「ぼくらのサイテーの夏」(笹生陽子/講談社)

ぼくらのサイテーの夏 (講談社文庫)

 デビュー作を、このたび文庫再版したもの。
 正直、プロット的な整合性が不足というか、きちっきちっと系統だってイベントが起こっていない。ツッコミどころはそれなりにある。
 しかし、だ。勝手な推測ではあるが、この話ははじめから整合性の面は狙っていなかったのではないかと思う。
 リアルの社会というのは、物語のようにフロチャート進行で物事が進んでいくわけではない。なんの脈絡も繋がりもなく、いろんなことが好き勝手に起こっていく。
 この話は、子どもの視点から眺めた大人社会の混濁を、子どもの感性でまとめたものだ。子どもであるから当然、社会のシステムのすべてを知っているわけではない。そこには子ども独自の、出来事の背景に対する類推もあるし、結局なんでなのかわからないまま物事に進んでいかれてしまうことだってある。そこにあるのは、大人が感じているものよりさらにグチャグチャした、大きな「シャカイ」だ。
 イベントの意味合いを積み重ねていく整合的なプロットではなく、むしろ主人公の内心に感情を重ねていくかたちを作者がとったのは、そうしたリアル感を出したかったからではないだろうか。リアリティのある現実を前にしてときに懊悩し、ときに笑ってみせる少年を真んなかに据えた本作は、まっとうなジュヴナイルであると言えるのではないだろうか。


 ……余談ですが、描写のセンスとか主人公のキャラとか、うまいなぁと思わされました。特にキャラがね。こういう、背伸びしていきがって自分を大きく見せようっていう小生意気なやつ、オイラ書けないんだよなぁ。どうしても、理屈と計算が先にたって自分を引っこめるような男の子が多くなってしまう。後悔すると頭のどこかでわかっていても背伸びせずにはいられない不器用さ――書けないもんかなぁ。