「いばらぶ」(下) 42枚*2


       3


 結局、亮太たちは続く六時間目もサボって、生徒会室にいた。
 ただぼけっと座ってるわけにもいかないので、亮太は部屋の隅にたまっていた生徒会への意見書を見ていた。
 ずっと以前の代から、生徒会では目安箱を設置して匿名で意見を募っている。紗織は『自分が絶対』な性格なので、意見書なんて読まないが。
 中身は紗織への礼賛がほとんどで、純粋な要望や批判はほとんどなかった。目安箱前に隠しカメラがあるのではないか、というウワサのせいだろう。筆の滑ったおべんちゃらばかりで、正直、亮太は失笑するだけだった。
 紗織は紗織で、今日の放課後やる予定だった事務作業に精を出している。
 あれから、ベタベタしてくることはなくなった。
 会話もない。ときどき亮太に、手のことや殴られた頬のことを心配して訊ねてくる程度だ。
 目はうつろで、顔に生気はなく、ときおり亮太をぼーっと見つめて、目が合うとすぐにうつむいて。
 誰が見ても、落ちこんでいることがわかるほど、痛々しかった。
 それほど後悔するなら、どうして手を噛んだんだろう、と亮太は思う。
 まあ普段の紗織なら、「どうしても言い返したくなるほど、相手に腹が立っていた」ってことで納得できるが。亮太を噛むぐらい平気でやるし。
 いまの紗織の心の動きは、亮太にはさっぱり掴めない。
 理世はまだ帰ってきていない。これだけ様子も見に来ないとなると、もしかしたら、紗織をもとに戻す薬を作っているんだろうか。
 亮太としてはその可能性を強く信じたい。できるだけ早くもとに戻して、射水の件の収拾をつけないといけない。
 ――キーン、コーン……
 六時間目終了を告げるチャイムが鳴った。亮太は立ち上がって、意見書を箱に戻す。
 そして意を決して、隣のイスに座った。
「いいかげん、元気出せよ。いつもうるさいお前がそんなだと、こっちも落ち着かないっての」
「……うん」
 紗織の反応は鈍い。さっきからどれだけ、亮太が気にしていないと言ってもずっとこの調子だ。
 亮太は首のうしろを掻いて、それからわざと、咳払いする。
「なあ。さ、紗織。元気出せって」
 とたん、紗織ははっと首を上げた。目を大きくして、亮太を見ている。
「いま――呼んでくれた?」
「さあ。どうだったんだか」
 あさってのほうを見て、亮太はとぼけてみせる。
「もう! いじわるしないでよ。ね、ね、今度はあたしの目を見て言って」
 興奮した顔で、ずい、と紗織は身を乗りだしてくる。
「そんなにほいほい言ったら価値が減るだろ。またお前が落ちこんだら」
「聞けーーーーーーーっ! 生徒会の、木野亮太ぁーーっ!」
 そのとき、外からすごい声で亮太は名前を呼ばれた。
 窓ガラスが、びびんびびんと振動している。
 声は射水のものだった。何事だ、と亮太は窓際に向かう。
 ――校門前の道路に、何台もの車が集結していた。
 どの車からも、武装した屈強な男たちが続々と降りてきている。重機を積んだトラックの姿も見える。
 その中心、選挙カーみたいなワゴンの演説台に射水は立っていた。
 ワゴンの前頭部には、漫画みたいな大きさの拡声器が置かれている。家の浴槽ぐらいありそうだ。右翼でもあんなのは持ってないんじゃないか。
 亮太は思わず紗織を見た。紗織もわからない、と首を振る。
 射水はどうやら学園内に入りたい様子だった。いまは校門前にすでに大勢いる生徒たちに足止めされている状態だ。おそらく、帰宅部連中だろう。
 生徒たちの何人かはしきりに、射水へ説明を求めている。
 射水の視線は、足もとの彼らにはまったく向いていない。
 顔を上げて――射水ははっきりと、この生徒会室を見ている。
「いまから、我が射水の武力を持って、この学園を破壊する! あらゆる施設すべてを破壊する! 教師講師、用務員事務員、そして全校生徒、彼らの身の安全も保障しない! 止めてほしくば、お前自らこの学園を去れ! 退学しろ!」
「ひっ」
 紗織が引きつった声を上げた。
 亮太は目を覆う。さっきの件で、なにかトラブルが起こることは覚悟していたが。ここまで早く、射水がことを起こすなんて。
 たまらず、亮太は生徒会室を飛びだした。
 階段をほとんど飛び降り、足の裏が痛くなるスピードで一階へ駆け下りる。
 校舎玄関はすでに生徒たちでごった返していたが、亮太の姿を認めるとみんな割れるように道を開けてくれた。
 校門前は騒然となっていた。何人かの生徒は帰れないのでどいてくれと訴えていて、射水がつれてきた屈強な男たちと押し問答になっている。
 教師たちや運営側のかたたちも射水に事情を求めようとしているが、射水は相手にしていない。
 亮太の姿を認めると、射水はさらに目を険しくして、にらみつけてきた。
「先輩、なんなんですかこれは!」
「抜かせ木野亮太。事情はお前がよく知っているだろう!」
 間近で聞くと、鼓膜がイカレそうになった。亮太は耳を押さえる。
 大げさな比喩でなく、音が降ってきている。頭から足の先まで振動で揺すられている。
「なにも、学園全体を物騒なことに巻きこまなくったって、僕だけになにかすればいいじゃないですか! あと拡声器の音量下げてくださいよ!」
 射水家と葉山家の問題だけでも大変なのに。全校生徒にまで紗織たちが揉めたことが知られたら、手間は数倍に膨れ上がる。
「ふん。恐ろしくなったか。自分の犯したことの大きさに。お前ひとりのせいで、学園すべてが迷惑しているんだ。この特大拡声器を使って、お前の愚行をもっと全校に知らしめてやる! ――いいかぁ、いま起こっていることはすべてー、この、木野亮太の責任だ!」
 人を煽りたてるように、射水は言う。
「みんな、この男を恨め! なにもかもこの男が悪い! この男が罪を認めなければ、学園は瓦礫に変わるんだからな!」
 射水の目が、期待に歪んでいる。亮太が泣いたり土下座したりすることを想像しているのだ。
 見ていられなくなって、亮太はうつむいた。
 ビリビリと、肌に痺れを感じる。射水と向かいあっているときは気が立ってたから感じなかったが、いまはわかる。
 みんなが、亮太を見つめている。
 大多数が、亮太に退学を選んでくれという願いをこめているのだろう。
(くそ、三雲……なにやってんだよ……)
 亮太の頭には、さっきからひとつの切り札が浮かんでいる。
 こういうときのために作ったものだ、いま使わないでいつ使うというのか。
 だが発動する気配は、まだまったくない。
 防衛システムの管理は、すべて理世に任されている。どこで操作するのかということさえ、亮太は知らない。
 これだけの騒ぎになっている以上、理世だって気づいているはず。だったら、すぐに発動させてくれてもいいのに。
「どうした! 早く答えろ! 辞めるのか、それとも泣いて謝るか!?」
 射水はすっかり楽しんでいる感じさえある。圧倒的に上に立っていることが、気持ちよくてたまらないんだろう。
 亮太の考えは、すでに決まっている。
「わかり、ました。……でも正式な返事は、せめて明日まで待ってもらえませんか? 急な話すぎて……いろいろ、お世話になったかたたちにあいさつもしたいですし」
 もちろんすべては、時間を稼ぐための方便にすぎない。
 なんとかして、明日まで引き延ばせないか――それが亮太の考えだった。
 明日になれば紗織ももとに戻る。そうすれば、一連の出来事はすべて薬のせいだったと射水に説明できる。
 亮太も辞めなくてすむし、ふたりは復縁できるし、昨日までと同じ日々をまた送ることができるのだ。
「そんなことが許されるとでも思っているのか!? 少しは自分の置かれている身を考えろ。お前はお願いできる立場なんかじゃないんだよ!」
 引き延ばし策は、射水にあっさり突っぱねられた。
 亮太は長く息を吐いて、目をワゴンの演説台から降ろす。
 武装した男たちがワゴンのまわりを固めている。
 答えないまま、切れるまでだらだら時間を潰すこともできないな、と亮太は悟った。
 黙り続ければ、射水は実力行使に出るだろう。徹底的に破壊しつくし、ものの一時間で学園は跡形もなくなる。
 いますぐの決断を亮太は迫られた。
 足から地面の感覚が抜けていくのを、亮太は感じた。
 全身の血が、さぁっと引いていく。
 時間がたてば切れる薬のせいで、学校を辞めなきゃならなくなるなんて。
 厳しい現実とか運命とか、そういう単語が亮太の脳裏をよぎっていく。抵抗するだけ無謀で、力もない凡人は結局流されてしまうだけなのか。
 絶対的な力を持ったほうがいつも物事を決めていく。この星では常にそうだった。あの恐竜でさえ、天変地異には勝てなかった。
 相手は『射水』、大工の息子に生まれた亮太の力では太刀打ちできない。
 辞めたくない、この学園をこんなことで辞めたくない。
 でもそれ以上に、みんなを巻き添えにすることは、できない。
 ――亮太はぐっと、押さえている耳の上、後頭部の皮膚に爪を立てた。痛みで、『覚悟』の意識をさらに固める。
「……はい。わか、り、まし――」
「だめぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇええっ!」
 返事は、背後からの大声にかき消された。
 振り返ると、紗織が駆けてくるところだった。目を真っ赤に腫らしている。
「亮太のバカ! 勝手に、勝手に辞めるとか決めないで! どこへもひとりで行かせないんだから! 辞めるんなら、あたしと、いっ、一緒じゃなきゃ……」
 勢いそのまま、紗織は抱きついてきた。
「葉山……」
 紗織の安静を考えると、背中をそっと抱いてやるべきなんだろうが。亮太はさすがに躊躇した。
 射水の目の前というのもあるが、なにより、全校生徒に見られている。
 ……いや、抱きつくまでの紗織の熱烈な行動はもう見られているのだから。いまさら亮太が抱こうがもう大差ないのか?
「紗織、そいつから離れろ! だいたい紗織も一緒に辞めたら意味がないだろう!」
 射水ももう興奮して、亮太に退学を命じた理由を話している。
 これで事情の真相がわからない生徒がいたとしたら、そいつは一生恋愛に縁がないやつだろう。
「なんなら、紗織が辞めてもいいんだぞ。僕と一緒に、新しい学校へ移ろう。そうすれば、この学園も生徒も、みんな無事だ。木野亮太も特別に許してやる」
 顔を一転にこやかにして、射水は大きな譲歩案を出してきた。
 紗織の心をくすぐることで、亮太から引き剥がすという目的を果たそうということらしい。
 あるいは初めから、射水はこうするつもりだったのかもしれない。亮太の退学をプレッシャーに使って。
 紗織は仮にも生徒会長、そりゃ評判はよくないけど、学園のためという文句を出されたら……
「そんなので、あたしを動かせるとでも思ってたの!?」
 だが紗織の声音は、亮太の予想とは正反対だった。
「あんたなんかに許されなくても、あたしはあたしの力で亮太を守る。亮太だけがいまのあたしのすべてだから。あとのことなんか、葉山がどうなろうと、学園がどうなっ――」
「そっ、それはマズいって、みんな聞いてんだから」
 慌てて亮太は紗織の口を押さえる。
 一応、立場は生徒会長なんだから。学園なんてどうでもいいというのはさすがにマズい。
 射水の目がきつく、亮太を見下ろしている。気づいて、亮太は紗織を抱えていた腕を下ろした。
「……なぜだ、なぜそいつなんだ。確かに僕にも、いろいろ至らない点もあったと思う。そのことで紗織を傷つけてしまっていたなら、それは謝る。でもなんでそいつなんだ。貧乏人で、礼儀も知らず――そうだ、入学式のときに紗織はそいつを叩いたじゃないか! それがなんで」
「初めて、だったの。人にからかわれたの」
 射水の問いを否定せず、でも紗織の口調は明らかに否定のものだった。
「最初はなんてイヤな人だろうって思ったんだけど。どれだけあたしが怒っても、亮太の態度は変わらなくて。少しも遠慮しなくて。あたしが自分でもちょっとよくないかなと思ったことにはすぐ怒って。でも、困ったときにはいつも必ず助けてくれて。あたしに気に入られようとしてすごく優しくしてくるだけの人とか、そういう人はいっぱいいたけど、怒るのに優しい人なんて、いままでいなかった。だから……気がついたら、いつも亮太に近くにいてほしいって、思ってた」
 亮太は頬を掻く。こんなの、横で聞いてて恥ずかしくないわけがない。
 薬は過去の出来事に対する解釈も変えてしまえるらしい。普段の紗織がそんな目で亮太を見ていたはずはないし。
 どこまで強烈なモノをあの天才少女は作ってくれたんだろう。
「『葉山』に生まれて、あたしは、『葉山』のために生きなきゃってずっと考えてた。だから、婚約も受け入れたし、まわりの期待にそえてることに満足してた。『葉山』の娘として生まれたからには、恋とか初めから縁のないもので、それでいいんだって」
 紗織は自分の二の腕を抱く。肩がきゅっと小さくなる。
「でもあたしは、亮太と会っちゃった。……『人を好きになる』ってことを知ったら、それからは『婚約』が苦しくなった。……『婚約』してるときのあたしなんか嘘だらけだし。本当はもっとわがままで短気で意地っ張りで抜けててドジなのに」
「僕たちには、使命があるんだよ。そこらにいる一般人とは違うんだ。ご先祖様から受け継いできたものを未来に繋げていく使命が。そのために結婚したりすることが、価値がないことだなんて紗織は言うのか?」
「価値がないなんて言わない。あたしには耐えられないだけ。これまでの常識とか、伝統とか、まわりの期待とか、そんなものに縛られたくない。あたしの道は、あたしが作っていく。――亮太と結婚して、『葉山』全員に結婚を認めさせてやるんだから!」
「け、結婚!?」
 驚いて、亮太は紗織の顔を見る。もちろん、紗織の目はマジだった。
 いや、惚れ薬なんだから、結婚とかの単語が出てきても理屈はわかるんだけど。さすがにまだ高校生の亮太には現実感がなさすぎた。
 夢や妄想を語るような、そんな響きに近い。
(いやでも……いまの紗織は恋の妄想に入っているわけだし……)
 にしては、紗織の話はリアリティがありすぎた。
 少なくとも、婚約が苦しかったって告白は、本当のように思える。
 射水の前ではあんなギャップありすぎる猫かぶりをしていたのだ。見るからに無理があったし、窮屈だっただろう。
 何年も、紗織はあれをやっていたわけで。
(あいつもガマンしてたんだな。しかも、つらくなったからって逃げるわけにもいかないし)
 不自由さを覚えつつ、恋もすることなく。そういう生活をしてきた紗織が、自由な恋にあこがれを持っていたとしたら……結婚、という言葉を恋と同じにできても、不思議じゃない。
 そのあこがれがいま、亮太を恋人役にして、叶っているわけなのだ。
 なんでも手に入ったお嬢様が、唯一手に入れられなかったもの。みんなは簡単にできるのに、あきらめるしかなかったもの。
 それが今日、たった一日、明日目覚めるまで叶っている。
「先輩」
 亮太は顔を上げた。戸惑いと怒りに揺れている射水の目を、はっきり見返す。
 後処理が面倒だとか、そんなことどうでもいい。働く手間を増やせばいいだけだ。
「先輩の怒りは、もっともだと思います。いまの俺は確かに、はや――彼女にふさわしくない。釣りあいも取れていないし、ひたすら未熟です」
「亮太」
 紗織が心配そうな声を出す。
「でも将来必ず、俺は彼女にふさわしい男になるつもりです。だから、先輩。いずれ俺と、男の勝負をしませんか。それで完全に、どっちが相手としてふさわしいか、ケリをつけましょうよ」
 押し黙っていたギャラリーから、どよめきが起こった。
「亮太――」
「おい、あんまりくっつくなって。恥ずかしいだろっ」
 安堵して腕に擦り寄ってきた紗織に、亮太は小声で抗議する。
 ……まあ勝負なら、わざと負けることだってできるわけで。
 影響に配慮しつつ、紗織を喜ばせるのにこれ以上の手はなかった。我ながら絶妙だ、と亮太は満足する。
 だがすべてが丸く収まる提案なんて、やっぱりそうそうなかったりする。
「この僕に勝負を挑むなんて――お前は、お前ってやつは本当に身の程ってのを知らないんだな!」
 怒鳴り声が大きすぎて、最後のほうは音割れした。
「もういい、全部ぶっ潰してやる! やれ!」
 そして、射水の右手が前へ振り下ろされる。
 待機していた男たちが、それぞれの得物を手に構え、校門へ迫ってきた。警棒の長いの短いの、盾を持った男もいる。
 丸腰の亮太たちではどうにもならない。
「くそっ、葉山逃げるぞ!」
 亮太は紗織の手を掴んで、走りだそうとして――
「うわぁぁぁぁあぁっ」
 悲鳴に、うしろを振り返った。
 校門入ってすぐのところ、そこに、大きな長方形の穴がぽっかりとできていた。
「なん、なんだこれは!?」
 予想外の展開に、射水の声も上ずっている。
 男たちも戸惑うばかりで、ただ穴の淵から下に落ちた仲間の様子を目でのぞいている。深さはざっと、十メートル。もちろん下には柔らかいマットがあるが、這い上がってくるのは難しい。
「三雲!? どっ、どこだよ三雲!」
 亮太は首を巡らせて、理世を探す。
 ――この落とし穴は、実は防衛システムの仕掛けのひとつだ。
 防衛システムなどと大層な名前を名乗っているが、あくまで企画上の、紗織の意識の上での名称にすぎない。実態はわりと、単純な仕掛けのものが多い。
 ただし天才のおかげで、作りはどれも精巧だが。
「か、門が通れないなら壁だ、壁を越えていけ! ひるむな!」
 落とし穴ショックから立ち直り、射水は再び号令を飛ばす。
 そこへすかさず、システム第二段が発動――ワゴンの足もとから、ノズルが何本も生えてくる!
「わっ、な、なんだこっ――ぶっ、あ」
 ノズルから白い液体がすごい勢いで噴出され、射水はワゴンの上から落とされた。
 液体の水たまりのなかに、べちょっと落ちる。しぶきはまったく撥ねない。
「くぉっ、なんだこれ、むっ、と、取れないっ」
 射水は立ち上がろうとしているが、液体は強い粘り気で射水を放さない。
 射水だけでなく、何人もの男たちが液体の餌食となり、格闘している。
 天才お手製の粘着液だ、剥がすのは簡単ではない。
「無理に取らないほうがいいですよ。皮膚がめくれることもあるかもしれませんから」
 と、射水の横に――いつのまに現れたんだろう。白衣の少女が立っていた。
「三雲!」
「お前、こんなことして、ただじゃ」
 それでも強気を失わない射水の首に、理世は注射をぶっ挿した。
 射水の頭が、かくんと落ちる。
「み、三雲!?」
「案ずるな木野。寝てもらっただけだ」
 そして理世は、まだわずかに残っている屈強な男たちのほうを向いた。
「本日はこれで、お引取り願いたい。これ以上学園に危害を加えようとするならば、貴殿らの主に対して、私も安全を保障しかねる。無論、お引取り願えるならば、私も生徒会の一員、まだ学園に籍を置く貴殿らの主を傷つけたりはしない」
 白衣のポケットから新たな注射を取りだして、理世ははっきりと脅しをかけた。
 男たちはなんとも言えない顔をしながら、車に乗りこんで去っていった。
 紗織がほぉ、と息を吐き、理世の肩を叩く。
「もう。どこにいたのよハカセ。すっごい大変だったんだからね! ほんとにいつシステムのスイッチ押してくれるんだろうって」
「すまない。ちょっといろいろ、手間取ってな。それよりふたりとも、こっちに来てくれないか?」
 理世は成功の余韻にひたることもなく、いつもどおりの穏やかな口調で亮太たちを手招きした。
 なんだろうと思いつつ、亮太は理世の隣に行く。
「私の体を持っておいたほうがいい。それから目も閉じて。息も止めておいたほうがいいかもしれない」
 言われたとおりに、亮太たちが理世の肩を触った、瞬間。
 シューッという音とともに、あたりにガスが撒き散らされた。
 一面、真っ白になって、まったくまわりが見えない。鼻の奥がツーンとして、勝手に涙が出てくる。
 慌てて亮太は目を閉じるが、すでに遅い。
 野次馬からは盛んに悲鳴があがっていて。パニックになっている。
「走るぞ」
 理世はいきなり駆けだした。
 白衣の裾を持って、亮太は必死にはぐれまいとする。
 喧騒はみるみる小さな声になり――目を開けたときには、亮太たちは校舎脇の倉庫の裏にいた。
「なん、なんなのよあのガス! なんか涙がどんどん」
 紗織も目を閉じていなかったようで、赤い鼻で抗議している。
「毒性はない。涙は出るが、それだけだ」
「いや、じゃなくて。なんであんなガス撒いたんだよ? 余計な混乱が増えるだけじゃ」
「人目につくと困るだろ。逃げようというんだから」
 理世は言って、紗織のほうへ歩み寄る。
「なんであたしたちが逃げなき……」
 紗織の体から、急に力が抜けた。亮太は慌てて支える。
 理世の手には、さっきの注射が握られている。
「お前なに打って」
「薬の中和剤だよ。これで起きたらもう、お嬢は元に戻る」
 話もそこそこに、理世はさらに狭い奥へと進んでいった。大きなソテツの陰にまわって、そこにあった排水溝のフタを持ち上げる。
 ――フタの下には、闇のなかへと伸びる階段があった。




        4


 時計は五時を差している。
 亮太は冷水をくくっとあおり、どっと息をついた。
 紗織は目の前のベッドで穏やかな寝息を立てている。
 相変わらず、寝顔はかわいい。
 蛍光灯の明かりしかないこの部屋でも、まったく冷たい感じはしない。警戒心の強い野生の獣も安心して添い寝できそうな優しさに満ちている。
 このかわいさを堪能できるのも、あとわずか。人目もないので、亮太はずぅっと紗織を眺めている。これぐらいの役得はあってもいいだろう。
 階段の先にあったのは、理世のラボだった。ここで待っていろと命じて、理世はまた表へ出て行ってしまっている。
 本当に、理世が味方でよかったと亮太は思う。
 亮太ひとりではとてもじゃないが、ここまで事態を持ち直させることなんかできなかった。
 いやそもそも、理世がいなければ薬もできないんだから、騒動自体起きなかったのかもしれないが。結局なんとかなったわけだし、あまりぐだぐだ考えるのはやめよう。
 初めて入った念願のラボだが、まさか地下にあるとは亮太は思わなかった。
 広さは普通の教室の半分くらい。ただし薬品棚や本やらいろんなモノがごちゃごちゃとあるおかげで、人が行き来できるスペースはかなり狭いが。
 中央にでんと居座っているテーブルには、フラスコや試験管、バーナーなどがそのまま置かれている。中和剤を作って、片付けもせず急いで持ってきてくれたんだと想像がつく。
 もうひとつ特徴的なのが、この部屋、ドアが五つある。すべて違う入口に通じているらしい。誰にも知られていない秘密さといい、これじゃ忍者屋敷かと思ってしまう。
 どんな意外なところに残りの入口はあるんだろうか。亮太は調べてみようという気になった。
 立ち上がって、手近なドアからまず開けようとする。
「なにをしているんだ?」
 そのとき、背後のドアから理世が帰ってきた。亮太はくるっとターンして、もとのイスに戻る
「や、その、ちょっと暑いかなって」
「空調のパネルは向こうだぞ」
「ん、ああ、そうなんだ。は、はは。でもこんな部屋が学園の地下にあるなんて、俺ほんとびっくりだよ」
「昔、私の父が学園に通っていたころに作った部屋なんだよ。当時は学園内政争が激しかったらしくてね。父はどちらの権力にも自分の力を利用されないために、ここに篭ったとか」
 手を洗って、さらに理世は眼鏡を外して顔を洗い始める。
「お嬢の様子は?」
「え、うん。よく寝てるけど」
「そばを離れるなよ。記憶が混濁した状態で起きるんだから。お前が近くにいたほうが安定する」
 理世がさっきしてくれた説明によると、紗織が打たれた注射には、薬の中和剤だけでなく催眠成分も含まれているのだという。原理は亮太にはわからないが、直近の記憶をある程度飛ばすことができるものらしい。
 ちなみに、射水を眠らせた注射も同様の催眠薬だとか。
「三雲、で、外の様子は……?」
「混乱はもうほぼ収まっている。部活動は中止。生徒はほとんど帰っている。先輩と射水の私兵たちは、液の剥がしかただけ教えて先生がたに任せた。本当は我々でなんとかするべきなんだが……」
 顔を拭ったタオルを置いて、理世は苦々しく息を吐く。
「じゃ、じゃあ、いまからでも」
 立ち上がりかけたところ、亮太は腕を掴まれた。
「なんのために木野たちを匿っていると思っているんだ」
「え、俺、匿われてるの?」
「でなければ、ここに他人を入れたりしない」
 真顔で、理世は答える。
 とりあえず、亮太は理世とともにイスに座り直した。
 理世はポケットから、小さなボタンのようなものを取りだす。
「いまから話すことはお嬢には絶対言うなよ。……実はな、学園の安全を保つために、この学園の敷地内、それから関係する各所、計十六ヶ所に私は盗聴器を仕掛けている」
「と、盗聴!?」
「ああ。で、お嬢が婚約を破棄したという話、射水の三男坊が葉山に刃を向けたとかいう話が、すでに多くの葉山に伝わっていてな。結構な騒ぎになっている。いまごろもう、学園にやって来てお嬢を探し始めてるころじゃないか」
 亮太は血の気が引くのを感じた。射水といい、どうして金持ちはこう行動が素早いのか。
「お嬢の父親があまり怒っていないのは救いだが……ともかく、本人が起きるまで隠れていたほうがいい。正気に戻るまでは、ややこしくなるだけだ」
「まあ、な。ただでさえ引っかき回してくれたんだし」
 さすがに葉山の家のことまで、亮太は面倒見きれない。
「起きたら、記憶なくなってるんだろ? 葉山のことだから、身に覚えのなくなった話はしっかり否定してくれるだろうし。……あとは先生がたとか全校生徒に見られた件をどうするかだよなぁ。平穏は当分先か。くぅーっ」
 亮太は伸びをする。
 まあ本人たちが認めなければ、証人が多くてもあやふやになって終わりそうなものだが。とりあえず亮太は、大規模な痴話ゲンカだったと言いふらして収拾させるのを第一候補案として考える。
「……そのこと、なんだがな。お前にいくつか、確認しておきたいことがあるんだ」
 と、急に理世は身を乗りだしてきた。
「先輩に向かって宣言しただろう。男の勝負。あれは、本気なのか?」
「聞いてたのかよ……」
 いまさら蒸し返されるとちょっと恥ずかしい。
「もちろん、本気じゃねえよ。実際やることになったら負けるつもりだったから。先輩の記憶なくなるんなら、やらなくてすむみたいだけど」
「じゃあなぜ、あんなことを。最悪、私が間に合ってなければ、かなり危険な状況になっていたかもしれないんだぞ」
「そりゃわかってたけど……なんつーか、こいつが婚約は窮屈だったって言ってたろ。あれは俺、本当のことだと思うんだ。普段の、先輩の前での態度とか見てたからさ。だから、自由な恋愛にもしあこがれてたんだとしたら、その夢に少しくらいつきあってやってもいいんじゃなかって……言うなよ、こんなこと。本人に」
 亮太はベッドの紗織を見る。
 掛け布団を抱きしめて、紗織はなにやらうれしそうに笑っている。
「あの時点でなお、それぐらいの同情を抱けたということは、木野はお嬢からの求愛が鬱陶しくなかったということか?」
 理世はなおも真剣な面持ちで訊ねてくる。いつもの食いつきモードだ。
 亮太が答えにくいことを訊いてくるときほど、理世はこういう顔になる。
 さすがに亮太も理世から顔を背けた。
「さ、最初はどうしようかと思ったけどさ……こいつ婚約者いるし、薬抜けたらあとでブーブー言われるだろうなって思って。だけどさ、悔しいけどこいつ、か、かわいいんだよ。しおらしくしてるとその、なんだ、こっちが守ってやらなきゃ的な――あーもう! 恥ずかしいこと言わすんじゃねえ!」
 立ち上がって、亮太は流しで水を汲んだ。何杯も飲み、何度もまた水を汲む。
 もっと食らいついてくるかと思っていた理世は、亮太のほうを見ていなかった。
「……よかった」
 どころかそんなことを言って、肩の力を抜いている。
「な、なにがよかったんだよ。俺に恥ずかしいこと言わせて」
「私の意識の問題だよ。残り二年、重い秘密をひとりで抱えて生きていかなくてもよくなったんだ。こんなに嬉しいことはない」
 話が見えない。亮太はカップを置いて、もとのイスに戻る。
 理世はまたポケットから、今度は白い薬の小ビンを出してきた。
「実はな。五時間目と六時間目の間の休みに、有志に協力してもらったんだ」
 今日の主役だった、『惚れ薬』だ。
「あまり褒められたことじゃないんだが、急を要することだったから。金銭を渡して、実験台になってもらったんだ。効果の度合いを計らないと、中和剤も作れないからな。で、その結果、とんでもないことがわかった。――私は、製薬に失敗していたんだ」
「は?」
「有志には誰ひとりとして、『惚れ薬』の効果は出なかった。どころか、全員に別の特徴的な効能が現れた」
 小ビンを、理世は机に置いた。
 そして、その薬をじっと見下ろしながら、
「この薬はな、――『自分の本音を隠せなくなってしまう薬』、だったんだよ」
「……」
 亮太はつばを呑んだ。
 この天才少女は、なにを言っているんだ? ――失敗? ――本音を隠せなくなる?
「人間というのは、誰しも内に秘めている事柄がある。例えば私なら、この地下室のことは誰にも明かしたことはない。父の凄さを自慢したくて、言ってしまいたくなったことだってあったが、自制心が勝ったおかげで明かすことはなかった」
 理世は座り直して、ヒザを紗織のほうに向けた。
「最も秘められていることが多いのは、対人感情だ。我々は会う人会う人に対して、必ずしもプラスの印象ばかり持つわけではない。たとえ毎日話す相手であっても、気に入らない要素や部分というものはある。ただそれを口にすると、関係の円滑さが失われることが容易に予測されるから、言わずに、秘めておくわけだ」
「そ、それが隠せなくなるとか、なのか? その、薬の効能は」
「……お嬢の先輩に対する言動を見ただろう。普段あれだけわかりやすく自己を抑制していたお嬢が、婚約破棄を言いだすまで思いのたけをぶちまけた。あれは『惚れ薬』の範疇じゃない。『惚れ薬』は強大な好意のベクトルを新設するだけであって、既存のベクトルを潰したりすることはないんだ。相対的に、先輩のことをさらに避けるようになることはあっても、それ以上の行動はありえない」
 腕組みをして、理世は淡々と語る。
 理世がけっして嘘をつかない人間であることは、亮太はよく知っている。でも。
「なんだよ、じゃあ薬を飲んでからのあいつの行動、言ったこと、それ全部……」
「お嬢の、偽りない真意、ということだ」
 でもそれでも、さすがにこればかりは信じられなかった。
 よく考えてみるといい。薬を飲んで以降、紗織がなにをしたか。
 キスしてきて。
 離れ離れになるのを嫌がって。
 名前で呼んでほしいと言って。
 亮太からキスしてとせがんで。
 射水の手を拒否して。
 婚約破棄して。
 亮太と結婚すると宣言して。
 ――それが全部、全部がもうまったく偽りなく疑う余地なく紗織の本音だなんて――――――――
「じょ、冗談だろ?」
「もし木野がお嬢を嫌いだというなら、この件は明かさず、私の罪として卒業まで背負って生きるつもりだったんだが。どうやら木野も脈はあるみたいだしな。あとはどちらかが本音を明かすだけだ」
 にやっ、と理世は笑う。普段あまり笑顔を見せないので、心底気分がいいというのがわかる。
 亮太は、たまったもんじゃない。
「かっ、勝手にそんなこと――だいたい先輩のことはどうするんだよ! いくら葉山が本音ではそう思ってても」
「それはふたりの今後の課題だろう。私の関与するところじゃない。ま、木野ならお嬢を幸せにできるよ。あのお嬢に迫られても押し倒さなかったんだから。私もふたりがそういう仲になってくれると嬉しい」
 完全に理世は高みの見物を決めこんでいる。
「ああ、そうか。惚れ薬を作ってくれと頼んできたのも、本当は木野に飲ませるつもりだったのかもなぁ。薬を飲んだ木野に襲わせて既成事実を作ることで、婚約破談に持っていきたかったのかもしれない。眠らせる前に訊いとけばよかったな」
 理世の声に、ふざけたところはない。どこまで本気なんだろうか。
 亮太はベッドで眠る紗織を見る。
 相変わらず天使のような寝顔だ。こんなかわいい女の子が、自分を好きだなんて――亮太の鼓動が早く、大きくなる。
 でも、やっぱり亮太は信じられない。
 だって普段の紗織が、どんな態度で亮太と接していることか。暴言批判は当たり前、すぐ怒るし、手も足も出るし、いたわりのかけらもない。
 それを考えると、やっぱりありえないんじゃないかと思うのだ。
「ん……亮太……」
 そのとき、紗織がなにかつぶやいた。起きたのか、と思って亮太は顔をのぞきこむ。
 紗織のまぶたは閉じられたままだ。幸せ満開な笑みを浮かべて、眠っている。
「どこ行ったのよあのバカ……勝手に修理とか……あたしに行き先言えっての……」
 夢のなか、いつもと同じ調子【傍点】で、紗織は亮太を怒っていた。
(終劇)