「12月のベロニカ」(貴子潤一郎/富士見書房)

12月のベロニカ (富士見ファンタジア文庫)

 長い間読書を趣味としていると、ごくたまに「引きこまれる」ということがある。目を通したが最後、ほとんど顔をあげることなく終わりまで読みきってしまう現象のことだ。これをオイラは、「一気読み」と勝手に名づけている*1。最も近しい一気読みの例としては「火目」がそうだった。なかばあたりからモニタから目を離せなくなって、結局最後まで一気に読んでしまった。そしてオチに憤慨したわけだが、それは別の話。
 で、この話でオイラは久々に一気読みをやってしまった。
 まず冒頭から、文章の波長がオイラに合っていたことが大きかった。やや苦手の一人称ではあったが、落ち着いた筆致で陶酔したりしているところがほとんどなく、引っかかるところもなかった。文章は伝達力が大事なのではないかと考えているオイラにとっては、こういう癖の少ない文章のほうが相性がいい。
 でもただ、文章が合っていたというだけでは「一気読み」まで至らない。「一気読み」に至る根本原因はやはりストーリーにある。
 この話には、実は構成面である仕掛けがあった。ネタバレに配慮しないと公言しているので語ってしまうが、この話、主人公がふたりいいる。いや、むしろ作者の力の入れようから考ええると、「主人公が読み手のなかで入れ替わってしまう」と言うほうが正しい。
 その構成を可能にしたのは、物語世界内に強固な「システム」を構築し存在させたおかげだろう。タイトルにもなっている「ベロニカ」とは、女神の依代として数十年の長きに渡って眠り続けなければならない存在のことだ。いわゆる社会を運用するための贄、と言えるだろう。そしてベロニカはひとりだけ、自分の身を守ってもらうための騎士を選ぶ。「ベロニカの騎士」に選ばれると、彼女が死ぬまでの間不老不死になり、通常の人間とは異なる領域の存在となる。これもまた、同様に贄といえる。
 このような因習的なシステムというのが、どの時代になっても変わらない、強固なものである――というのは、オイラたちにとってはそれこそ「火目」で再認識したことであるが、それゆえにそれに直面する人間たちにとっては、システムの融通のきかなさを前に苦難を極めるということが珍しくない。歴史的に見ても、偉人と言われている連中のほとんどはその当時の常識を苦労して打破してきたやつらばかりであるわけだし。新しいなにかに至ることに人類がカタルシスを感じる種族である以上、物語の多くもまた、その形態を追いかけることになる。もしくは、それを逆手にとって、悲劇とあきらめのなかで終わらせることも。
 この話もまた、そういうシステムとの対峙をテーマとしている。いや、厳密に言うと少しズレているんだけれども。システムそのものをどうこうというわけではなく、システムという巨大すぎる運命に触れてしまった主人公たちの生き様を追った話なんだけど。思慕、栄達、嫉妬、友情、打算……あらゆる感情の渦が様々な人間たちを呑みこんでいくなか、騎士である主人公は利己と高潔さの狭間で迷い、苦しむ。彼は、結果的にはひとつの道を選んだわけだが、迷いや苦悩がずっと続いていたことは想像に難くない。
 もし因習的なシステムがなかったら、ということをオイラは想像せずにはおれない。もちろん物語上でそんなことが議論されたわけではないのだが、個人の犠牲を強いる「ベロニカ」なるシステムがなければ、彼もあそこまで自己を犠牲にして生きなくてもよかったろうにと思うのだ。ましてやオイラは、ナジミストでもあるし……(笑)
 他人のために自分を犠牲にすることの尊さについては、いまさら語るまでもない。オイラには真似できないし、むしろ自身を省みてただ恥ずかしくなるほどだ。
 そして、尊いからこそ、それを見ている者はせつなくなる。偽善的な同情、と言われればそうかもしれないが、ただ他人のために生きた人間に個人的な幸福という報いが訪れてほしいと勝手に願うことは、それほど悪いことじゃないだろう。とかくこの世は不公平で不平等だからこそ、物語のなかでくらいそれが打ち破られてほしいとオイラは常に思う。この話の高潔さは人の胸を打つし、露骨なハッピーエンドオチでなかったこともまた読後感として正しいものであったが、ただこう、微妙にやるせない気持ちを残させられてしまったのがほんの少し、つらかった。


 ちなみにこの話、あとがきも非常に胸に刺さる。オイラのような時間だけがすぎていってしまったワナビにとって、このあとがきはあまりにも痛い。呪いの道に入ってしまったことなんて、最初からわかっていたはずなのに。それでもいざ真っ暗闇に置かれてみると、心細くて、どこまでいつまでこの道を歩き続けていられるんだろうと不安で……



*1:もっとちゃんとした正式名称があったはずだが、思い出せない