クロッシングマインド 第3章 その2

 入口には〝営業中〟と書かれた木の札がかけられていた。向かって右手に赤い暖簾、左側が青い暖簾――男湯になっている。
 亮介は暖簾に手を差し、奥を覗こうとして――そこで肝心なことを思い出した。
「そういや、タオルとか石けんは買わなきゃいけないんだよな」
 亮介は舌打ちをする。それから大きく息を吐いた。また、有希の財布のお世話にならなきゃいけない。あんな気分は、買い物のときだけで充分だってのに。
「いいよそんな。気にしなくて。こういうときは出せる人間が出すしかないでしょ。たまたまわたしのほうがお金持ってたってだけで」
 有希はそう言ってくれるが、その気づかいがかえってつらい。みじめな気持ちが膨れ上がって、心のなかの壁を押し破ろうとする。破れれば、きっと口から信じられないようないやな言葉が出てくるんだろう。
 特に言葉は返さず、亮介は顔を暖簾のほうに戻した。
「じゃ、また。なかで……」
 力の抜けた足取りで、青い暖簾をくぐろうとする。
『ちょっと待て』
「なんだよ」
 いざ、というタイミングで呼び止められ、思いのほか剣呑な声が口から出た。有希も足を止め、こっちを見ている。
『これは、男女別になっているのか?』
「そうだけど」
『それではマズい。このなかで襲われたら、対応しきれない』
 言われて、亮介は初めてその可能性に思い当たった。確かに男湯と女湯は壁によって隔てられている。悲鳴を聞くことはできるだろうけど、すぐに駆けつけるには時間がかかってしまう。
「で、でも、なかで声をかけ合えば、お互いどこにいるかわかるし、それに、声は通るから、なにかあったらすぐわかるようになってるし、間の壁だってそんなに頑丈じゃないから、だから――」
 有希が必死になって説得にかかる。必死すぎて、日本語がちょっとおかしくなっている。
 もちろん、亮介も入りたいのは有希と同じだ。説得に手を貸す。
「ぱぱっと入ってくれば大丈夫だって。ものの十分ぐらいですむから。いままでの運のよさからしたら、これぐらいはいけると思うけどなぁ」
 そう、追いこまれたことはあるが、ここまで全部乗り越えてきているのだ。サドルから滑っても有希を護れたし、初めての攻撃のときも当たってくれた。風呂に入れる運ぐらいあってもおかしくないじゃないか。
『むぅ』
 ガーティスは納得がいかないのか、ひとりで唸っている。
 亮介がさらに言おうとして、そのとき、シュリアが口を開いた。
『べつにいいんじゃない。運だめしみたいなものなんでしょう? やればいいのよ。ダメならダメであきらめもつくし。天命をひっくり返してまで生きようだなんて、わたし、思ってない』
『シュリア様っ、まだそんなことを――』
『ガーティス!』
 有無を言わせぬ強い調子で、シュリアはガーティスの話を止めた。それっきり、ガーティスは黙りこむ。空気が急に気まずくなる。こんなところにずうっと突っ立てることのほうが、よっぽど危ないだろうに。
「えぇと。は、入ってもいいの、か、な?」
 おそるおそる、亮介は訊ねてみた。
『……いいだろう』
 どこか感情に乏しい声で、ガーティスは答えた。
 ひっかかるものはあったが、気にせず、亮介は暖簾をくぐる。
 入ってすぐ、板張りの床が目に飛びこんできだ。床はあちこち剥げていて、見るからに年季が入っていたが、見える範囲にゴミやほこりはまったくない。それどころか、剥げてないところは照明をにぶく反射さえしている。
 靴を脱いで下駄箱に入れ、亮介は床に足を踏み出した。
 番台にいたのは、背中の丸いおばあさんだった。よれよれの白髪をうなじに垂らし、顔は皺だらけで、目なんか開いてるのか閉じてるのかわからない。置物みたいにちょこんと座っている。
「あの、タオルと石けんを二セット買いたいんですけど」
 有希の声とともに、入浴料の小銭が台の上ではねる音がした。さすがにこの時間に制服で来て、怪しまれると思ったのだろう。うかがうような声になっている。
「ん」
 おばあさんは亮介たちの格好を気にする様子もなく、ただ手だけを不気味に動かして、奥を指した。亮介は目を転じる。
 そこには、かごに積まれた白いタオルの山と、箱詰めの状態で置かれている石けんがあった。
「あ。あれですね」
 女湯にも同じものがあるんだろう。有希の返事を聞いて、亮介も奥へと進む。
 脱衣所は十歩ほどの奥行きがあった。両側に四段の棚がずらっと並んでいて、定番の体重計もある。どの棚にも服は置かれていなかった。いまは誰も入浴していないらしい。
 タオルと石けんの横には、カミソリも置いてあった。そのどれも、店の雰囲気からすると信じられないくらい清潔感がある。タオルと石けんは清々しいほど白く、カミソリには刃こぼれひとつない。
 その隣に、募金箱のような穴の開いた箱があった。箱にはマジックでなにか書いてある。
〝手拭二五〇円 石鹸三〇円 剃刀五〇円〟
 どうやら、買うときはここに料金を入れろということらしい。
「ねえ。そっちのぶんも払っとくね」
 声をかけようとして、先に向こうから声がかかった。
「あ、う、うん」
 亮介は小さくため息をついた。自分のほうから先に言って、有希を安心させなきゃいけないのに。ささいなことだけど、こういうことでも自分は有希とつり合わないのだと思わされてしまう。コンプレックスを抱きすぎなんだろうか。まあ、たとえ抱きすぎなんだとしても、有希と自分がつき合うことはないんだから。関係ない話だ。
 亮介は一番浴室に近い棚で服を脱ぎ始める。棚の場所は、入る前に有希と相談して決めていた。浴室に近いほうが、すぐ取って逃げられると考えたのだ。
 左手が使えないもんだから、なかなか脱ぎにくい。右手で苦労して、右腕の袖を脱がす。
『そうか。そういえば裸は恥ずかしいのだったな。だから男女別か』
 この宇宙人は、いまごろ納得したらしい。独り言をつぶやくように、そう漏らす。
「体の手入れをするって言ったときに、普通は裸でするもんだって気づくだろ」
『いや、まだいまいち、この星の考えかたに慣れなくてな。服の概念とか』
 〝まだ慣れてない〟なんて言うってことは、そのうち慣れられる自信があるってことだろうか。正直、もうムダな説明はしたくないから、そうなってくれるといいんだけど。あんまり信用はない。
 そんなことを考えつつ、亮介は脱いだ下着をリュックの奥に突っこむ。そして新しいものを取り出し、棚に置いた。
 それから、かごのタオルと石けんを取った。石けんは手のひらに収まるサイズで、分厚いスライスチーズに似ていた。
「準備できた?」
 今度は有希より先に、こっちから声をかけられた。
「もう少し」
 有希の声が、棚の向こうから返ってくる。
 この棚の向こう、たった一メートルほどの先に、一糸まとわぬ姿になろうとしている有希がいる。いま、どんな格好になっているんだろう。
 自分と同じタイミングで棚まで来たんだから、すでに下着姿までいってるのは間違いない。たぶん、いまちょうど、手が腰から滑るように下がって最後の一枚を脱ぎ終えようとしているところだろう。最後の一枚のその下は、すなわち――
 亮介は慌てて頭を振った。
 これ以上妄想してると下品な笑い声がこみ上げてきそうだ。もちろんそんな声、聞かれるわけにはいかない。それになにより、銭湯で股間をふくらませるなんて恥ずかしすぎる。このあと誰か入ってくるかもしれないし。
「できたよ」
 と、棚の向こうから声が飛んできた。
「あ――ああ、うん」
 動揺がモロに出た返事になってしまった。体が上気するのを感じながら、亮介は曇っているガラス戸を開ける。
 浴室のなかは、暖かく白い湯気で満たされていた。誰もいないせいか、やけに広く感じる。正面には、頂上に雪を被っている富士山の絵が描かれていて、床と壁、それに浴槽には水色のタイルが貼られている。タイルはところどころ欠けてはいるけど、汚いという感じはない。
 亮介は右手に積まれていた桶の山からひとつ取ると、湯船からお湯を汲んで体にかけた。熱くもなくぬるくもなく、ちょうどいい温度だ。本当に、この銭湯はどこを見ても気配りの高さを感じずにはいられない。店番のおばあさんはあんなだけど、他の従業員はかなりすごいんだろう。いや、意外にもあのおばあさんが、実は一番すごかったりして。
 亮介はタオルを濡れていない桶山の上に置くと、イスに座り、石けんを右膝でこすり始めた。すぐに、泡が立ってくる。その石けんをさらに、左もも、腹、左肩、左腕へともっていく。
 左手の怪我のせいで右上半身が洗えないが、そこはあきらめることにした。もちろん髪を洗うなんてことはできるわけがなく、初めから考えに入れてない。
 ひとしきり洗い終えて、亮介はお湯で体を流した。
『あの固形物が、洗剤なのか』
 見ていて興味を持ったらしく、ガーティスがそんなことを訊いてくる。
「そうだけど。なんかおかしいところでもあったか?」
『いや、洗剤なんて噴霧するものだとばかり思っていたから。私たちの祖先もかつてはこんな暮らしをしていたんだろうかと思うとなかなか感慨深い。色々、勉強になるなぁ』
 ……悪気はないんだろうけど、さすがにこうしつこく言われると、ちょっとムッとくるものがある。
「もういちいち自分の星とくらべるなよ。俺たちが、お前らからしたら原始的だってことはわかったから」
『それも、そうだな。気が回らなかった。すまない』
「だから謝るのも――」
『でも不思議ね。この星の人の体って、こんなに体の線にムダがあるなんて』
 と、シュリアの嬉々とした声が女湯のほうから聞こえてきた。
『ちょっと触らせてよ。いいでしょ?』
「だめだって。そんな遊んでる時間はないんじゃないの? それに、体取られるとき、気持ち悪いし」
『う。でもちょっとだけなら。ね?』
「……本当に危機感あるの? 追われてる当人でしょ? 絶対触るななんて言わないけどさ、触るんなら寝てるときとか、余裕のあるときにしてよ」
 なにやら、想像力をかきたてられるような会話が交わされている。こんな会話、ラブコメの漫画でしかあり得ないもんだと思ってたけど、本当に起こったりするんだなぁ。
 まるでお話のようなシチュエーションに、自分が興奮しているのがわかる。体は熱いし、鼓動をはっきり感じるし、ナニもだんだん大きく――って、え?
 手が無意識に股間に伸びていたことに気づいて、亮介は慌てて手を離した。そのまま勢いよく立ち上がって、浴槽に向かう。
 なにやってんだろうか俺は。ここまで情けないと、自分でも呆れてしまう。
 それはともかく、有希たちに対して、ここはなにか突っこみを入れておくべきじゃないだろうか。恥ずかしい会話が筒抜けだってことを。
 でもそれだと、こっちが聞いてたってことを有希に言ってしまうわけで。知らないほうが余計な恥ずかしさを感じなくていいってこともあるだろう。壁の向こうに異性がいることをお互い意識しないほうが、リラックスできていい。
 なにも言わないことに決めて、亮介は左足からお湯のなかに体をつけた。左手は絶対お湯が傷にしみるので、つからないようにする。
「う……はあぁ」
 思わず、声がこぼれる。ひさしぶりの風呂はかなり気持ちよかった。有希がいなかったら、即興の鼻歌でも歌いたいくらいだ。
『シュリア様! いま湯に入りましたよ!』
 亮介の思惑と気分は、ガーティスに全部ぶち壊された。
「声が大きすぎるって。そこまで張らなくてもちゃんと届くから。さっきの向こうの会話だって普通に聞こえてた――」
 慌てて口を閉じたが、もう遅い。
 結局、最後のトドメは自分でさしてしまった。ああ、あとで有希と顔を合わせるのが怖い。
 亮介は女湯から一番離れた、湯船の隅っこに移動した。女湯の近くにはもう居てられなかった。
『湯に入るのは、汚れを落とすのとなにか関係があるのか?』
「知らん。もう黙っててくれ」
 亮介はガーティスを冷たくあしらった。
『なにか、気に障ることでも言ったか? それならそれで謝るが』
 ガーティスは律儀にもそんなことを言ってくる。
 知らないってことは、本当に罪深い。
 亮介はガーティスを無視して、湯船に体を漂わせた。そうっと、左手をお湯のなかにつけていく。ひりひりした痛みを感じたが、思ったほどではなかった。
 硬くなっていた体の芯が、ほどけていく。スパゲティの麺にでもなったような気分だ。
 湯気に曇った天井を見上げながら、亮介はここ数日のことを振り返ってみた。
 いきなり宇宙人に入られて、制服のまま、それから三日も逃げ続け――きっといまごろ、家では大変なことになっているだろう。捜索願とかも出されたんだろうか。
 ――しかしここで、亮介はとんでもないことに気がついた。
 有希の部屋の窓は割られていて、自分と有希は一緒にいなくなった。ということは。
 ひょっとしたら、自分が有希を誘拐した犯人にされてしまっているかも……
 亮介は、湯船につかっているにもかかわらず身震いしてしまった。
 あとで、新聞でも買って確認してみようか。ひとりで想像して怖がってもどうしようもないし。
 状況をそう整理して落ち着かせてみようとはしたが、たいした効果はなかった。体をずぶずぶと口まで湯に沈め、正面にある壁を見つめる。
 肺の奥に、悪い空気がどんどん溜まっていく感じがした。けれど、いまそれを外に出す方法はひとつもない。
 ただ黙って、お湯のなかに体をひたすことしかできなかった。
「――!」
 そのとき、壁の向こうから、有希の悲鳴がした。
「お、おい?」
 呼びかけてみたが、返事はない。
 亮介はとりあえず壁の近くまでいってみようと思って、湯船から立ち上が、ろうとした。
 足を出す前に、ぐるん、と意識が歪んだ。
 体が浮き上がるような、奇妙な感覚にとらわれる。
 もう何回も体験させられているこの感じは――
『シュリア様!』
 亮介の意識は、ガーティスの叫び声で再び覚醒した。
 視界が、感覚のないカラダが、みるみる壁に近づいていく。
 そして、ガーティスは右手を壁に叩きつけた。手にはいつの間にか、あの光球が作り出されていたようで、タイル張りの壁が叩きつけたところを中心に、円形に崩れる。
『大丈夫ですか!』
 青と赤のタイルの混ざりあった残骸を飛び越え、ガーティスは女湯に入っていく。
 ガーティスの目が、有希の姿をとらえた。桶を持ったまま、呆然とこちらを見つめている。呆然とした顔の下にはもちろん、いままで何度も妄想のなかに登場した体があり――
『あ、ガーティス? ねえ見て。いまそこに面白い生き物がいるのよ。ほら、イスの横』
 宝物を見つけた子どものような声でシュリアが言ってくる。
 有希はその声で自分を取り戻したのか、さっと亮介たちに背を向けた。
 亮介は、恥ずかしさに意識が沸騰しそうだった。体の感覚があったら皮膚が溶けていたかもしれない。なんとか熱を逃がすためにも目をそむけたいのだけれど、この状態ではどうすることもできない。
 ガーティスの見つめるままに、薄赤く色づいた体を亮介は見続ける。
『ちょっと、なんでそっち向くのよ』
「いいから!」
 有希の叫びにはエコーがかかっている。
『なにがいいのよ。ちっともわからないわ。それよりガーティス。そこのそれ、変な動きでしょう?』
 イスの横には、身をくねらせて動いているムカデがいた。
『こんなの、王立博物館にだってないわ』
『そ、そんなことより、さっきの叫び声は1?』
『え、ああそのこと。急に、有希が叫んだのよ。理由はよくわからないけど』
『なっ』
 数秒、ガーティスは言葉を継げなかった。
『ま、紛らわしいことはしないでくれ!』
 ガーティスが冷静さを欠いているのを、亮介は初めて見た。それだけ、護ることに必死なんだろう。しかしいまは、それに納得している場合ではない。
「その虫は、刺されるとすごく腫れるんだよ。普通は見つけたらすぐ、殺すか逃げる。怖い虫なんだ」
『ええ? こんなに面白いのに』
 シュリアがまたとんちんかんなことを言う。
「面白いとかそんなことはどうでもいいから。とりあえずお湯で排水溝に流しちゃってくれよ」
『え。あ、ああ』
 自分に向かって言われたということに気づくのが遅れたのか、ガーティスは不意を突かれたような返事をすると、慌てて桶を取って浴槽に向かった。
 有希が、こっちと距離をとるようにうしろへ下がる。
 ガーティスはお湯を汲むと、それを上からムカデにぶちまけた。ムカデは排水溝の上まで流されたが、落ちるところまではいっていない。
 二、三回それを繰り返して、ガーティスはムカデを穴のなかへ流しきった。
『やってから言うのもなんだが、こんなこと、体の制御を取らなくてもよかったな。なにもなかったとわかったときにすぐ返すべきだった。すまない』
 亮介がなにか言い返す間もなく、また意識が歪んでくる。
 気がつくと、赤いタイルの世界のなかに亮介は突っ立っていた。
 急いで桶を股間にもってくる。自分でもかなりマヌケな格好だと思うが、どうしようもない。
 有希の背中が、ちょうど正面にあった。タオルで前を隠して顔をうつむけている。
 見ちゃダメだ、と亮介は必死に理性を回転させる。これ以上見下されたくない。嫌われたくない。だから早く目を離してまわれ右して男湯のほうに戻らなくちゃ……
 でも。しかし、だ。考えてみればこれは事故だ。血気さかんな宇宙人が勘違いして勝手に壁を壊して女湯に進入してしまったという事故だ。アクシデントだ。不可抗力だ。俺に責任はない。ということは、事故のはずみで少しだけ見てしまったとしても、しかたがなかったということで片付けられるのでは――
 思考の暴走するままに、亮介は有希の裸体に見入る。
 体のラインは成熟した女と少女の中間といったところか。ほどよく丸く、ほどよく直線的。これぐらいのバランスのときが一番見た目にそそると思う。背中とヒップには汗かお湯の玉が浮いていて、艶やかさを演出している。もちろんヒップの下には少年たちにとっての永遠の神秘が――――
 ――膨らんだなにかが桶に当たって、亮介は我に帰った。
 いくらなんでも最低すぎる。言いわけの余地すらない。
 前かがみになって、亮介はそそくさと男湯に戻ろうとした。
 が、その足が壁の前で止まる。
「この壁、どうすんだよ」
 壁にはガーティスのおかげで、大きな穴が開いていた。
「あ……」
 有希もそのことに気づいたらしい。
 その有希の声を聞いて、慌てて亮介は穴をくぐった。何個かタイル屑を踏んだけど、たぶん血は出ないだろう。すごく痛かったけど。
『どうって、なにがだ』
 ガーティスは自分のしたことの重さに気づいていない。まあ、重さに気づけるようなら、そもそも壊したりはしないか。
「べ、弁償しなくちゃいけないだろ。この壁。でも、いまそんな金ないし……」
 家に帰れれば、なけなしの貯金を崩してなんとか払えるだろう。でも店の人に、いますぐ払えとか言われたりしたら。
 悪魔の囁きが、亮介の耳の奥に響く。
「な、なあ。逃げよっか?」
「だめだってそんな。そりゃわたしだって、手持ちじゃぜんぜん足りないけど」
「じゃあどうするんだよ。なにか方法があるのかよ? あ、いや、べつに、早瀬が悪いんじゃなくて、ふ、ふたりで考えなきゃいけないことだけどさ」
 言いかたが逆ギレっぽくなった感じがして、亮介は言葉を付け足した。
 数十秒、沈黙が続く。
 そして、有希がひとつの案を口にした。
「なんか、連絡先でも書いて残してけばいいんじゃない? レシートの裏とかにでも」
「うぅん」
 腕組みをして、亮介は唸る。このまま逃げるのはよくない。そして、いま手もとに金がないことを考えると、それが一番、現実的な案に思えた。
「それしかない、か。そしたらとにかく早く出ようぜ」
 言って、亮介は置きっぱなしだったタオルを手に取る。手早く体を拭いて、浴室を出た。
 番台のおばあさんは、相変わらず起きてるんだか寝てるんだかわからない。さっきと変わってないってことは、壁のことに気づいてないってことか。なら気づく前に早く着替えてここを出ないと。
 亮介は、体が湿ったままなのも構わず、急いで服を着こむ。左手が使えないからなかなか着られない。イライラする。なんとかシャツの袖に左手を通す。
 と、重要なことを思い出した。
「あ、あのさ。ついでに、俺が無実だってこと、書いといてよ」
「え」
 棚の向こうの有希が怪訝な声を出す。
「窓ガラスが割れてて部屋も荒らされて、おまけにふたりでいなくなっただろ。ひょっとしたら、俺がそっちのことを誘拐したように思われてるかも……」
「そのことだったらたぶん大丈夫だよ。家に書き置き残してきたから」
「はい?」
 驚いて、亮介はボタンを一段、掛け違えてしまった。
「これから少しの間、友だちと旅行に行く、って。ただ、部屋があんな状態だし、おまけに休みでもないのに旅行って――実質、家出よね」
 その通りだった。亮介の場合は書き置きもないから、さらにタチが悪い。ほとんど蒸発と同じだ。
「とりあえず、〝ふたりとも生きてます〟って書いとくか」
「……そうする」
 亮介の提案に、有希は素直に同意した。男湯と女湯の棚板は繋がっているらしく、カリカリと字を書く音が響いてくる。
 やがて、その音が止まった。
「書けたけど、もう出れる?」
「うん。行こう」
 亮介はリュックをつかむと、小走りで出口に向かった。
「あの、すいません。これ」
 有希の手がおばあさんにレシートを渡そうとしたが、おばあさんは手を出さなかった。しかたなく、有希は台に紙を置いていく。
 置かれたのを確認して、亮介は表へ飛びだした。ほぼ同時に有希も暖簾から出てくる。
 服を着てはいるけれど、確かにさっきと同じ体形のライン。それはあの白いうしろ姿が、まぎれもなくこの人のものだったということ――
 亮介は暴走しかけた思考を、今度は浅いレベルで食い止めた。心臓の動きは激しすぎるけど、それを〝ないこと〟にして足を踏みだす。
 もと来た、大きな通りへ向かう。お互いに相手のほうは見ない。自然と、急ぎ足になる。
 たまらない息苦しさを亮介は感じていた。とっくに風呂からはあがったはずなのに、まだ熱くむわっとした空気に包まれているような気がする。息を何度も吸って、体のなかに冷たい空気を入れようとする。
 そうやって空気を入れ替えながらしばらく歩いて、大通りに出たところでようやく亮介の気分は落ち着きを取り戻し始めた。
 周囲をよく確認して、右に曲がる。
 だいぶ落ち着いてきたし、もうそろそろまともに喋れるだろう。
「しかしなお前、壁を壊すな。壁を」
 亮介はガーティスに抗議した。しかし、息苦しかったせいでずっとこっちが言えなかった間、こいつはなにも言ってこなかったってことは、悪いと思ってないってことなんだろうか。
『向こうだって山ほど住居、建物を壊している。私たちだってひとつやふたつぐらい』
 やっぱり思ってなかった。予想通りなので特に失望することもなく、亮介は続ける。
「誰が弁償すると思ってんだよ。お前らが払ってくれるのか? 無理だろ」
『……すまない。なるべくなら、この星のものは壊さないほうが良いのだよな。向こうの非道にこっちも合わせるべきなんてのはひどい考えだ。一時とは言え、私はなんて愚かな考えを……』
 なんだか、落ちこんでしまったみたいだ。そこまでのつもりはなかったんだけど。
「まあ、わかったんならいいよ。この程度のトラブルは覚悟してたし」
「そうそう」
 有希もそこに言葉を重ねる。
『……ありがとう』
 ガーティスは静かに、それだけ言った。
 いい雰囲気が、亮介たちの間に流れる。
 西に傾きかけた光が、風景をオレンジ色に染めつつあった。冷たさを含んだ秋の風が、ほてった体に気持ちいい。
 そんな穏やかな雰囲気を、星の王女様が壊しにかかった。
『そういえばさ、この星の人って、尻尾がある人がいるの?』
「は? なんだそりゃ」
『だってさっき、亮介の足の間に尻尾が生えてたでしょう? すぐに有希がうしろを向いちゃったからはっきりと見えなかったんだけど。ガーティスも見たわよね』
 亮介は言葉を失う。
『シュリア様。尻尾は普通、うしろに生えるものですよ』
『そう言えばそうね。じゃ、あれはなんなの?』
『さあ。なんとなく私も見てましたが……』
 宇宙人ふたりの疑問に、有希はなにも言わない。もちろん亮介だって言えやしない。
 会話のあまりの内容に、体が熱くなっているのを感じる。
『亮介』
「知らん! 俺は、なんにも知らんからな!」
 亮介はさらに歩くのを速め、有希よりも前に出た。
 前に出て――後頭部をなにかがかすめた。
 気づくと同時に、弾ける音が耳を振るわせる。当たったのは、踵のすぐうしろあたり。
「あ、あれ」
 振り返ると、有希の指差す先にふたつの影がいた。ここ数日、いやというほど見た、あの明るめのグリーン。
「まじかよ……」
 いまになって球のかすめていった感覚を思い出して、亮介は肝を冷やす。
 しかし、亮介のそんな気持ちとは関係なく、意識は再びあいまいになった。視界が歪み、意識が一瞬遠くなって、またすぐに戻る。だんだん、入れ替わりにかかる時間が早くなっている。
 ガーティスはやつらに向かって一発球を投げ放つと、そのまま、まっすぐ走りだした。


 どれぐらい逃げ続けただろう。すっかり日は暮れて、真っ暗ななかをガーティスは走っていた。電柱に近づくたびに視界が明るくなって、通り過ぎるとまた暗くなる。その繰り返し。
 今日の敵は、なんだかやけにしつこいような気がする。かなり走ったはずだけど、いっこうに攻撃の手が緩まる気配がない。撒けないのだ。
 考えてるそばから、また、球がすぐ近くに落ちた。空気が破裂するような音が、亮介の精神が収まっているところを揺り動かす。普段なら耳を押さえて屈みこむんだろうけど、この状態では生で爆音を受け止めなきゃならない。一発一発はそうでもないけど、何日もずっと聞かされるというのは、かなり堪える。
 昨日までの敵と、格段にレベルが違うとは思えない。投擲の不正確さ、音の大きさ、足の速さ……どれも大差はない。
 やっぱり、ガーティスは銭湯の壁のことを気にしているのか。
 亮介には、違いがはっきりとわかるわけではないが、なんとなく、ガーティスはひらけたルートを意識的に通って逃げている感じがした。たぶん、ものを壊さないために。だから死角を利用できず、敵を撒くことができないでいる。
 できれば、どんな手を使ってでも安全を早く確保してくれるほうがいんだけど。なまじあんなことを言っちゃったもんだから、いまさら壊していいだなんて言い直せない。
 ガーティスが歩道を下りて、田んぼに入った。数十分前に住宅街を抜けて以来、ずっと同じような田園風景が広がっている。家は少なく、車もほとんど通らない。田んぼはすでに稲刈りを終えており、薄暗闇の底に鈍い黄色をした稲の根っこが無数に植わっている。鈴の音のような虫の声も、響いている。
 虫の声に混じって、ざくっ、という音が聞こえてきた。稲の根っこを踏む音だ。なかなか爽快な音だと思う。
 前を行くシュリア――有希の向こうに、道路が見えてきた。田んぼからその道路まで、結構な段差がある。腰のあたりまであると思う。
 勢いを殺さず、ガーティスは道路に跳び上がった。一瞬遅れて、段差のところに球がぶち当たる。
 ガーティスはうしろを振り返ると、また球を投げた。球の結果を見ることなく、即座に前に向き直って再び走りだす。
 なんの響きも、亮介のところに入ってこない。当たらなかったみたいだ。
 それにしても、だ。
「くそっ。なんでこんなにしつこいんだよ」
 亮介は思わずそう毒づいてしまった。
 ガーティスが振り返ったときにくっきりと見えた。自分が作りだした球の光に照らされ浮かび上がっていた敵の姿が。こっちは必死で逃げてるのに、あいつらはどこか余裕たっぷりなように見えて――
『これぐらい、しつこいほうに入らない。ウィレールからこの星まで逃げてくる間、ずっと追ってきたしつこさのほうが上だ』
 ガーティスは少しも堪えている感じはない。本当に、この程度はあたりまえってことなんだろう。
 言ってるそばから、また球が飛んできた。対岸のガードレールが、衝撃でひん曲がる。何回見てもすごい破壊力だと思う。左手が無事に付いてることが、奇跡に思えてくるくらいだ。
 そのとき、細かいリズムで刻まれるかん高い音と、重く乾いた轟音が、同時に亮介の領域に飛びこんできた。聞き慣れた、けどここ数日聞いてなかった音だ。
 ガーティスが音源に焦点を合わせる。街灯五つ分、数十メートル先に踏切があった。ちょうどいま、電車が通過していったところだ。いくつもの四角い切り取り口から光をこぼしながら、右手の彼方へ去っていく。
 両目を交互に明滅させていた遮断機がそれをやめ、だるそうに自分の手を持ち上げた。
『あれは――』
「電車だよ。なんて説明したらいいか……」
『知っている。似たようなものが昔ウィレールにもあった。軌道車両だろう? 王立博物館の〝交通の歴史〟で見た覚えがある』
 そのまま亮介たちは、踏み切りの前までたどり着いた。左右を素早く確認する。電車の来る様子はない。
 確認し終えるやいなや、ガーティスは目線でシュリアに合図を送ると、姿勢を低くして駆けだした。足場の悪いところだから、球が飛んでくる前にさっさと渡ってしまおうって考えなんだろう。
 が。
『あぶない!』
 ガーティスが手を突き出して、隣の有希――シュリアを横に押し倒した。その上にガーティスは覆いかぶさる。踏切の向こうが、一瞬見え――
 頭のすぐ上を、なにかがかすめていく音がした。
 亮介は信じられない思いで、何度も踏切の向こうの映像を再生する。目がおかしくなっていなければ、間違いなくあれはアレだ。でもなんで……
 シュリアに声をかけて、それからガーティスが顔を上げる。
 記憶と同じ位置に、グリーンの巨体がふたり、いた。ふたりとも、手のひらが光を帯び始めている。二弾目の準備だ。
 挟まれた。
 そのことを理解すると同時に、亮介はあるはずのない体の震えを錯覚した。ただの見物人として、自分の体がやられるのをこれから見ることになるなんて。こんなのってあるか。
 しかしガーティスは、おびえて動けなくなる、なんてことにはならなかった。シュリアを引っぱり起こすと、右へ――レールの上を走りだす。
「お、おい、そっちは」
『車両か? 来ても避けられる。問題ない』
 亮介がなにを心配しているのかわかったのだろう。ガーティスはそう答える。
 線路沿いの明かりが、ぼう、と枕木を浮かび上がらせていた。その上をガーティスは走る。踏まれた敷石が擦り合わさって、硬い悲鳴をあげる。
 硬い悲鳴は、背中のほうからも聞こえてきた。しかも複数。明らかに追ってきている。何重にもなった石の悲鳴は、まるで死神の呼び声だ。声が一番大きくはっきり聞こえたら、それがアウトの瞬間。
 亮介の意識は、自然、音に集中される。
 いまのところ、足音はハーモニーこそ奏でているものの、格段に大きくなってはきていない。けれどこっちは生身の人間、あっちは巨躯の宇宙人だ。どっちの体力が先になくなるか、予想はたやすい。ましてや一対四だ。数の上でも圧倒的に不利すぎる。
 このまま球をいっせいに何度も投げられて逃げるコースを狭められて、最後は飛びかかられて捕まってしまうのか――と、そこで亮介はあることに気がついた。
 線路に入ってから、敵は一球も攻撃してきてないのだ。
 このあたりは建物も少ないから、攻撃をはずしても土をえぐるかレールを曲げるかで、進路を防がれるようなことはないはずなのに。なんでだろう。
 そういえば二日前の夜、ガーティスがこんなことを言ってたっけ。〝多数の現地人に影響が出そうな攻撃はしない〟って。電車が脱線したら、かなりの人が影響を受けることになる。そうか、それで投げてこないのか。亮介はひとりで思い出して納得する。
 そのとき、前から空気を貫くような激しい音が聞こえてきた。警笛だ。
 亮介たちが走っているのとは逆の右側のレール。その前方に、ヘッドライトがふたつ、輝いている。さらには運転席の明かりも見える。
 ガーティスは、まぶしそうに目を細めた。
「お、おい、来たって!」
『隣だろう? どうとでもなる』
 ガーティスはさして気にしたふうでもない。
「で、で、でも――」
『なにを怖がっているんだ?』
 そう訊き返されて、亮介は口を閉ざした。
 ――自分がビビリだなんてガーティスに思われるのは、マズい。
 電車がだんだん近づいてくる。念のため、ガーティスはレールの左端に寄る。
 どうでもいいけど、電車の運転士さん、こっちの顔見えてないんだろうか。見えてたら間違いなくブレーキかけると思うんだけど。ぜんぜん減速する感じがない。
 そのまま、電車は亮介たちの真横に差しかかった。いくつもの白い窓が明かりをこちらに投げかけて、背中のほうへ消えていく。
 轟音を残して、電車は走り過ぎていった。風圧で体がぐらりとする。
「俺たち、バレなかったのかな?」
「さあ……」
 亮介の問いに、有希もわからない、という声を返した。
 電車を止めたりしたら、賠償金を請求されると聞いたことがある。そんなことになるのは避けたかった。
 いや、それだって無事にいまを乗りきったらの話だ。捕まったらそれどころの話ではなくなる。だからガーティスに、電車に近すぎると危ないってことを言わないと。
 亮介が口を開きかけたとき、うしろからまた警笛が聞こえてきた。ガーティスが音のほうへ振り返る。
 追っ手の敵たちのさらにうしろ。そこに、ふたつの目玉を光らせた電車の姿があった。運転士さんは、驚くことにまだこっちに気づいていない。
「いいぃ!」
 今度こそ危ない。早く移動しないと轢かれる。
 敵も気づいたのか、さっさと隣のレールに移った。
 しかし、ガーティスは動かない。
「な、なにしてんだよ。早く!」
『ちょっと、思いついたことがある。シュリア様、もっと左に降りてください!』
『えっと、ここでいいいの?』
「は?」
 亮介の疑問の声も、近づいてくる轟音に掻き消えてしまう。
 ガーティスは、敵とは逆側にレールのさらに左へと降りた。敷石が作る傾斜の上を走る。足のつく高さが左右で揃わないからか、逃げ足ががくんと遅くなる。
 来た、と思う間もなく、最初の車両が右脇十数センチのところを突風のように通り抜けていった。窓からこぼれる明かりが、奇妙な影を地面に投げかけている。
 そのまま、ふたつ、みっつと車両は走り抜けていく。
 そして四両目も過ぎようとした、その瞬間。
 ガーティスは怪我をしている左腕でシュリアを抱えると、電車に向かって跳び上がった。
 亮介の悲鳴は声にならない。一瞬、頭が真っ白になる。
 ガーティスは、車両の連結部にある転落防止マットに手を伸ばした。マットは上から下へ四枚、左右合わせて八枚ついている。その一番上をガーティスはつかもうとする。
 しかし、伸ばした右手の指はマットにかすっただけで、つかむことはできなかった。
 跳びの勢いを失った体は、自動的に重力によって下へ引っぱられ、そして速さによって電車に置いてかれてしまう。
『ぐっ』
 けれど、ガーティスはあきらめない。
 宙を漂っていた右手を、五両目の車両の角に叩きつけた。そのままそこをつかむ。力んだ指が、小さなアーチを描く。
 落ち着く間もなく、ガーティスは左腕を引き上げ、シュリアをマットにつかまらせた。ガーティス自身も、右腕一本の力でその隣のマットへ移動する。
 そこまできて、ようやくガーティスは安堵の息を吐いた。
『大丈夫でしたか?』
『ちょっと……さすがにいまのは堪えるわ』
「……同感」
 シュリアも同じように息をつき、有希はかろうじてそれに同意する。それでもすぐこうやって喋れるということは、あまり深い緊張はしていなかったってことなんだろう。
 やり遂げた、という雰囲気が彼らを包みこんでいる。
 その様子が、亮介にはなんだか、悠然としているように思えた。こっちの心はまだこんなにも強張っているのに。
 急に、苛立ちが噴き上がってくる。
「お前、なんてことしやがるんだ! もし落ちてたらどうするつもりだったんだよ? これが誰の体なのか忘れ――」
『そう、だな。それはそれですまない』
 言葉とは裏腹に、ガーティスの口調はちっとも謝っていない。
 亮介の心は、さらに激しく火を吹いた。
「ほんとにそう思ってるのか? お前、自分たちが俺たちを一方的に巻きこんだってこと、ぜんぜん、自覚してないんじゃないのか? どうなんだよ」
「ちょっ――しみ――言いす――」
 有希の声は電車の走る音に遮られ、よく聞こえない。
 カーブに差しかかったらしく、車両が横に大きく揺れた。ガーティスが手に、いっそう力をこめる。マットが深くへこむ。
『少し、言いたいことがある。これが止まってから、話をしよう』
 亮介の詰問にはなにも言い返さず、ただそれだけ、ガーティスは言った。


 それから十分ほどして、電車は緩やかに減速し始めた。ガーティスは体をそらして、前方を確認する。
 二本のレールを挟む形で駅のホームがあった。ホームの真ん中あたりにぽつんと小さな駅舎があるだけで、あとはがらんとしている。明かりも駅舎以外には各ホームにひとつしかなく、薄暗くて気味悪ささえ覚える。
「おい、もうそろそろ降りないとマズいって。うしろの車掌に気づかれる」
 亮介は普段電車に乗っているときのことを思い出す。一番うしろの車両に乗っている車掌は、車両の安全や停止位置を確認するために、駅の手前で窓から顔を出すのだ。
 いま亮介たちのつかまっているのは、ホーム側――ドアが開く側だ。車掌が顔を出せば簡単に見つかってしまう。
『そうなのか? それなら』
 言うなり、ガーティスはシュリアを抱えて、また跳んだ。
「って、おいっ」
 言いかけた亮介の抗議は、すぐにガーティスの動きに飲みこまれてしまう。
 ガーティスは着地すると、その勢いを殺さず、一息に有刺鉄線の張られたフェンスを越えた。越えた先は駐車場だったが、急いでそこから離れる。
 駅前の小さなロータリーを走り抜け、そのまま住宅街のなかに入った。一度もスピードは緩めない。
 やがて、道はなだらかな上り坂になってきた。家と家の間に未整備の林が目につきだす。さらに進むと木々の間に家があるようになった。
 その林のなかのひとつに、ガーティスは分け入っていく。ニ十歩ほど進んで、そこで足を止めた。
 亮介の意識があいまいになる。実感のない闇から実感のある闇へ、意識が飛ばされる。
 手入れの形跡がない草むらの上に、亮介は立っていた。ここ数日でずいぶん慣れた、土の匂いが満ちている。
 道路のほうから差しこんでいる街灯の光のおかげで、なんとか周囲の様子がわかる。まわりと比べると、丈の低い草が多い。相対的に開けている場所だと言えるだろう。立ち並んでいる木の葉影はすべて細く、その幹の表面にはボコボコした陰影が浮かんでいる。下を見ると、まつぼっくりがいくつか転がっていた。
 その足もとからは、鈴の音のような虫の声。
「それで、話って?」
 同じように体を返してもらったんだろう、有希が亮介より先に、話をうながす。
「そ、そうそう。なんなんだよ」
『それは』
 ガーティスはそれだけ言って、そこから数秒、間を開けた。どこか、言うのをためらっているような感じがする。
『昨日の夜、言ったことを憶えているか?』
「えーと……自転車のところで言ったことか」
『そうだ』
 亮介の心臓が、一段高く、撥ね上がった。
 記憶を遡らせるまでもなく、なにを言われたのか、よく憶えている。そのせいで、ずっとプレッシャーを感じていたんだから。
「まさか、精神親和性がどうこうとかの話じゃないよな?」
 自分から、あえてその話題を出す。一種の賭け。はずれてくれれば大きな安心という当たりが来る。
『そうだ』
 しかし、その目算は脆くも崩れてしまった。逆に鋭い刃となって、亮介の心に傷をつける。
『あのとき、次の戦闘で亮介の気持ちが私の動きに干渉しているかどうかがわかると言ったが……はっきり言わせてもらう。亮介の――』
「やめろっ。それ以上言うな!」
 怒声が、静かな闇のなかに響いた。急な大声に驚いたのか、有希が肩をびくりとさせる。
 亮介の心臓は、限りなく高い出力のままハイペースで飛ばしている。息が乱れて、吸っているのか吐いているのかわからなくなる。
 ――言われなくても、その答えは、最初からわかっている。
 だからこそ、言って欲しくない。自分以外の誰かに、言われたくない。せめて自分の口から言えれば、有希に、謙遜した自虐なんだと受け止めてもらえるかもしれないから――
「俺がもっと、しっかりしなきゃいけないってことなんだろ。わかってるよ! そんなこと。サドルの上をひらひら飛び跳ねたり、電車に飛び移ったり、そういうことを俺はやったことがないから、ちょっとドキドキしちゃって、それがお前に影響してるんだろ。わかってるよ!」
 突っこまれたくなくて、一気にまくしたてる。
 それに、こんな話はさっさと終わらせたかった。
『そうか。なら話は早い。亮介、そのドキドキをやめろ』
 ガーティスの口調には、鋼のような硬さがあった。それは、強固な意志によって固められた、唯一絶対の決意がなせる業だろう。
『やめなければ自分も死ぬし、有希も、シュリア様も、全員死ぬ』
 亮介は言葉を失う。
 ようするに、そこまでの踏み込んだ覚悟をガーティスは要求しているんだろう。
 そして、その覚悟を持たなければならないことは、亮介も充分わかっている。ガーティスの言っていることは正しい。
 自転車場のときも、今日の飛び乗りのときも、危うい場面を迎えた責任がすべて自分のこの弱い心にあるとするならば、それは正しい。
 なにも、亮介に言い返せることなどなかった。
『色々、戸惑いがあるのは承知している。それらはすべて勝手に巻き込んだこちらの責任だ。全面的に謝ろう。だが最低限、自分の身を護るために必要な気持ちでさえ、亮介には足りていないと思う』
「そう、だよな」
 弱々しく、亮介は同意する。
『力になってくれる、という約束はとても嬉しかった。だがこれでは、こう言ってはなんだが、逆に足を引っ張っているのではないかと――』
「いくらなんでも、言いすぎじゃないですか?」
 そのとき、有希がガーティスに対して反論の口火を切った。
「人間、誰でもはじめてのことはうまくできなかったりするんです。わたしたちは、自転車の上を走ったり、電車に飛び乗ったりしたことはないから――だから、それを理由にして〝足を引っ張っている〟だなんて」
『命がかかってないなら、それでいいだろう。だがいまは、そんな悠長な考えでは済まない。少しの油断、弱気、誤りが、すぐ死に繋がってしまう。有希は、もし亮介のせいで命を落としてしまったら、まったく恨む気持ちが起こらない自信はあるか?』
 とんでもないことを――亮介にとっては爆弾を持って敵陣に飛び込むようなことを――ガーティスは言った。
「それは……」
 有希は困ったように、こちらの顔色をうかがってくる。
 ――なるほど、遠慮してるのか。
「そりゃ恨まれるだろうな。他人《ひと》のせいで死んじゃったわけだし。それも、成り行きで一緒になった相手のせいで」
 思っているであろうことを予想して、亮介は代弁した。
 有希は、顔を合わせたくないのか、うつむいている。
「だから、お前の言ってることはわかってるって言ってんだよ。これからなるべくそういう気持ちにならないように努力するから。それでいいだろ」
 口調が、自然と早口になる。苛立ちと緊張が頂点目指してどんどん高まっている。頼むから、早く、この話を終わってくれ。
『もちろんそうだが、まあ、人の気持ちはすぐに改善できるものではないからな。それなりに、こちらも警戒心を持って当たらせてもらう』
 ガーティスは、鈍感な自分でもわかるほどの、痛烈な皮肉を口にした。自分に非がなければ、抗議してもおかしくないぐらいの刺々しさ。
 だけどもちろん、そんなことは言えない。
 亮介の口から、ため息が漏れた。
 自分がビビりなことは、ガーティスと会う前からわかっていた。なにせビビって、有希にいまだに告白できないでいるんだから。その事実には、いまさらショックは感じない。
 ただ、この性格のせいで、有希を死なせてしまうことになるかもしれないって――そう言われたことが、心のなかに重くのしかかっている。
〝死〟
 言葉として聞かされただけなのに、これほど、重いものだったなんて。
 この逃避行が命をかけたものだっていう意識が、自分にはなさすぎたのかもしれない。だって俺たちは勝手に入られて巻きこまれた罪もないただの地球人なんだから、こんな理不尽なことに命をかけるなんておかしい、って、そんな逃げの意識もあったんだと思う。
 そんなものは、もうなくそう。なくさなきゃ、みんな死んでしまうんだから。
 このビビりの気持ちもなくしてしまわなきゃ――みんな死んでしまうんだから。
 ――でも、怖いって気持ちは、どうやったらなくせるものなんだろう。
『今日はここで休もう』
 ガーティスのその言葉で、場の空気は休憩モードへと入れ替わった。有希がザックから自分の寝袋を取り出し、地面に敷く。
 亮介も、途中で買ったビニールシートを敷くと、その上に座った。リュックを腰のうしろにもってきて、木に寄りかかった体勢になる。
「今日は、お前からだよな?」
『そうだ』
 ガーティスと見張りの確認をし、そこでまた意識が入れ替わった。実感のない闇の世界に、再び包みこまれる。
 この闇を支配するのは、映像と音だ。見えているのはほとんどずっと同じ風景。草木の向こう、道路の対岸にも林があるみたいだ。
 聞こえてくるのは、虫の音ばかり。たまに緩やかな風に擦れる葉っぱの音なんかもするけど、よく注意していないと聞き逃してしまう。
 今夜は眠れる気分などではなかった。昨日までやっていたこの空間内での移動も、今日は試みる気になれない。
 考えても考えても、怖いって気持ちをなくす方法がわからなかった。
 失敗するのは怖い。
 だから、挑戦することも、怖い。
 なにかに挑んだとして、そのあとに待っているのは成功か失敗のどっちかだ。結果という出口に、必ず片方が待っている。どっちが待っているかは、誰も知らない。
 どうしてみんな、あんなに怖がらないで、足を踏み出せるんだろう。
 失敗するということは、なにかを失うことだと思う。なにを失うかは、その人、そのときによって違う。
 だけど必ず、なにかを失う。失うものなどなにもない、っていう、思い切るときの決め言葉が、それをよく表してる。
 みんな、失敗したときのイメージとか、頭に浮かばないんだろうか。
 二度と取り戻せないものを失っってしまった自分というのを――想像しないんだろうか。
 いくら考えても、亮介にはわからなかった。
 結局、それは他人の心のことだった。そして、ひとりで考えこんでいる亮介には、到底わかるはずはなかった。
 そうしてぐるぐると考えが同じところを回っているうちに、亮介の意識は、移動も試みていないのに、まどろんでいった。


        *


 目の前に……なんだろう、大きな子供がいる。小学校高学年ぐらいの男の子だ。
 でもおかしい。
 だって俺は高校生で、もうとっくにこいつらよりずっと大きいはずなんだから。見上げてるというのは変だ。
 あ、なんかわかんないけど、俺、走りだした。その子のほうに。まっすぐ。
 殴りかかるつもりかな。
 バカだな。結局負けるのに。
 ――え?
 なんで俺、そんなこと知って……
 あ……ああ、そうか。思いだした。
 これは、俺が小一のときの――
 あ、横にぶっ飛ばされた。
 そうそう、確か思いっきり横っ腹を蹴られたんだっけ。それで地面に叩きつけられて。覚えてるなぁ。あの公園の地面の砂の、ざらっとした感触。
 ん? なんか景色がぼやっと滲んできたな。目を袖で拭ってる。泣いちゃったのか俺。自分からいったくせに。弱いなぁ。
 あれ? ……隣に、有希がいる。
 いまもかわいいけど、このころの有希もかわいいなぁ。
 まだお互い、下の名前で呼び合ってて。自覚はしてなかったけど、たぶんこのころから好きだったと思う。
 子供の有希が、心配そうな顔でこっちを覗きこんでる。
 そんな顔しないでくれよ。
 情けないだろ。
 格好悪いだろ。
 俺は弱いって――思われたくない。
 こんなことなら、向かっていかなければよかったんだ。なんで俺はあんなバカなことをしたんだろう……
 あんなバカなことをしたから、俺は、ずっと、いまも、有希に、弱い男だと思われて……………………


        *


『おい。……おいっ』
 ガーティスの呼びかけで、亮介は夢から覚めた。
「あ、ここは……」
 夢がやけにリアルだったせいか、一瞬、ここがどこだったのか戸惑ってしまう。
『交替の時間だ』
 ガーティスの声は、変わらず硬い。
「ん。わかった」
 亮介が返事をすると、すぐに意識が入れ替わった。
 最初に、背中の感覚が戻った。木肌のごわごわがさがさした感触が、体との繋がりを亮介に実感させる。
 次に右手。手のひらにビニールシートの、ひんやりとした冷たさ。
 亮介は両ヒザを立てて抱え、三角座りの姿勢になった。そして口をヒザにつけ、顔を奥の闇に向ける。
 見据える暗闇は、果てがなくどこまでも続いているように思えた。変化のない闇を前にして、ただ時だけが変化を刻み続けていく。
 ――なんでいまごろ、あんな昔の夢を見たんだろう。
 亮介の疑問に答えてくれる人はなく、ただ虫だけが、ずっと亮介に話しかけていた。


第4章その1へ