「いばらぶ」(上) 62枚*1


        1


 木野亮太は生徒会副会長で。日々いそがしく、校内を動き回っていて。
 それなのに、いつもまわりには嵐が吹き荒れている。
「こんなところで……勝手に、なにしてんのよっ!」
 学園の西の端、第七グラウンド。女子野球部の活動場所。
 亮太のもとに現れた彼女は、ぜいぜいはあはあと大きく肩で息をしていた。
 細身の体。制服から伸びる手足は白く。小さな顔に切れ長の瞳。
 それがいま、グラウンドを走って横断してきて。顔を紅潮させて亮太をにらんでいる。
 もちろん彼女は、女子野球部員じゃない。
「なにって、見りゃわかるだろ。マシンの修理。前から頼まれてたんだ」
 亮太は直ったばかりのピッチングマシンにボールをセットする。白球はホームベースに向かってまっすぐな軌跡を描き、奥のネットにぶち当たった。
「木野ぉ、前より速くなってないか。すごいじゃん」
 亮太に修理を依頼した部長が、隣で感激の声をあげている。
「いや、マシンスペックからいけばこれぐらいの速さは――ぐえっ」
 答えかけたところ、亮太はうしろから襟を掴まれた。
「もう終わったんでしょ!? いつまでも油売らない!」
 そのまま、彼女は亮太を引きずって行こうとする。
 亮太は力まかせに暴れて、彼女の手を離した。
「首が絞まるだろうが! だいたい急がなくてもいいんだって。俺さっき三雲に会って、まだしばらく調整に時間かかるからって! だから空いた時間に仕事しておこうと」
「あたしはあんたに、勝手にうろうろするなってことを」
 甲高い金属音が、彼女の言葉をさえぎった。
 部長がさっそく、バットにボールを当てていた。腰を低く落として構えて、バントの練習みたいなことをしている。マシンの軌道が狂ってないかを見ているのだ。
 再生されたばかりのマシンは、古いながらもボディから力感が漂っている。これからまたもりもり働くぞという気合がみなぎっているよう。
「……あんなの、直すより買ったほうがはやいじゃない」
 ぶすっと、彼女はつぶやいた。
 そして彼女は、つかつかと部長に歩み寄っていき。
 ポケットから、札束を取りだした。
「これで新しいの買いなさい。それで、二度ともう木野に修理とか頼んだりしな」
「じゃ、じゃあ俺たち帰りますんで。またなにかあったら呼んでください」
 抵抗する彼女の口とおなかを抱えつつ、亮太は頭を下げた。
 部長も引きつった笑顔で応える。
 今度は亮太が彼女を引きずるかたちで、女子野球部をあとにした。
「ほいほい金出すなっていつも言ってるだろ。恥ずかしいし、学校でお前を襲おうって考えるやつが出てくるかもしれ――って手の甲を爪でつねるな! 肉が切れる!」
 突き放すように、亮太は彼女を解放した。赤くなった手の甲をおそるおそる舐めると、ピリッと痛みが走った。
「あんたが変なとこ触るから! ……もっ、もうこれっきり、ボロいのをイジったりしないでよね。あんなの、新しいの買えばすむんだし、あんたが働かされることもなくなるし」
「買え買えって、みんながみんなお前みたいに金持ってるわけじゃないんだぞ」
「だからあたしがさっき払おうって」
「それがいかんっていつも言ってんだろうが!」
 彼女の金銭感覚がおかしいのは、生まれついた環境のせいだ。
 日本のあらゆる産業に一枚噛んでいると言われる一族のひとり娘。しかも母親は物心つく前に亡くなり、父親は彼女に寂しい思いをさせまいとあらゆる努力をした。どこへでも連れて行き、なんでも買い与えた。
 彼女は不自由という単語と絶縁した存在なのだ。
「とにかく、あたしの許可なく勝手にどこでも行かないように。あんなのを生徒会の活動だと思われたら、たまんないんだから」
「なんでだよ。みんなの役に立ってるだろ。生徒のために働くのが生徒会じゃないのかよ」
「あんたのやってるのは雑用じゃない。生徒会は奴隷じゃないのに! 自分たちで壊したんだから、修理も本人がやるべきなのよ。だいたい、副会長に仕事を頼むならこのあたしをちゃんと通してもらわな――――きゃぁっ」
 彼女が急に、前のめりに倒れた。艶やかな黒髪が、ぱあっと撥ねる。
「いっ、たぁ〜。もう、なによこれっ」
 自分がつまずいたそれを、彼女はいらだった手つきで投げ捨てる。ラグビーやアメフトで使われるキックティーだった。
 学園は伝統的に部活動が活発だ。グラウンドは第七まであるが、それでも併用が珍しくない。
「おい、大丈夫か?」
 亮太は屈んで、ヒザを抱えてうずくまっている彼女の隣につく。
 スカートからのぞく白い太ももに目を奪われかけるが、理性フル回転でなんとか患部に目を戻す。
 土の汚れに混じって、赤いものがあふれ始めていた。亮太はブレザーからポケットティッシュを出して、押さえてやる。
「ほら、これ。あ、でもその前に水道で流すほうが先か」
 さらに亮太は絆創膏を出して渡す。いつも持ち歩いているので、こういったものがすぐに出せる。
「あ、あり……と……」
 小声でなにか言いつつ、彼女は受け取る。
 彼女はちょっと抜けてるところがあるので、こういう生傷が絶えない。
 しかも本人は自分が抜けてることを認めないので、結局いつも、一番近くにいる亮太がフォローすることになる。
「いつも言ってるけど、ちゃんと下見て歩かないとダメだろ。お前はドジっぽいんだからよ」
「……うるさい」
 うつむいたまま、彼女は不機嫌をにじませる。
「立てるか? なんなら肩、貸してやるから。そこの水道まで行」
「……先、先に行ってなさいよ。ハカセのところ」
 差し伸べた手を、彼女は無視する。不機嫌のオーラはどんどん強くなっていく。
「え、でもお前、さっきは勝手に行くなって」
「いいから! さっさと行ってよバカ!」
 亮太のお尻に、鋭いキックが飛んできた。
 突き飛ばされて、亮太はグラウンドに手をつく。
「痛えな、なにすん――」
 振り返ると、彼女はヒザを抱えて小さくなっていた。痛いのを忘れて蹴ってしまったらしい。
 これでなぜ、自分は抜けてると認められないのか。
 亮太にはさっぱりわからない。


 ――こんな彼女は、名前を、葉山紗織という。
 学園の歴史上初めて、無投票で当選した生徒会長である。


 ――『学園』は正式名称を『葉山学園薫城高等学校』という。
 一般に使っている略称は『葉山薫城』だが、近隣の住人たちには『学園』という愛称のほうが通りがよい。


        ☆


 亮太が紗織と出会ったのは、一年ほど前、入学式のときだった。
 すぐ前の席に紗織が座っていて。かわいい子だなぁ、と見とれていたときのこと。
 校歌斉唱でいっせいに立ち上ったとき。事件は起こった。
 紗織が足を引っかけて、イスを倒したのだ。
 倒されたイスは、一目見て座れないとわかるほど壊れてしまった。
「ちょっと、大丈夫? ケガは?」
 亮太はすぐ助け起こしてやり、さらにイスを交換してやった。父親が大工だったおかげか、直したり組み立てたりするのが亮太の数少ない特技だったりする。
 常に持ち歩いている工具とありあわせの部品を使って、イスは校長の話の間に直ってしまった。
「よし、こんなもんか」
「あ、あの……いろいろしてくれてその、あ、ありが、あ」
「いいってことよ。気にすんな。まあ、立っただけでイス壊したヤツはいままで見たことなかったけどな。普段から、ドジだったりする? くっはははっ」
 笑った次の瞬間――一秒もたたないうちに、もう亮太は頬を激しくビンタされていた。
 式もちょうど、静まり返っていたときで。体育館じゅうに音は響いて。
 事件は、全新入生に知られるところとなった。
 そして教室に戻ってから、クラスメイトからさかんに『お別れのあいさつ』を求められるにいたって、亮太は相手の正体をようやく知ったのだ。
 ――彼女が、学園を経営する葉山家の令嬢だということを。
 幸い、この件で理事側から咎められることはなかったが。
 これ以降、亮太の処分への恐怖心をたてに、紗織の態度はどんどん高圧的になっていった。
 亮太もたまらずいつも言い返すが、紗織の圧力にはたいていかなわない。
 『葉山』に立てつくなんてバカなやつだ、と他の生徒に思われていることは知っている。
 でも亮太は紗織のご機嫌取りなんかする気はない。雇われているならともかく、ここは学校だ。同じ年で、生徒同士なのに気を使うなんて、変だし気持ち悪い。
 紗織の暴風っぷりが全校に伝わるのには、一ヶ月もかからなかった。
 通用門が一晩のうちにひとつ増えていたり、未使用だった教室をカフェテリアに改装させたり、中庭の木を植え替えさせて、翌日にはまたもとに戻させたり。
 極めつきは、彼女に軽いイヤミを言った教師の(恥ずかしい)個人的な写真が、数時間後にはウェブで流されていたことだった。教師は翌日から休むようになり、一週間後には辞表を出して辞めてしまった。
 以降、紗織に無警戒に近寄ってくる生徒はほとんどいなくなった。
 いまの紗織の扱いは、まさに王女様に近い。生徒はおろか教師陣までも、機嫌をそこねさせてはいけないといつもうやうやしく、それでいて適度な距離をとって、彼女と接している。
 無投票当選というのも、人気があるのではなくまわりが遠慮しただけのことなのだ。
 だから、今期の生徒会役員も亮太のほかにはひとり、会計がいるだけ。書記は空席である。
 随時書記募集中の張り紙はあちこちに掲示しているが、すでにその文字も色あせてきている。亮太が書記を兼務しているのが現状だ。
 亮太だって、本当なら生徒会など入る気はなかったのだが。立候補しなかったら殺す、とまで紗織に脅されてはさすがにどうしようもなかった。
 たぶんきっと、卒業するまで紗織は亮太を解放しないだろう。


        ☆


 第七グラウンドから歩いて二十五分。広大な敷地を端から端へ移動して、亮太は校門前にひとりでやって来た。
 ケガをした相手をそのまま置いてくるなんて、本来ならしちゃいけないことだが、紗織が相手では従うしかない。
 気を使って、物陰に隠れて待っていたりなんかしたら、今度はこっちがケガ人になる番だ。
 校門前では、小柄な白衣姿が作業を続けていた。髪もショートので、遠目には男子小学生のように見える。
 校門に白衣――亮太にとっては見慣れたコントラストだ。
 ここ数ヶ月、亮太は彼女とともに、あるシステムの構築に携わっていたのだから。
「もう、終わりそうか? 調整」
「ん、ああ、木野か。お嬢はどうした? 呼びに行ったはずなんだが」
「いや、先に行っててって言われて」
「そうか」
 顔を上げた彼女は、ズレていた眼鏡を腕で押し戻した。袖口は何重にも折り返されて、ぶ厚くなっている。
 彼女が三雲理世【リセ】、生徒会会計である。
 背は亮太の胸にも届かないが、同じ二年生だ。
 あだ名はハカセ――まあ、紗織以外でそう呼んでいる人間を見たことはないが。
 ひとことで彼女のことを説明すると、『天才』、ということになると思う。化学から工学まで、理系のことで彼女にこなせないことは、おそらくひとつもない。
 ただ、もうひとこと説明に付け加えるとするなら、亮太は『奇人』という言葉を選ぶ。
 いつも白衣を着ていることもそうだが、常識から外れているところが多いのだ。
 だいたい、いまの生徒会に自分で立候補して入ったという時点でもう、変わり者ですと自ら触れ回っているようなものなんだが。
「でも、こんなの、実際に使うことなんかあるのか? いまでも俺、作ってよかったのかわからないんだけど」
「使わないのが一番いいことだよ。ただ、あったらあったで気は楽になる。みんなの安心感が増えるなら、それだけで存在する意味はあるんだ」
 理世と亮太が共同で構築にあたっていたもの、それは『学園防衛システム』だ。
 紗織が就任当初、まずぶち上げた極秘計画で、設計・開発は理世、亮太は工事を担当した。
 本来ならちゃんとした業者に依頼するべき規模の工事だったが、けして穏便な計画ではなく、あるいは父親に知られるとマズいという意識もあったんだろう、作業は人の少ない時間帯(土日はもちろんフル回転)を狙って少しずつ進められた。
 十ヶ月の期間を経て、第一期工事がやっと完成したところだ。
 紗織がアイデアを思いついていくかぎりどんどん計画書が厚くなっているので、すべてを完成させるには最低あと五年かかるだろうが。卒業したあと、次代の生徒会が計画を継いでくれるかどうかは不明だ。
 なんだってこんなものを作ろうとしたのか、亮太は本人に訊いてみたことがあるのだが、「あたしの学校よ!? 誰にも傷つけられたくないじゃない」との答えだった。
 普通ならこんな計画、机上の空想で終わってしまうのだが。運がいいのか悪いのか、生徒会には『天才』がいた。
 さらに、『天才』のモットーが「科学は万人の幸福のために使え」だったことで、計画は大きく実行に傾いた。紗織が生徒のためと言えば、理世はなんでも納得して同意してしまうのだ。
「でもよ、だったらなんで武装した学校が日本にひとつもなかったんだ?」
 皮肉のつもりで、亮太は理世に問いかける。
「公表されてないだけだろう。自ら仕掛けを話すなんて、攻略の機会を与えるだけだからな。実際には山ほどあるはずだ。学校という空間の閉鎖的特性が逆に安全を脅かすとわかってから――」
 予想どおり、皮肉はまったく通用しなかった。どころか理世は自論を語り始めている。
「あーストップストップ。その話はまた落ち着いたときにでも」
「おーい! 木野ー!」
 あたふたと話をそらそうとしたとき、誰かが遠くから亮太を呼んだ。
 二十メートルほど向こう、校舎の裏手へ回るところに、ジャージ姿の男女がいた。
 陸上部のふたりだ。
「この前ー、部室のドア直してくれてサンキューなー!」
 大きな感謝に、亮太は手を振って応える。
 亮太は頼まれるまま、あちこちを修理したり補強したりしている。
 一応、生徒会に入る前からやってはいたが、副会長になって知名度があがってから、依頼はどっと増えた。
 紗織は奴隷だなんだとうるさかったが、亮太は嫌になったことは一度もない。
 確かに面倒に思うことだってあるけれど、強引に生徒会に入らされた亮太の力ではこんなことでしか学園に貢献できないし。
 それになんだかんだ言って、感謝される瞬間はうれしい。
「カギかかるようになったからって、いかがわしいことに使うんじゃねーぞ!」
 思いついたからかいを、亮太はちょっとぶつけてみた。
 とたんに、女子のほうが慌てて顔をそむける。
「バ、バカヤロー!」
 男子のほうも動揺を隠しきれず、ふたりはそそくさと校舎の陰に消えていった。
「なんだ、もう使ったあとかよ。変態どもめ」
「あのふたりは、恋人同士なのか?」
 すぐ横に来ていた理世が、いきなり亮太にそう訊ねてくる。
「え、ああ。最近、つきあいだしたみたいで。来月、修学旅行だからな。この時期は増えるんだよ」
「――そうだ、それを木野に訊こうと思っていたんだ」
 理世の眉が、ぴくんと撥ねた。亮太は反射的に身構える。
「なぜ修学旅行前になると、カップルが増えるんだ? 木野なら私より顔も広いし、よく知ってるんじゃないか」
 追い詰めるようなまなざしで、理世は亮太を見上げている。
 知らないことに出くわすと、彼女はいつもこうだ。理解するまで食いついてくる。
「俺もべつにそんな、くわしくはないけど……」
 こうなると、なにか話さないと解放してくれない。亮太は自分なりの考えをなんとか述べようとする。
「修学旅行ってさ、高校で一番でかいイベントだろ。だから、何年たっても思い出として残るんだよ、たぶん。だったら、寂しいより楽しいものを残したいだろ」
「異性といると、それだけで楽しいのか?」
「楽しいっていうか……ドキドキする、のほうが近いかな。高校出たら、もう修学旅行ってないわけだし。そういう最後のイベントに、特別なドキドキを欲しがってる――ってことなんじゃ、ないか、と」
 さすがに、理世に凝視され続けたまま喋るには限界があった。語尾を濁して、亮太は顔をそらす。
「そうか。最後、特別――か」
 理世はアゴに手を当てて、なにやら考えこんでいる。納得してくれたらしい。
「まあ俺は思い出作りなんて雰囲気じゃないだろうけどな。あいつに振り回されてるのがいまから目に浮かぶよ……」
「へーえ。誰があんたを振り回すのかしらね」
 ぎょっとして、亮太は振り返った。
 いつのまに来ていたのか。紗織がすぐうしろで仁王立ちしていた。
 ヒザには、亮太が渡した絆創膏が貼ってある。堂々と立っているところを見ると、もう痛くないんだろう。
「なんだよ。俺はべつに、誰とはまだ言ってないぞ」
「じゃあ言ってみなさいよ。聞いててあげるから。誰があんたを振り回すの?」
「聞いてどうすんだよ。それより防衛システム完成を三人で祝うんじゃなかったのか」
「話を変えないで。それともなに、そんなに聞かれたら困る相手なんだ? ははーん? さては、恋人とかだったりして」
 紗織の目つきが、すぅっと鋭くなる。
「……なんでそこでにらんでくるんだよ。彼女なんかできるわけないだろ。土日もこれ作ってたんだからな。誰かに振り回されたおかげで」
「あたしがいつあんたを振り回したってのよ! 個人的なことにあんたを使ったことは一度もないでしょっ」
「生徒会の仕事つったって、ほとんどお前の思いつきばっかじゃねえか! それも役に立ってんだかわからんものがほとんどだし。防衛システムだって、警備員増やしたらすむことじゃないのか!?」
 亮太もヒートアップしてくる。腕組みをして胸を張って、なるべく険しい顔を意識して紗織に立ち向かう。
 亮太だって、葉山家のことが気にならないわけじゃない。少しは控えたほうがと思うときはある。
 でも紗織はなにかっていうと亮太に突っかかってきて――亮太も引けなくなってしまうのだ。
「あんたのやってる雑用よりよっぽど価値があるわよ! ふらふらと呼ばれるまま出かけちゃって。少しは生徒会の品位ってものを考えなさいよね」
「お前なぁ、生徒会なんか偉くもなんともねぇもんだろ。むしろ奴隷でいいんだ。陰や黒子になってみんなを支え――」
「紗織〜〜、なにしてるんだ。そんなところにいたらダメじゃないか」
 いよいよ佳境に入ってきたところで、緊張感のない声が割り込んできた。校舎から亮太たちのほうへ駆け寄ってくる。
 長身痩躯、色白の顔。それなりの美男と言えなくもない。ぱりっとした制服には、ほこりひとつない。
 紗織の顔から、表情が消える。
射水【イミズ】、さん」
「聞いたよ、グラウンドで転んでケガをしたって。早く保健室でも紗織の個室でも行かないと」
「どうして、それを」
 紗織はケガをしているほうの足を下げて、傷口を隠そうとする。
「偶然第七グランドの近くにいたウチの使用人の娘が携帯で知らせてくれてね――あー、ダメじゃないかこんなの貼っちゃ。傷が残っちゃうだろ。貧乏人はこれでいいけど、紗織は特別なんだから」
 射水はまったく意に介さず、ヒザをのぞきこんだ。絆創膏を見て、いまいましげな顔になる。
「誰だよ、紗織にこんなことしたの。お前か?」
 ぐわっと、射水は亮太のほうを振り返ってきた。
「は、はぁ」
「困るんだよ、お前みたいな貧乏人に勝手なことされちゃ。僕の紗織に傷がついたらどうしてくれるんだよ? 責任取れるか? お前の内臓全部売ったって全然足りない」
射水さん」
 鬼の形相で迫らんとしていた射水のブレザーを、紗織は掴んでいる。
「あの、いいんです、木野だって悪気は」
「悠哉」
「はい?」
「いつも言ってるだろ。僕のことも名前で呼んでくれって。いつまでも照れてる仲じゃないだろう?」
 一変、微笑みを浮かべて、射水は甘くささやく。ご丁寧に、紗織の頬に手を這わせて。
 ――彼の名は射水悠哉。三年生だ。
 葉山と双璧をなす財閥、射水グループ社長の三男で、彼もまた不自由とは縁のない人生を送ってきている。
 おかげで彼も、性格に難がある。階級感覚にやたらうるさく、貧乏人に対する見下しが容赦ない。亮太などは、まともに相手をされたことがない。
 ――そして、紗織の婚約者でもある。
「生徒会なんて、やっぱり紗織には合わないよ。こんな立場にならなくたって、もとからきみの学校なんだから。なんだってできるじゃないか。小汚い連中とつきあってまですることじゃないよ」
「……ぃ」
 うつむいて、紗織は聞き取れない声でなにか返事をする。つい数分前まで言い争いをしていたとは思えないおとなしさで。
「お嬢」
 不意に、いままで黙っていた理世が口を開いた。
 全員の視線が、ひとりに集まる。
 理世は眼鏡をくい、と直して、
「いつも思うのだけど。なぜ素を隠そうとするんだ?」
 ――場の空気が、一気に凍りついた。
 紗織の片目が、なぜか亮太をにらんでくる。射水からは見えないように、器用にも、半分だけ怒りの顔を作って。
「と、とにかく、紗織、手当てに行くよ。時間がたつほど傷は残るんだから」
 射水は紗織の手を引いて、その場からそそくさと離れる。
 ふたりは校舎のなかへ消えていった。
 亮太はため息をついて、理世を見る。
「三雲さぁ、なんであんなこと言うんだよ」
「純粋に疑問に思ったからなんだがな。偽りの自分を続けても、どちらにとっても意味がないと思わないか?」
 反省の色、まったくなし。
「そりゃいつかは、先輩もあいつの正体、知らなきゃならないんだろうけどよ」
「真理を与えてマイナスになるんなら、そんなもの、ずっと続ける価値なんてないさ。……今日はもう解散だな。私も帰る」
 どこか不機嫌な口調で言い残して、理世も校門前をあとにしていった。
 すっきりしない気分のまま、亮太も次の依頼現場に向かった。




        2


 昼休みもなかばを少しすぎたころ。
 亮太は疲れきった体で、二号棟四階の廊下を歩いていた。
 制服のなかが、じとっと汗ばんでいる。鼻の奥にはまだ、油くさいにおいが残っている。
 六月の真昼に、炎天下で壁の塗装なんかするんじゃなかったと、亮太はいまさら後悔する。
(頼まれて、なんでもほいほい受けるからよ。いい気味だわ)
 紗織の勝ち誇った顔が浮かんで、亮太は頬をぴしっと張った。気合いを入れなおす。
 絶対に紗織には疲れを悟られたくない。
 朝イチで理世に塗料を作ってもらって、亮太が作業を始めたのが三時間目の前。休み時間ごとに作業を進め、ようやくさっき終わったところだ。
 すぐに終わると思っていたのだが、案外手間取ってしまった。組み立てや修理のようにはうまくいかず、理世には塗料のおかわりまで作ってもらうことになってしまった。
 いま理世は余った塗料を自分のラボに戻しに行っている。
 ラボがどこにあるのか亮太は知らないが。訊いても「危険物が多いから素人を近づけたくない」と言って教えてくれないので、最近はもうあきらめた。
 ようやく、生徒会室のドアが見えてきた。亮太は手をかける。
「うっ、あ〜〜〜〜」
 クーラーの冷気に、亮太の喉は歓喜の声を鳴らす。
 だが喜びは、一瞬だった。
 部屋の真んなかに置かれた長机に突っ伏すかたちで、紗織がすやすやと眠っていた。
 そしてその足もとには、無残にも割れた水色の壷と、散乱している白い粉。
 紗織の横、長机の上には空のティーカップが転がっていた。そのさらに隣に、白い粉の入った小ビン。
 そこからクッキーの積まれたお盆を挟んで、机の端には水がなみなみと注がれている湯呑みがある。亮太がいつも使っている湯呑みだ。
 亮太は推測する。
 ――紗織は休憩をとろうとしていたんだろう。金持ちの風習なのか知らないが、紗織は夏でも熱い紅茶を好む。
 その用意のなかで、砂糖の壷を落としたのだ。
 割れた壷の破片と一緒になっちゃって、もう砂糖は使えない。そこで小ビンの、予備の砂糖を使ったんだろう。
 で、飲んで食べて、眠くなってしまった、と。
 湯呑みの水は、まさか亮太への気遣いなんだろうか。ここだけは亮太も確信を持てなかった。
 優しい紗織というのがまったく想像できない。
 にしても、床にに残骸を残したまま眠るなんて。
「どういう神経してんだ、お前は?」
 愚痴りつつ、亮太は奥からほうきとちりとりを持ってくる。放置しとけば、必ず紗織がケガするのは目に見えている。
 手早く片して、亮太は紗織の横に腰を下ろす。
 それから湯呑みの水を一息にあおって、どっ、と息をついた。
「ん……」
 紗織の口もとがもにゃもにゃとしている。寝言未満、というやつか。
 亮太はじっと、その横顔に見入る。
「黙ってりゃ、お前もかわいいのになぁ」
 髪はさらりと軽やかに、肩や背中に流れている。手櫛で引っかかったことなんてきっと一度もないだろう。
 半袖の夏服から伸びる腕は細く、白く。少しでも触れたら汚れてしまいそう。
 その腕に埋めている顔は小さく、人形のようだと例えてもまったく言いすぎにならない。
 本当に、この学園の制服に収まってるのがなにかの間違いではないかと思えてくる。
 完璧すぎて、ため息も出ない。
 婚約者がいなければおそらく、学園じゅうの男子の視線を集めていたことだろう。入学式で亮太が魅了されたように。
 親衛隊ができ、下僕志願者が現れ。いま以上の絶対女王制が誕生していたかもしれない。
 紗織に絆創膏を貼られたときの射水の怒りが、亮太にはわかるような気がしてきた。それだけの執着、独占欲を持つ価値が紗織の容姿にはある。
「いつか先輩に、性格がバレたらどうなるんだろうな。あの人、寝こまなきゃいいけど」
 射水もあんな性格だから、どんな紗織でも自分で納得する理屈を作って、受け入れてしまいそうな気はするが。
 亮太は時計を見上げた。昼休みは、もうあと残り五分強しかなかった。夢心地で見とれすぎて、時間のことをすっかり忘れてしまっていた。
 立ち上がって、亮太は紗織の肩を揺する。
「おい、もう起きろよ。授業間に合わねぇぞ」
「う……ん」
 身じろぎして、紗織はまぶたを開けた。倒れていた首があがり、背筋がすっと起きる。
 その顔が、亮太のほうを見る。
 お互いの視線がぶつかる。五秒、十秒……三十秒たってもまだ離れない。
 亮太は離そう離そうとしているのだが、どうしても紗織の深い黒の瞳から逃れられない。
 潤みを帯びた瞳に、吸いこまれてしまっている。
 いままでこんな、至近距離から紗織にじっと見つめられるなんてことはなかった。
「な、なんだよ葉山。はやくしないとほんとに遅れ」
 亮太の言葉は最後まで紡がれなかった。
 紗織の唇に、塞れてしまったから。
「――――!!」
 亮太の手が、空中で固まる。
 一瞬だった。
 顔が近づいてきた、と思う間もなく。亮太はキスされていた。
 事実の認識はできている。人生初キスだとか今日は金曜日だとかもうすぐ授業始まるとか唇ってこんなに柔らかいんだとか紗織っていい香りがするとかキスって熱くって気持ちいいとか、認識はちゃんとできている。
 理解だけが、いっこうに追いつかない。
 理由がない。こんなことをする理由が。まったくもってひとつもない。頭んなかを駆け回って探してみてもやっぱりない。
 紗織がなんで、なんでこんなことをいきなり――――!?!?!?!?
「っはぁっ」
 息を止めていられなくなって、亮太は自分から紗織を引き剥がした。
「な、お、いきなりお前なっ、なにすっ、おっ」
「キス、しちゃったね……えへへ」
 紗織ははにかんだように笑っている。
「えへ、じゃねぇよ! お前、自分がなにしたかちゃんとわかっ、わかって」
「なんでそんなに動揺するのよ。……イヤだったわけ? あたしとキスするの。ねえ」
 紗織は亮太の腕を取った。いまにも泣きだしそうな顔で、亮太を見上げる。
 こんな顔、亮太は見たことない。初めてだ。あの紗織が、わがままで自分のやりたいようにやることしか頭になくて、成層圏まで届くような高いプライドで亮太を困らせてる紗織が、泣き落としを――??
「イ、イヤとかそんなことは――そりゃ、き、気持ちはよかっ――じゃなくて!」
「ほんとに? 気持ちよかった?」
「あ、ああ」
「よかった。嫌われてたらどうしようって……あ、そっか。あたし、順番抜かしちゃってたんだ。いつも抜けてる抜けてるって言われてるけど、ホントにダメだね。肝心なときにやらかしちゃって」
 うつむき加減で、ちろちろと亮太を上目で見ながら、紗織はごまかすように小さく笑う。
「そ、そうだ。ちゃんと理由を説明してもらわないとな。新しい脅しのネタにでもするつもりかもしれんが、こっちだってそう簡単には」
「――あたし、亮太が好きなの。大好き」
 直球だった。
 剛速球だった。
「お……」
 あらゆる思考をぶっ飛ばされ、亮太は言葉を失う。
 目の前にいる紗織が、亮太の知っている紗織と結びつかない。
 顔を合わせればいつも言い争っていて、すぐに蹴ったり殴ったりしてくる紗織と――熱っぽい目で、顔を赤らめて、可憐な乙女そのものといった感じの紗織。
 完全に、両極端だ。
 でも声や顔のかたちは、昨日までの紗織と同じで。
「お、お前……」
 ともかく、告白されたからには返事をしないといけない。
 亮太は自分が紗織とデートしている場面を想い浮かべてみて――やっと、重大なことに気がついた。
「で、でもお前には先輩が、婚約してるじゃないか。なのにその、俺に」
 紗織の顔色が、さぁっと翳った。
「それは……でも信じて。あたし、あたしは亮太が」
 再び、紗織が身を乗りだしてすがりついてくる。反射的に亮太は腰をのけぞらせる。
「とにかく、とにかくだ。いったんまず落ち着こう。な? もうすぐ授業だって始まっちまうし」
 そのとき、ドアががらりとスライドした。
 理世だった。亮太と紗織の視線が、白衣の少女をとらえる。
 理世はふたりと、長机の上の小ビンを何度も見比べて。
「っ……」
 珍しく、その顔を露骨に険しく歪ませた。
 机に歩み寄って、小ビンを引ったくる。
「このビンの薬を飲んだのは、どっちだ?」
「え、あたしだけど。っていうか薬じゃなくて砂糖でしょ。なんか甘くて気持ちいい砂糖だったんだけど。ハカセが作ったの?」
 理世の問いに、紗織が陽気に答える。
「そうか。わかった。――木野、少し廊下に出てきてくれないか」
「え、ああ、いいけど」
 亮太は立ち上がって、理世のあとに続こうとした。
 だが腕を、紗織は離してくれない。
「あたしも行く」
「葉山……」
「亮太と離れたくない。一緒にいてくれなきゃやだ」
 完全に駄々だった。普段からのわがままさが、恋愛と結びつくとこう発揮されるらしい。
 と、理世がポケットから長い紐を取りだして、亮太の手首に結びつけた。
 そして反対側の端を、紗織に手渡す。
「これで離れない、遠くへ行かないから。少しだけ、待っていてくれないか?」
「……うん」
 渋々といった様子で、紗織は納得してくれた。
 亮太たちは廊下に出る。
 理世はいつもどおり、まっすぐ亮太の目を見上げて。小声で話し始めた。
「単刀直入に言う。お嬢が砂糖と間違って飲んだ白い薬。あれは『惚れ薬』だ」
「ほっ、惚れ薬ぃ!?」
 思わず声が裏返ってしまった。理世は黙ってうなずいている。
「そんなもん、作れるのかよ」
「人類が進歩し続ける限り、科学に不可能はない」
 堂々と、理世は言いきってみせる。
 しかし、そんなに簡単にできるものじゃないだろう。
 簡単にできるなら、とっくに惚れ薬が売られているはずだから。
 理世に常識がない点で一番困るのがこういうところだ。自分のやっていることのすごさ、大きさをまったく自覚していない。
「お嬢が一ヶ月前、修学旅行前でみんな恋人を作りたがるから、それに合わせて配りたいと言うんで開発に着手したんだ。カップルが増えれば、痴漢や盗撮、ノゾキの類は減り、恋愛修羅場も減って、校内の治安は向上するとも言われた。その部分については私も納得している」
 真面目な顔で、天才少女は語る。
 ……薬の奪い合いなんかが起きれば、逆に治安が悪化することもあると思うのだが。突っこむと本筋を聞けなくなりそうなので亮太は聞き流しておく。
「昨日、試作品が完成したんだ。ただ、人間における恋愛行動というのは機微が難しいからな。どうしても人間で試しておきたくて、なんとか生徒会の力を使って実験台になってくれる人間を見繕ってもらえないかと、お嬢に頼もうと考えていたんだ。それで、薬を持って生徒会室に来たんだが、留守で。ただ待っていても時間がもったいないから、先に木野に塗料を渡しに行ったんだ。――薬を置いたままにしてしまったのは、私のミスだ。お嬢なら誤飲する可能性があることも、充分考慮しておくべきだった」
 理世ははっきりわかるほどうなだれる。こんな姿も亮太は見たことがないが、あまり驚きを感じない。紗織のせいですっかり感動アンテナが麻痺してしまっている。
「とにかく、あいつは薬のせいでおかしくなってるだけなんだな?」
「そういうことだ」
 亮太はほぉ、と安堵の息を吐いた。
 原因さえわかっていれば、もう動揺することはない。お嬢様、婚約者を捨ててご乱心――とかだったらどうしようかと思っていたが。あれは本心ではないのだ。
「で、いつ切れるんだ? その薬」
「試作品だからな。私にもはっきりとはわからない。一時間か、二時間か……最悪、一日続くこともあるな。減っていた量からしてそれ以上はないだろう」
「い、一日……」
 ――キーン、コーン……
 亮太が臆したところでちょうど、チャイムが鳴り響いた。
 同時に、部屋のなかから紐がぐいぐいっと引っ張られる。
 亮太は抗わず、ドアの内に戻る。
「もうっ、遅すぎ!」
 紗織はドアの真ん前で待ち構えていて、すぐに亮太に抱きついてきた。
 胸もとに、柔らかな感触が当たっている。
 髪から立ち昇る香りが、亮太の鼻腔をくすぐる。
 薬でおかしくなっているだけだと……理屈ではわかっているけれど。この紗織の悪魔的な破壊力は変わらないわけで。
「と、とにかくほら、授業行くぞ。生徒会が揃ってサボりなんてなに言われるか」
 肩を押して、亮太は離れてくれるよううながす。
 逆に、紗織は腕の力を強めた。
「葉山……」
「お願い。ここで、一緒にいて」
 しがみつくように亮太のブレザーを掴んで、紗織は耳もとでつぶやく。
「怖いの。亮太っていつも勝手に、修理とか言ってあたしの知らないところへ行っちゃって。校門でシステムの工事してるはずって思って見に来たら、いつもいないし。あたし、亮太がいないと、いないとっ」
 声を震わせて、紗織は訴えてくる。心の底からおびえている。
 亮太はどうしたらいいのか、と、目で理世に助けを求める。
「服用者の精神的安定を壊したとき、体内でどう作用するか私もまだわかってないからな……危険な状態に陥る恐れもある。木野には申しわけないが、ここは休んでもらえないか」
「そうなると思ったよ。しかたねぇな。いまのこいつには俺しか意味ないみたいだし……」
 亮太は両手を上げて観念のポーズを取る。
 紗織を治す人助けだと思えば、まあ引き受けないわけにはいかない。
「じゃあ木野、あとはなんとか時間を潰してくれ」
 理世はくるりと、回れ右をした。廊下へ出ようとする。
「ちょっ、三雲、お前どこに」
「私がいてはお嬢も気まずいだろう。……それに、いまのふたり、ちょっと鬱陶しい」
 率直すぎる本音を残して、理世はさっさと生徒会室から出て行ってしまった。
 静かな部屋に、亮太と紗織はふたり、残される。
 いまこの階には、授業を行っている教室はない。二号棟の四階にいるのも、亮太たちだけ。
「ふたりっきり、だね」
 あからさまにうれしさを顔に浮かべて、紗織は笑っている。
 亮太は顔をそむけて、部屋の隅にあるソファを指差した。
「しばらく座っとけよ。お前いま、あんまり調子よくないんだから」
「なんで? あたしべつに、どこも痛くないし苦しくもないけど」
「いいから。黙って座っとけ。……座ってる葉山ってかわい――座ってる姿が見たいなぁって、ちょっと思ったんだよ」
 なんとか座ってもらおうと亮太は相手を誉めようとしたが、慣れないことを素面で口にするのは恥ずかしすぎた。
「しょうがないなぁ……頼みを聞いてくれたら、座ってあげる」
 ここぞとばかりに紗織は甘えてくる。
 まあ座ってくれるというなら、聞かない手はない。
「なんだよ、頼みって」
「あ、あたしのことも、名前で呼んで」
 ちょっと照れた調子で、紗織は言った。
「もうあたしたち、知りあって一年以上だよね。でもまだ、名字でしか呼んでくれなくて。……なんだか、亮太との間に壁があるみたいに思ってた。こっ、これからつきあったりするんなら、なおさら、壁はなくさないといけないでしょ?」
 紗織がさっきから自分を名前で呼んでいることには、亮太も気がついていた。わかってて、あえて無視していたのに。
「呼びかたなんてべつに、名字でしか呼びあってなくても親友だとか、そんなのいくらでもあるだろ。壁なんてもんじゃ」
「亮太それって、さっきの……返事? あたしとは、これからも友だちでいよ、うって」
 紗織の声がまた、わなわなと震え始めてきた。
(精神的安定を壊したとき、危険な状態に陥る恐れもある)
「いやっ、いまのは返事とかじゃなくてだな、そのっ」
 亮太は慌ててフォローしようとする。
「俺は、おま――紗織のこと、ただの友だちなんかじゃなくて、もっと深くてしっかりした、その、なんつーか……」
 安心させなきゃとわかってはいるものの。亮太は好きだとか恋人だとかはっきり言うことができなかった。
 表面的な言葉で紗織に愛を語るのは、すごく失礼な気がするのだ。
 たとえ、薬でおかしくなっているとしても。
「……証拠」
「なに?」
「証拠、見せてよ。返事、OKだって言うなら」
 言って、紗織は亮太の胸に飛びこんできた。反射的に、亮太は手で相手の肩を押さえて、受け止めてしまう。
「しょ、証拠って言われても、なにを」
 紗織は上目遣いで見つめてくる。潤んでいる瞳には、強いものが宿っている。
「キスして。今度は亮太から」
「キ……」
 言い返しかけて、亮太はやめる。紗織の口調にはモノを言わせないものがあった。
「してくれなきゃ、一生呪ってやるんだから」
 続けて、紗織は恐ろしいことを言う。おかしくなっているとは言っても、根っこは同じ人間なのだ。わがままさは変わらないらしい。
 亮太は腕のなかの紗織を見つめる。すがりついている紗織は、いつものあの勝ち気さからは想像できないほど、はかなげだ。
 顔色に不安が差しているのは、想いが通じてなかったらどうしようという恐れのせいか。
 紗織の体は、驚くほど細く、頼りなかった。強く抱きしめてしまったら折れてしまうんじゃないかと思うほど。
 胸もとを焼く、吐息は熱く。
 肢体は滑らかで、柔らかく。
 そんな美少女が、いま己の胸のなかにいて。けなげな目で見つめていて。口づけをせがんでいる。
(いや待て、こいつはいまおかしくなってんだから! 普通の状態じゃないんだから!)
 理性という名の壁が、気を抜くと流されそうになる亮太の意識をなんとか引きとめようとしている。
 だが所詮、理性は理性。人類が知性を得てから出来たものにすぎない。
 地球誕生以来、生命種についてまわる『本能』の前では、格が違う。
 ……どうせ一度、紗織から不意打ちでされているではないか。一回も二回も大差ない。むしろ今度は舌入れてやって、こっちから驚かせてやればいいのだ。
「目……閉じろよ」
 かすれた声で、亮太は告げる。
 紗織はうなずいて、まぶたを下ろす。
 変な薬を飲んだやつが悪いのだ。自業自得だ。あとでどうなろうともう知ったこっちゃない。奪って奪って奪いつくして――
「紗織っ!」
 ドアが激しく開け放たれ、亮太は慌てて紗織を突き飛ばした。
 射水だった。肩で息をしながら、大股で迫ってくる。
「や、その、目にゴミが入って取れないって言うんでですね」
 ベッタベタな言いわけを亮太は口にする。
 間一髪、危ういところだった。射水が来なければあのまま、亮太は悪魔の罠に囚われるところだった。
 言われるままにキスしていたら、もとに戻った紗織になにをされていたことか。……太陽系内に残れていない可能性さえある。
「紗織が休講届を出したってメールがきたから、心配してあちこち探し回ったんだよ! こんななんの設備もない部屋にいちゃダメじゃないか」
 射水は紗織をソファに押して強引に座らせる。亮太のことなどまったく視界に入っていない。ハンカチで汗を拭きつつ、説教を垂れている。
 しかし休講届なんて出した憶えは亮太にはないが……もしかしたら、理世が出しておいてくれたのかもしれない。
 それはそれとして、今日ばかりは射水が来てくれたことがかなりありがたい。
「少しのぼせているみたいなんですよ。先輩が家まで送っていってあげてもらえませんか?」
 家に戻して安静にさせておけば、じきに薬は切れる。
 亮太がいなくなることに不安を訴えていた紗織だったが、自宅なら親しい人も多いはず。ひとりでもいられるだろう。
 だが射水はうなずかず、代わりに亮太の胸ぐらを掴んできた。
「お前、そばにいたならなんで保健室でも紗織の個室でも連れていかなかったんだ!? 立場の違いってものをお前、わかってないのか!」
 答える前に、射水の拳が顔に飛んできた。
 亮太は地面に倒される。
「亮太!」
 紗織が悲痛な声を出して駆け寄ってくる。
 その腕を、射水は掴んで引き止めた。
「構うなそんなやつ。行くよ。早くまともなところへ」
「やッ」
 野良犬を振り払うような勢いで、紗織は射水の手を突っぱねた。
「紗織……?」
「あたし、どこも悪くないから。どこも行かない」
 言って、紗織は泣きそうな顔で亮太の頬に手を伸ばす。
「……だいじょうぶ?」
「まあ、昔は親父によく殴られてたしな。だからそんな顔すんなよ」
 亮太は体を起こして、紗織の肩を叩いてやった。
 一方、拒まれた射水は混乱が収まらない。
「どこも悪くないって、じゃあなんで休講届なんか」
「そんなの、あなたに言う必要なんかない。あたしがどう思ってどう行動しようと、あなたに関係ない」
「どっ……どうしたんだい。今日はやけに荒々しいじゃないか」
 射水の顔がますます困惑に染まっていく。無理もない。感情的な紗織を見るのは初めてだろうから。
「と、とにかく授業に出ないと。先生がただってきみのお父様だって心配なさるじゃないか。こんな不良の貧乏人といてもしかたないだろう。さあ」
 あらためて、射水は手を差しだす。
 紗織はそこに、手を重ねない。
「あたしは、行かない」
 いやな空気を亮太は感じた。なにかマズいことになりそうな……いざとなったら取り押さえなきゃと、亮太は紗織に近づこうとして、
「どうして、大っっっっっ嫌いな人と一緒に行かなきゃならないわけ!?」
 紗織の叫びは、射水だけでなく亮太をも固まらせた。
 さらに紗織は続ける。
「そうやっていつもみんなを見下してて、バカにして。あんたのどこがそんなにエラいわけ? あたしの行動をいつも拘束して――」
「わーかった、わかったからとりあえず落ち着け、な?」
 亮太は背後から、紗織の口をムリヤリ手で押さえつけた。
 婚約者を罵るなんて、これも薬のせいなのか? 亮太に惚れてるせいで、もともとの感情に影響を来たしているのだろうか。
「さ、紗織?」
 ショックのあまり、射水は生気の抜け落ちた顔になっている。
 このままでは、薬が抜けたあとも混乱が尾を引きそうだ。なんとかしないと。
「あの、じ、実はですね。休講した理由は、その、薬を誤って飲んでしまったんです。感情の制御がききにくくなっててですね、あることないことをわめいてしまうというか」
 さすがに真相を説明するのは、亮太もためらった。どうせ信じてもらえないのは見えている。
 せめて理世の才能が全校に知れ渡っていれば、『惚れ薬』と言っても信じてもらえたろうに。あの天才は、才能に反比例する勢いで自己主張をしないから。自分がすごいということをまるで理解していないから。
 亮太の話に、射水は首を横に振る。
「紗織が、主治医が出したもの以外の薬を飲むはずないだろう! 市販の安っぽい薬なんか絶対飲まないし、いつもと違う薬が交ざっていてもそんな無用心に飲んだりしない。注意深くて、しっかりした性格だからな」
 ああ。この先輩はお前の抜けてるところも知らないみたいだよ。よくも面倒なお嬢様をずっと演じてくれていたものだ。
「お前、僕の紗織になにを吹きこんだんだ!? ただではおかんぞ、このクソが。紗織と話すだけでもあつかましいのに……本当はな、お前みたいな下流の人間が触れこと自体、許されないんだよ。それをお前、紗織が優しいことにつけこんで」
「いてっ」
「うるさい! あたしに触っていい人間は、あたしが自分で決めるんだから!」
 紗織は、亮太の腕を振りほどいた。
 ……正確には振りほどいたのではなく、亮太の手を噛んだのだが。
「あんたと婚約なんて、もうイヤ。耐えらんない。今日をもって解消させてもらうから」
「かっ」
 たぶん射水は『解消』と言いかけたんだと思う。最後まで言えなかったが。
 事態は最悪の展開を進んでしまった。
 もう亮太には、フォローのしようがない。
「なっ、なぜだ。僕は射水だぞ。『射水』のどこが、どこが気に入らないっていうんだ? 『葉山』とつりあう家なんてほかには」
「さっきもう言った。傲慢なところ。いまみたいにすぐ家の力をイバりたがるところ。でも一番の理由は、あんたのせいじゃない」
「はい?」
 目を真っ赤にしている射水に見せつけるように、紗織は亮太の腕を取った。
「あたしちゃんと、好きな人ができたの。だから、婚約とかもう続けてられない」
 ――最悪の展開は、さらにその上を突き進む。
「はっ、は、はは……はははは」
 亮太は笑うしかない。完全に泥沼だった。
 薬の抜けたあとを想像するだけで、背筋に冷たいものが走る。
 きっと入院する人間が、体や心がぶっ壊れる人間が出てくる。ふたりの仲をなんとか修復する代わりに。――地獄絵図だ。
「じょっ、冗談だろ!? なんでそんな貧乏人なんかと」
「亮太はそうやって、他人を家で見たりしないから。それに優しいし。あんたより全然カッコいいんだから」
 紗織は首に手を回して、べたっと抱きついてくる。肩に、紗織のふにっとした感触がモロに当たる。
 亮太は射水に顔を見られないよう、うつむく。
「お前――射水に逆らって、無事ですむと思うなよ!」
 射水は吠えて、おぼつかない足取りで机を倒しながら部屋から出ていった。
 再び、静寂が戻る。亮太の口から自然と、深い息がこぼれる。
「手、痛かった? ごめんね。……あたし、どうしてもガマンできなくて、あいつに言ってやりたくて……」
 さっき自分が噛んだ手を、紗織は両手で包みこんだ。
 それを口へ持っていき、含む。
「あっ、おい」
「あたし、亮太みたいなのなんにも持ってないから。こんなことしか……」
 亮太の左手の甲を、紗織はちろちろとなめる。
 遠慮がちにするものだから、舌は細かく小さく動いて。かえって生々しい。
 ほろほろと涙をこぼしながら、紗織は一生懸命に亮太の痛みをやわらげようとしている。
「いいよ。そんなに痛くなかったから。だから泣くなって」
 胸の塞がる思いで、亮太は右手で頭を撫でてやった。
 紗織は額を、亮太の胸に預ける。
「ごめんねっ、っく、ごめんね……」
 謝りの言葉は、だんだんしゃくりあげが混じってくちゃくちゃになっていった。
 落ち着かせるように、亮太は背中をさすってやる。
 子どもをなぐさめるときってこんな気分なのかな――と亮太はふと感じた。
 紗織はただ泣いていればいいが、事態はそんなに楽な状況でもない。
 紗織と射水の婚約は、政略結婚的な意味あいも強かった。
 その繋がりを、おかしくなった紗織が切ってしまったわけで。
 亮太も含めた、三人の問題ですむことではない。
(こりゃ三雲に惚れ薬を目の前で作ってもらわないとなぁ……納得させられねぇだろ。けどあいつ、ラボ以外で作ってくれんのかなぁ)
 先のことを思うと不安しか出てこない。亮太は時計を見上げ、ため息をついた。


 (下)に続く