クロッシングマインド 第2章

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 遠くのほうで、みみずくの低い鳴き声がした。
 亮介は首を木の根に預けて、頭上を見上げていた。枝葉はその影を複雑に入り組ませ、夜空をバックに奇妙な模様を描いている。
 規則正しい寝息がそばから聞こえている。
 眠気を潰すため、亮介はまぶたをつねった。目の前にあるはずの自分の手が、まったく見えない。
 夜の森は、完全な闇の世界だった。
 亮介にとって、こんな暗さは初めて体験するものだ。耳や鼻、手触りだけで状況を認識しなきゃいけないことに不安を覚える。
 さっきから時々、みみずくの鳴き声がする。虫の声はやむひまがない。特に臭いはしないけど、もたれている幹のごわごわした感触は気持ち悪い。地面も硬いし。
 そのとき近くで、しわがれた鳥の長い鳴き声がした。亮介は一瞬、体をびくっとさせる。上半身を起こして、腰を引っぱり上げようとした。
「つっ」
 誤って、足の裏を地面に当ててしまった。顔を力ませて、亮介は痛みをこらえる。もしかしたら絆創膏がずれたかもしれない。割れたガラスの上に立って、しかもそのあと走りまでして無事なわけはなかった。そんなに傷が深くなかったのが幸いだったが。
 足を引き寄せて、絆創膏を確認する。よかった、ずれていない。安堵して、亮介はまた足を伸ばす。
 あのあともしつこく敵の攻撃があって、またさらに逃げた。暗いなかでも敵は正確に亮介たちを狙ってきて、おかげでさっきよりも深い山のなかにまで来てしまった。
 ここでようやく、体を返してもらった。逃げるには宇宙人たちが動かしているのがいいのだが、ずっと他人の精神が動かしていると体に負担がかかって消耗が早くなるらしい。
 もちろんこんな状態だから、休むにしても見張りを立てることになる。協議するまでもなく、亮介とガーティスで、つまり亮介の体だけですることになった。王女様の体力を減らしてしまっては、なんのための護衛かわからないわけだし。
 片方が起きて肉体を制御し、見張りをする。その間、精神だけになっているもう片方が睡眠をとる。それを夜通し繰り返す。なんでも、精神の睡眠と肉体の睡眠っていうのがあるらしい。体力を回復させるのが肉体の睡眠で、精神の睡眠は判断力や思考力、注意力とかを回復させるものだとか。早い話、亮介の体は体力の回復をできないことになる。他に優先すべき相手があるのでしょうがないけど。
 話し合いの結果、亮介が先に見張りをすることになった。
 まあ、先に寝るほうを選んでも、とても眠れそうになかったからそうしたのだけれど。不安と緊張、謎だらけの状況、それにこの暗さだ。寝つく前に交代の時間になってしまうだろう。
 相変わらず、規則正しい寝息が隣から聞こえてくる。
 こんなときに寝られるなんて、有希はどんな神経してるんだろうか。この強さの十分の一でも自分にあったら、と亮介は思ってしまう。
 まあ、有希は夕方の時点でもう心の整理がついていたみたいだし。とっくに落ち着いているんなら、眠るのも簡単だろう。
 ……夕方、か。
 また、思い出してしまった。あんなに我を忘れてわめいてしまったことを。
 それも、好きな相手の見ている前であんな――
 自然と、ため息が漏れた。
 こうなった以上、覚悟を決めなきゃいけないんだってわかってる。あいつらの言うとおり、捕まったらただじゃすまないだろうし。自分の命のためにもあいつらに協力して逃げなきゃいけない。
 そこまでわかってはいるけど、頭のどこかがまだ納得してくれていない。なんで自分がこんな目に、って気持ちが頑固に居座っている。なんて、子供じみた気持ちだろう。勇気がなくて、いつも逃げることばかり考えている自分らしいとは思うけど。
 有希の寝息が、耳に入ってくる。
 穏やかな空気の音が、同じリズムを刻み続けている。すぅ。ふぁ。すぅ。ふぁ。す――
 亮介は、無意識に有希のほうを見つめてしまっていた。はっとして、慌てて頭を振る。しかし理性はすぐにまた敗退する。
 ドキドキするな、というほうが無理な話だった。自分がこれまで、さんざん思い描いてきた妄想の主役が、手の届くところに、それも無防備なかたちでいるのだから。
 立ち上がりかけて、亮介はまた頭を振る。そんなことをしている場合ではない。
 でも、敵の来そうな気配はないし、ちょっとだけなら……
 亮介はごくり息を飲むと、四つんばいになった。右手を伸ばして、闇のなかを進む。
 すぐに、寝袋の感触を得た。かたちからして足先だろう。ちなみに寝袋は有希が持ってきたものだ。なにをザックに入れてきたのかと思ったら、寝袋とかコッヘルなんかのキャンプ用品だった。
 そのまま手を寝袋に当たらないすれすれの高さに保って、上へ移動させていく。頭のなかは真っ白だ。意識はただ、体があるあたりの暗闇をじっと見ることだけに集中している。
 わずかに上下する有希の顎の先に、手が触れた。行きすぎてしまったようだ。ひんやりとした肌の感じに、全身が震える。それは歓喜のせいか、緊張のせいか。
 この下に、いよいよ――
『ん。様子はどうだ』
 亮介は飛び上がって、一瞬で元の位置にまで戻った。
「バカっ。い、いきなり声なんか出すなっ」
 小声で、亮介は怒鳴りつける。心臓がバカみたいに暴れている。有希に当たらずに戻れたのは奇跡としか言いようがない。
『なにか、まずいことでもあったのか』
 ガーティスはきょとんとした声で言う。
 まさか胸を触ろうとしていたなんて、死んでも説明できない。
「だいたいお前、俺の中にいるんだろ。だったら声に出さずに心の中で会話とかできないのかよ」
『試してみるか?』
 言って、お互いに黙りこむ。
 また遠くのほうで、みみずくが鳴いていた。
『どうだ?』
「いや。なんにも」
 期待はずれの結果に、亮介は肩を落とした。これから先もたっぷり邪魔されそうである。
『それより、こちらも訊きたいことがあるんだが』
「なんだよ」
『ふたりの名前を、教えて欲しい』
「え、あ、ああ」
 そういえば、まだ言ってなかったっけ。
 亮介は頭を掻きながら、口を開く。
「ええと、俺は清水亮介。名字とか名前とかってわかるか? 簡単に言うと、一族全体につく共通の名称とかあるだろ。それが名字。で、ひとりひとりについてるのが名前。お前らの星ではどうか知らないけど、ここでは名字が先で名前があとになるんだ」
『私たちと同じ順序だな。つまり〝亮介〟が個人名になる、と。それで、あっちは?』
「ああ、あっちが――早瀬有希」
 一瞬、口ごもってしまう。その名前を口にすることが、どこか照れくさかった。
『ふむ。〝亮介〟に〝有希〟だな』
 ガーティスは、しっかり覚えようというのか、名前をあらためて口にのぼらせた。初めて聞くタイプの名前だろうから、すぐ覚えられるだろう。
 そのときふと、亮介はあることに気づいた。
「そういやさ、ずっと、なんか変だなと思ってたんだけど」
 そう、それは違和感のようなものだ。その正体がわからなかったが、ようやく、なにが変なのかわかった。
「なんでお前ら、日本語喋ってるんだ?」
 あまりにも自然に日本語を喋っていたので、いままでまったく気がつかなかった。宇宙人が流暢に日本語を話しているなんて、圧倒的に変なことだのに。
『それは、この体の中に今ある能力のなかで、最もこの体に適しているのが日本語だからだ。私も知らなかったが、どうやらふたつ以上の精神を体に詰めると、そのふたりの能力を共有できるらしい。おそらくそっちも、ウィレール語を理解できるようになってると思う』
「そうなのか? それっぽいのはなんにも浮かんでこないんだけど」
 文字はおろか、音の体系さえ頭のなかにない。
『そうか? 私はさっきからウィレール語に切り替えて話しているんだが。聞いて意味はとれるということか。……もしかしたら、親和性の問題もあるかもしれない。ウィレール語とこの星の人間との相性がいまひとつというか。ウィレール人とこの星の言語の相性が普通でも、逆が合わないことは充分起こりえると思う』
「ううん。そんなもんなのか?」
『互換性というのは、常に発揮されるものじゃない。対称でない結果が出ることは、宇宙ではよくあることだし。まあ、これから普段の会話はこの星の言葉で通すよ』
 ガーティスは二度三度喉を絞って、調子を元に戻そうとする。
 そこで、会話が途切れてしまった。
 なんとはなく、亮介は周囲の闇を見回す。相変わらず、のっぺりとした平たい黒が広がっている。陰影による立体感がまったく出来ないから、平面的に映る。
 と、不意にあくびがこぼれた。気持ちと違って、体は正直らしい。
「でもあれだけ走ったわりには、あんまり体、疲れてないんだよな。これもお前らのせいか?」
 足とか、もっとガタガタになってると思っていたのだが、いまのことろそういう感じはない。
『認識の問題だろう。体を動かしたという実感がないものだから、意識がまだ疲れを認識できてないんだ。明日になったら一気にくると思う。それもかなりひどく。この星の体でできる動きの限界近くのことをやってしまったし。本当に、すまない。こんなことに巻きこんでしまって』
「いいよ、もう。それは」
 謝ろうとするガーティスを、亮介は制した。
 そうやって変に気遣われると、夕方の感情がまたぶり返してきそうになる。
 その気使いも、全部、俺たちを利用しやすくするための方便なんだろ――そんな、言ってもしかたのない言葉を、亮介は押さえつける。
『いや、体や精神の負担のことだけじゃない。あいつらはおそらく、関係のない亮介や有希もためらうことなく攻撃してくるだろうから。ひとりふたりなら宙連の目もどうにかなるってわかってるだろうし』
「なんだよ、その〝ひとりふたりなら〟って」
 亮介にはその言いかたが引っかかった。自分たちのことは、単なる数の都合で変わってしまうというのか。
『宙連――宇宙連合の定める憲章では、外宇宙航行能力を有さない惑星の住民に対する過度の干渉は禁止されている。あいつらが私たちを探すために山を焼き払ったり、空爆したりしないのはそのためだ。百人単位で影響が出るからな。しかしそもそも、宙連はこんな辺境の星に対してそう強い監視体制を引いてはいないんだ。だから、表に出にくい個人レベルのことなら、おそらくごまかせる』
 なにやらまた、スケールの大きなことを言われてしまった。亮介はしばし唖然とする。
 でも、ひとつだけ、言われたことの意味がよくわかったところがあった。
「そっか。〝個人レベル〟のことならごまかせるから、お前らも俺たちに入ったんだな」
 皮肉たっぷりな言葉が、亮介の口からすべり落ちてしまった。言ってから、しまったと思うが、すでに遅い。
『それは……どれだけ言いわけしてもその通りだな。すまない』
「だから謝らなくっていいって」
 べつに、宇宙人を謝らせたいなんて思ってたわけじゃない。相手にはとっくに罪の意識があって、本当に自分たちに対して申しわけないって思ってることはわかってる。こいつらがどれだけ必死でやってるかを考えたら、道具のように謝罪の言葉を連発するわけなんてない。
 それなのに。
 胸の奥から、まるで蛇の舌みたいにちろちろと刺々しい感情が顔をのぞかせてくる。皮肉を吐き出させたのはこいつのせいだ。まだ抵抗するってのかてめえは。
 亮介はなんとかそいつを黙らせようとした。力んだ舌が、口のなかで上あごとくっつく。
『ところで、亮介と有希はどういう関係なんだ?』
「ぶっ」
 そこへいきなり、そんなことを訊かれたもんだから、亮介は吹きだしてしまった。
「な、なんでそんなこと訊くんだよ?」
 ふたりの関係。
 なんて魅力的な言葉だろう。そこにはなにか、特別な意味が含まれている気がする。例えば、ずっと疎遠だったけど本当は結ばれる運命にある幼なじみ、だとか。
 頭のなかに妄想が広がっていく。みるみるうちに、体が熱くなる。
『もし有希が、亮介の大切な人だったら、これから亮介にはとても心苦しい思いを強いてしまうことになるからだ。向こうの狙いはシュリア様の捕縛なんだから。当然、有希のほうが危険にさらされることが多くなる』
 言われて、一気に体の熱が冷えた。
 よく考えればその通りだった。自分より有希のほうが、ずっと危険な立場にいるのだ。
「そっか。そうだよな」
 亮介はうつむき、そこにあるはずの手のひらを見つめる。
 有希はこんな目にあっているってのに、それをもうとっくに受け入れている。それも、自分よりよっぽど危険なことに巻きこまれたのに。泣き言ひとつ言っていない。
 自分がわめいているのを、有希はどんな気持ちで見ていたんだろう。
 恥ずかしい。本当に恥ずかしい。
 むしろ、もっと有希のことを心配しなきゃいけなかったのに。
 亮介は両の手のひらを、ぐっと握り締めた。心の奥の蛇が、みるみる小さくなっていく。
 いま、この状況で、有希を護ることができるのは、自分しかいない。
 自分が護らなきゃ――いや、護らないといけない。この宇宙人――ガーティスは有希の中の王女様を護るだけで精一杯なんだから。有希を護れるのは自分だけだ。
 亮介のなかで、なにかが吹っ切れた。
「俺、さ。なんとか頑張ってみるよ。どれだけお前らの力になれるか、わからないけど」
 亮介の胸の奥が、冷えて固まっていく。固まって、そこに新しい火がともされる。
 それは明るく、熱く、高々と猛る炎。
『そうか。ありがとう』
 噛み締めるようにしてガーティスは言った。そしてそれっきりまた押し黙る。
 亮介は腰の位置をなおして、それからまた頭上を仰いだ。重なり合う木々の隙間から、夜空がわずかに覗いている。まるで黒い紙に細かく穴を開けたように。
 あそこから、この宇宙人たちはやって来たのだ。
「お前らってさ、ほんとに遠いとこから来たんだよな」
『ああ』
「そんなに、地球って田舎なのか?」
『田舎というか、航路から大きくはずれているから、近寄る機会がない。ただ、それだけ手付かずでいるからなのか、あの青と白の見事なコントラストはどこの宙域を探しても見つからないだろう。初めて見たとき、私もシュリア様も目を奪われたよ』
「へえ、そうか。へっへへ」
 自分が褒められたわけでもないのに、亮介は嬉しくなって頬が緩んだ。
『でもウィレールだって、負けないくらい、すごく、綺麗なんだ』
 ガーティスが低い声で、そうつぶやく。そしてまた、黙りこんでしまった。
 亮介は顔を頭上から戻し、前方へと視線を向ける。
 たぶん、思い出してるんだろう。クーデターで故郷を追い出されて、遠くの星まで来てしまって。故郷を思わないはずはない。
「そのさ、お前らの星って、どんな感じなんだ? ほら、綺麗って言ってもいろいろ系統があるだろ」
 思ったことがそのまま言葉になって、亮介の口をついた。
 言って、また沈黙がおりる。内容の整理がつかないのか、あるいは、話したくないのか。ガーティスは口をなかなか開かなかった。うながすでもなく、ただ亮介は耳をすませて、じっと待つ。
 やがて、亮介の喉が震え始めた。
『初めて宇宙からウィレールを見たときのことは、よく覚えている。十五のとき、一番上の兄さんと姉さんに連れられてだった。ザンファートローの光に照らされて冴え冴えとしていて、すごく知的な星だと思ったよ。自分たちの民族によく似合ってるとも思った』
 虫の音が涼やかに、亮介たちを囲んでいる。
「お前、兄弟がいるのか」
『ああ。私は六人兄弟で、上に兄がふたり、姉がふたり。下には弟がいる。私は特に一番上の兄さんに憧れていたから、そのときはすごく楽しかった。兄さんは、宮廷特務隊だったんだ』
「ふうん。じゃ、そのお兄さんに続いて、特務隊になったのか」
『ああ。しがない軍人一家の我が家から特務隊に選ばれた兄さんを、私は誇りに思っていたんだ。家柄の良い家の息子しか、普通は選ばれないし、それに王家を護ることは、みんなが憧れる、とても名誉なことだから』
「でも、その特務隊も、みんな裏切ったっていうんだろ? あ、べつに王家が悪かったみんな裏切ったとか、そういうことを言いたいんじゃないから」
 亮介は慌てて、両手を左右に振る。
 気にするふうもなく、ガーティスは語り続けた。
『どうしようもなかったんだ。特務隊というのは本来、実戦に参加しないものだから、覇気のない良家の坊っちゃんばかり集まってくる。そんな良家の坊っちゃんたちに、流れに逆らう意気地はないし。それに家族のこともあるから、自分の意思だけを通すことなんてできやしないよ。見せしめの意味も込めて、抵抗した者の家族はすべて捕縛されただろう。……私の家族も、ひどい目に遭っていると思う。だから、私は、どんなことをしてでも、シュリア様を連れて帰って、王家を』
 ガーティスの声がそこで詰まった。
 亮介はずれていた腰を引っぱり上げ、姿勢を正す。なんだか、正したくなる雰囲気を感じた。
「そんなにひどいやつらなのか。その、クーデターを起こしたやつらは」
『あいつらは、力で人々を支配しようとしているんだ。民主化だとか、聞こえの良い言葉を使ってはいるが、結局は自分たちが実権を握りたいだけなんだ。そんなくだらないことのために、陛下は――』
 喉の奥がわなわなと震えている。ガーティスの悔しさが、亮介にも伝わってくる。
 亮介は膝に置いた腕のなかに鼻から下を埋め、闇をじっと見つめた。
 いま、ガーティスが言ったこと。兄弟への思慕や愛情、人の脆さ、利己的な部分、そしてそこに生まれる怒りや悲しみ。
 なにも、変わらないんじゃないか。
 文化も違う。習慣も違う。体のしくみも大きさも違う。だけど、基本的なことは、地球人もこの宇宙人たちも同じなんじゃないか。
「案外、宇宙って狭いんだな」
 そう思うと、なんだか親近感が沸いてきた。この宇宙人たちとは案外仲良くなれるかもしれない、と、亮介は思った。


 またあの浮遊感にたっぷり付き合わされて、亮介はガーティスと交替した。
 体から離されて、精神がむき出しの状態になる。けど不思議と、夕方のような怖さはなかった。自分の中だから、暗くてもよく知っている、ということだろうか。
 しかし、どうやって寝ればいいんだろう。
 体があるなら、目を閉じてじっとしてればそのうちどうにかなる。でもこの状態だと、自分で目を閉じることができない。意識的に、見えてることを〝ないこと〟にできればいいんだけど。
 箱の中から、穴を覗いているような見えかたをしているのだから……ひょっとして、反対側には穴は開いていない?
 試しに、自分を回転させてみようとする。お、ちょっと横に動いた。すこじずつしかできないけど、動かせないことはなさそうだ。このまま見えなくなるところまで――
『亮介』
 ガーティスの声で、亮介の意識は戻された。三〇度ぐらいのところまでいってたのに。
「ん。なんだよ……」
『やつらだ』
 そう言うガーティスは、有希の肩をつかんで揺すっている。すぐに有希、そして中のシュリアも目を覚ました。
『シュリア様、移動します。替わってください』
『ん……』
 一瞬の間があって、有希の纏う雰囲気が変わる。
『まだ見つかってはいません。気づかれないうちに、このまま山を下ります』
 ガーティスは有希の手をつかむと、足音に気をつけながら山を下り始めた。


        *


 空が白んできて、街の様子が徐々に見えてきた。電線の上で、雀たちが口やかましく会話を交わしている。空はよく晴れていて、雲ひとつない。
 立ちこめる朝靄のなかを新聞を積んだカブが走り抜けていく。寒さに肩をすくめている配達員は、亮介たちに気づかなかった。抜け終えて、また通りに静寂が戻る。
 いかにも寒そうな朝だったが、体を動かしている宇宙人たちはあまりこたえている様子はない。活発に足を動かして走っている。
 あれから少しして、敵に見つかってしまった。
 傾斜地で、向こうのほうが上にいたから、立ち止まるのは危ないと考えたのだろう。ガーティスは繁みもなにも構わず一直線に山を駆け下りた。
 街に下りてからもさらに逃げて、いまようやく、夜が明けだしたところである。
 路地を抜けると、目の前がぱっと開けた。眼下、一段低いところを川が流れている。その両岸にはそれなりの幅の河川敷。土手には一級河川の看板がある。左手に目をやると、味気ないコンクリートの欄干がかかった橋があった。
「もう、撒けたのか?」
 自分では思うように見回せない亮介は、ガーティスに訊ねた。しばらく前から、敵の攻撃はやんでいる。
『どうだろう。確かに攻撃はないが』
「だったらさ、ちょっと休憩しようぜ。そこの橋の下で。走り通しってのはマズいんだろ」
『そう、だな。ではシュリア様。あちらへ』
 ガーティスはシュリアに向けて、橋のほうを指示した。自分の手が――制服の袖がはっきりと目に入る。
「おい、ちょっと待て。いや、走りながらでいいから、とにかく速く走れ」
『なんだ?』
「いいから。急げって」
 追い立てられるかたちで、ガーティスたちは足を速めた。橋のたもと近くまで来て、足を土手のほうに進める。そして斜面に茂る芝生の上を滑って、一気に橋の下に入った。
『で、なにが気になったんだ?』
 ガーティスの声は苛立ちを含んでいる。
「あのな、なんでこんなに制服がボロボロなんだよ。あ、どうせまた説明しなきゃならないだろうからちょっと体替われ」
 少しの間のあと、ガーティスはあっさり体を亮介に返した。一瞬、心地よいフィット感に気分がほわっとするが、すぐに亮介は頭を振ってそれを追いだす。袖をつまんで、自分の制服を見た。
 制服には無数の傷がついていて、穴が開いているところもあった。傷は深く生地をえぐっていたりして、まるで渓谷ができたみたいにも見える。茶色や緑の汚れもいくつかついていた。山を走って下りてきたときについた傷だろう。
「あーっ」
 有希も気づいたらしい。あっちも体を返してもらったんだろう。首や手をせわしなく動かして、ブレザーをくまなくチェックしている。
「ちょっとこれ、どういうこと」
 しかも有希はスカートだから、むき出しの足にいくつか生傷ができている。血こそ出ていないが、赤くみみず腫れていて、痛々しい。
 しかも。
「あの、さ。また、裾――出てる」
 亮介は有希のほうを見ないで、それを教えた。
「ほんと信じらんない!」
 有希は急いでスカートのなかに裾をしまいこむ。
「昨日、服のことはちゃんと説明したじゃない」
『うぅん。走りにくいと、無意識にやっちゃうみたい。わかってはいるんだけど、なんとも……』
「……はあ」
 有希がため息をついて、頭を抱えた。
 亮介は上着を脱いで、パタパタとはたいてみる。小さい葉っぱや枝、それに土埃が地面に落ちていった。あらためて全体を見てみると、かなりひどい。ボロボロだ。
「枝を避けながら走るとか、お前らしないわけ?」
『なんでそんなことをするんだ』
 そんな言葉を返されるとは思ってもみなくて、亮介は絶句する。
 が、よく考えてみれば、彼らは体を乗り替えるという宇宙人だった。
「この体は、俺たちにとっては、一生でこのひとつだけなんだ。替わりはないわけ。簡単に傷つけられちゃまずいんだよ。お前らがいつもどれだけ体を雑に扱ってるか知らないけど、この体は大事に扱ってくれないと困るの。わかるか?」
 亮介の言葉に、数秒、沈黙が続いた。
『それが〝服〟を傷つけないことと、どう関わりがあるんだ? 我々の体と〝服〟が同じようなものなら、替えることができるんだろう。なにをそんなにこだわっているのかわからない』
 どうも話がまとまらない。なんと説明したらいいのだろう。
 と、そこへ有希が口を挟んできた。
「ひょっとして、体ってすごく、安いの?」
『高いものもあるが、基本的にはタダ同然だ』
 なるほど、そこが盲点だったのか。彼らにとって体がその程度の価値しかないものなら、話がすべて噛み合う。そこに気づけなかった自分は相変わらず情けないけど。
 亮介は上着を羽織り直すと、ひとつ、咳払いをした。
「それじゃあ、こう考えてくれ。服はお前らの体に比べて、すっごく高いものなんだ。だから大事に丁寧に扱わないとまずいわけ。しょっちゅう買い替えてたら破産しちまうし」
『……そうか。不思議なものなのだな』
 わかったのかわかってないのか、不安になる返事をガーティスは返してきた。まあこれでわかってくれなきゃ、かなりこっちは困るんだけど。
 そのとき、シュリアが別角度の質問を投げかけてきた。
『じゃあ訊くけど、裸が恥ずかしいってのは体の替えがないってことと、なにか関係があるの?』
「い、いや、そういうわけじゃ、ない、けど……」
 亮介は口ごもってしまった。なんだか、話が微妙な方向に進みそうだ。
『じゃあ、どうして?』
 シュリアはこっちの様子を気にも留めず、さらに突っこんでくる。
 いままで当たりまえに思ってきて、疑問なんて持ったこともないことばかり訊かれるから説明しづらいのに、よりによってこんな話題を……
 困っていると、やはり有希が口を開いてくれた。
「その……ふたりの星じゃ、どうやって子孫とか、つく――残すの?」
 どうやら回り道はしないで、直球で決めてしまうつもりらしい。
 亮介は有希のほうを見ていられなくて、川向こうに目をやった。早朝からジョギングや犬の散歩をしている人たちの視線がこちらに注がれている。どの人の視線も、すごく冷たい気がする。耐えられなくなって、亮介は有希のほうへ向き直った。
『生殖のことか? 試験管にお互いの固有遺伝子を――これは生まれたときに王国生殖局に登録されるんだが、それをかけあわせる。まだ精神が分離できる技術がなかった大昔は、もっと原始的な方法が取られていたらしいが。詳しいことは知らない』
 ガーティスの言葉に、有希の表情が固まってしまった。亮介の体もドクン、と脈打つ。
 原始的。
 なるほど、地球が田舎だとか未開の星だとか言われるわけがなんとなくわかった。彼らにも男と女があるのだから、その原始的なやりかたというのは、たぶん、地球とたいして変わらないのだろう。
 どこか吹っ切れた亮介は、改めて説明を切りだした。
「ま、早い話が、地球はまだその原始的なことをやってるんだよ。で、そういうのは人前でやるもんじゃないわけ。裸は〝それ〟を連想させるから、だから人前では裸にならないわけで」
『ふぅん』
 シュリアが感心したように、声を出す。
 これでわかってくれただろう。亮介は安心して、手を広げて大きく伸びをして、
『もしよかったらなんだが……ちょっとやってみせてくれないか。〝それ〟を。説明されるよりよくわかると思うから。連想させるってことは、裸ですることなんだろう?』
 吹き出した。
「できるかっ!」
 その突っこみが、なんと有希のそれとぴったり重なってしまった。ふたりとも同じタイミング、同じ単語で突っこむとは。体が熱くなってくる。また見ていられなくなって、亮介は有希に背を向けた。
 どうやら、完全に理解させるにはまだまだ時間がかかりそうである。
「そ、そういや、こんなことばっかり話しててすっかり忘れてたけど、俺たち、靴どうしようか」
 背を向けたまま、亮介は上着をつまんでバタバタさせながら有希に話しかけた。
「あ、そうだね。制服は、どうしよっか」
「着替えてもたぶんまたボロボロにされるだろうから、もうずっと俺はこれでいくよ。あきらめた。下着ぐらいはそりゃ替えるけど、まず靴だよな。俺は足の裏ケガしてるし。でもどうやって買うか……」
「普通にお店で買えばいいんじゃないの?」
 有希が不思議そうな顔をしている。裸足で靴を買いに行って恥ずかしくないんだろうか。その絵を想像するとひどく間抜けに思えるんだけれど。
 それともまた、単に自分が弱いだけか。
「まあ、歩きながら相談しよう。ここから移動するけど、いいよな?」
『ん……ああ。近くにやつらの気配はない』
 ガーティスの返事を聞いて、亮介は土手の階段を登り始めた。


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