「電撃+小説+投稿」とかで検索して来る人がちょこちょこ見られるようになりました。んー、季節感あふれますな。
 まあはてなの吐く検索スコアの高さには不満ですけど。検索結果にウチごときが出るのはおかしいだろうと。はてなにいくつかあるデカい欠点のひとつだよな。
 で、そんなオイラは前々から言っているとおり電撃をスルー。ファウスト賞に出しました。
 途中から、これでいいのかと思いながら書いていたのですが。


 早い話、「前作よりももっとウザい系で勝負したい」と思っていたのです。で、実際そういう主人公にした。自意識過剰の男子。俺の身内ならどういうものか想像できるでしょう(苦笑)
 で、そういうウザい系を主軸に据えながら、できるだけファウストに寄ろうとしてみた。具体的には、過去の殺人事件を暴くというネタをやったのですが。このネタに関しては、後半かなりバタバタしくなってるので、まったくミステリ経験値が足りてなかったなぁという感覚(反省)がある。
 まあそれはともかく。ウザい系で勝負したいと思っていたのは、やっぱり俺独特のウザさをなんとか生かせないのだろうかなどと浅はかにも考えていたせいなのですね。で、前作は視点者とウザいキャラを別にしてしまったことでウザい印象が薄れてしまったので、ウザさに対するコメントがなく、この問題に関する結論は先送りになってしまった。


 ただ、その考えが、最近変わってしまったんです。
 というのも、プロの某Mさんから前作の感想をいただけまして(Mさんは忙しいかたなので、なかなか時間が取れなかった)。なぜ、前作の受けがよかったのかということがいくつか見えてきたのです。
 つまり、ウザいキャラの調理の問題です。
 あの話は、視点者とウザいキャラを分けた結果、ウザいキャラを自分から突き離して、冷静に観察、描写することができた。
 俺がこれまでウザい系を主人公に据えた話を書くと、内側の記述ばかり過剰になって、まあ作者の自己投影としか見えない存在になってしまっていたんですけど。小説のキャラクタとして命を与えてやるには、それではいかんのですよ。自己完結しているというか、作者だけしか完全な理解はできない仕組みになっているというか。極めて読者層を限定的にしてしまっていると言える。
 でもキャラクタとしての印象って、内外合わさって初めて完成するんですよね。
 ので、自分の主観と深く結びついている存在を出すには、そいつを自分と、書く段階において明確に切り離してやらないといけないのです。
 俺が毒を薄めるためにやった「視点者からはずす」という手段が、結果的にそれにはまった。


 俺は、自分の個性はこのウザさにしかないと長いこと思っていました。だからこそそれで勝負できないかなどと考えて、ウザさを主軸に据えた話を多く書いていたのですが。
 主軸に据えると、毒気が強すぎて(同時に自己完結性が強すぎて)人に読んでもらえないんじゃないかと――いまは考えています。前作の受けた理由は、視点者のポジティヴ的な性格がうまくできていたことと、ひとつの事象に対して異なる考えを持った存在を3人出せたこと(自己投影・自己反転以外の存在を書けるかということ)にあったようですし(Mさんいわく)
 ウザさは確かに俺の特色ですけど。それのみにこだわって書くことに客観的な意味はないんじゃないかと。意味があるとしたらそれは自分のなかだけ(自己満足というか)で。


 で、まとめると、ウザさ主軸話をいま書いてよかったのかなぁ、という後悔がある、ということです。
 いやまあ、あらためて見ると今回の視点者、そんなに他者を拒んでないし、悲観にも染まってないけど。現実の速度に戸惑ってる点で、適応不順とは言えるか。しかし視点者とヒロインだけで話が進んでるように見えるのはやっぱマズいよなぁ。
 迷いながら暗い森をきょうもあしたも歩いて行くしかないみたいだわ。