増刊雑誌だった。
 タイトルは、「西部遊戯」
 その少し以前から、妙に新人マニアになって連載未経験者の読み切りを読みあさることに執心しだしたオイラは、漫画家紹介プロフィール覧で初めて目にする「1980」という数字にぐうっと目を奪われた。
 それはあるいは、当時すでにぼんやりながら将来プロ小説書きになりたいとか思ってたことから来る、羨望とか嫉妬だったのかもしれない。それまでフィクションというものは、すべて自分より1年以上先に生まれた人間の生み出すものだったから。カツオやのび太の年齢を抜かし、年下の子がドラフト指名されることよりも、オイラにとって具体的で実感のある揺さぶりだった。
 一種のバイアスがかかった状態で読み出したと言っていいと思う。
 そして読み終わって、オイラは、遠藤達哉の才能に恋をした。
 格闘少女主人公という、いまから考えるとちょっとだけ時代を先取りしたセンス。彼女たちの背後にいつもある、粘つくような黒のトラウマ。
 ジャンプの主流からはズレている作風で、だからこそ新鮮に映ったんだと思う。その要所で鋭角的になる絵柄とともに、オイラは遠藤達哉の最初のファンのひとりになった。


 遠藤達哉がこれまで商業の現場で発表してきたオリジナルの読み切りは、この短編集に収録されている4編ですべてだ。(一応、他にも「オクタン」という原作付き読み切りが1編ある)
 いずれも少女主人公で、彼女たちが戦って物語が解決する。
 ついでに言えば初の連載作品となった「TISTA」も戦う少女モノだった。
 遠藤さん本人は「女主人公に特にこだわりはない」と回想コラム覧で言っていますが、少年誌で描いておきながら少女主人公しかやってこなかったというのは、なにがしかのものが内にないとやはりできないものだと思う。
 どうしてこんなにも少女主人公ばかり少年誌で描いてきたんだろう、ということを今回この文章を書くにあたって、漫画を読みながら考えていた。
 ……これはもちろん、勝手な解釈なんだけど。
 遠藤達哉の問題意識として「世界の窮屈さ、閉塞感」というのがあるんだと思う。
 少女主人公というのは、あくまでその窮屈さを漫画内に導くための仕掛けでしかなくって。
 少年誌で少女主人公の漫画を描くというのは、やはりどうしても制約が多くなってくるだろうなというのが想像に難くない。
 そういう書き手自身の窮屈感、枠のある感じが、そのまま作品世界にオーバーラップしている。
 少女だてらにバトルで大活躍するというのは、力を奮うのは男の仕事という既成概念の枠に対するアンチテーゼとも受け取れるし。
 連載作品も含めて5編いずれも、主人公自身の意志を越えたところでの出来事によって、彼女たちは人生を決められてしまった。そのほとんどが、親を殺されたことというのはなかなか興味深いですが。ひとつの枠を取り払われたあとに、もっと強固な黒い縁の枠があったという。
 枠のある世界で、力を持て余しながら、その力をどう使ってどう生きていけばいいのかということのひとつの答えを見出し示そうとしている。遠藤達哉は少女たちにそういうものを背負わせてきたんだと思う。