クロッシングマインド 第4章 その1

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 空は、文句のつけようのない見事な秋晴れだった。まだ薄く白んでいるものの、その青の深さははっきりと見てとれる。太陽も、いつも通りに東から顔を出してくる。
 昨日と同じ、変わらない朝の景色。
 けれど、人の心は、ずっと同じではいられない。
 亮介は一晩泊まった林から顔を出して周囲を確認して、それから道路に踏み出した。有希もあとに続く。
 昨日登ってきた坂を、ふたりは下り始めた。歩幅は普通。速さも普通の人間並みだ。
「今日は、あれか。買出しに行かなきゃいけないんだよな」
「そうだね。近くにスーパーでもあればいいんだけど……。またお風呂屋さんが見つかったりしないかな。昨日はしそびれちゃったけど、こう、豪快にざっぱーんと」
 言いながら、有希が自分の背中に桶の湯をかける仕草をずる。
 が、亮介はまったくそれを見ていなかった。
 心の奥には、まだかなり黒いものがくすぶっている。一晩ずっと考えて、不安に駆られて、だけど黒いものがなくなるなんてことはなかった。
 人の性格なんてものは、変えろと言われたところですぐには変えられないものだと思う。
 あるいは、一生変わらないか。
 性格が変わらないということは、このままずっとみんなに迷惑をかけ続ける――ということだ。いや、迷惑だけならまだいい。
 自分のせいで有希が死んだら。
 考えたくないことほど、頭のなかから離れていってはくれない。ずっと留まって、心の平和をかき乱し続ける。全身いたるところから血を流しながら、潤んだ目できつくこっちを睨みつながら、生気を失う有希の姿――
 自然と、ため息がこぼれる。ずっと、こんな感じが続いている。
 亮介は足もとの石ころを、つま先でこつんと蹴っ飛ばした。小石は下り坂を転がっていく。かつかつと飛び跳ねながら、意外と遠く、下のほうまで行く。
 ようやく止まった小石から視線を上げると、見慣れた格好のやつらがいた。昇ったばかりの陽光で、体のグリーンが鈍く光っている。
 亮介がなにかを言う前に、ガーティスが素早く体を取って代わった。相変わらず気持ち悪いけれど、この作業もすっかり慣れたものになってきた。
『こっちです!』
 ガーティスがシュリアに叫ぶそばから、爆ぜるような音がいくつも亮介の領域に届く。見えている風景が、いま歩いてきたほうに引き戻っていく。
 昨晩泊まった林をすぐに過ぎ、そこからさらに坂を登ると、ほどなく道は行き止まりになった。突き当たりには工事現場にあるような黄色と黒のフェンスが張られていて、その向こうには鬱蒼とした雑木林が広がっている。雑木林の地面は暗く、不吉な予感を抱かせる。
 しかしガーティスは、それを無視した。あっさりとフェンスを跳び越えて林に入り、すぐ駆けだす。遅れて、フェンスのひしゃげる、ごゎあんという音がした。
 目が慣れてくると、林の地面は一面、木の根っこだらけであることがわかった。走りながら、ちろちろとガーティスは足もとを確認する。つまずかないためだろう。
 枯れ葉もたくさん落ちている。かさ、と葉を踏む音もする。
 地面はだんだん、下り坂になってきた。それを利用してガーティスは速度を上げる。
『なんだか……今朝は簡単に見つかっちゃったよね』
 唐突に、シュリアがそんなことを言った。
『そうですかね。まあ、昨日の夜からずっと、このあたりを張ってたんでしょう』
『そんな単純に考えていいのかしら。ひょっとすると、包囲網はもうとっくにできあがっていて、捕まるのは時間の問題なんじゃ――』
『そのような思考はなさらないでください』
 ガーティスの諌める声は、昨日の晩亮介に皮肉を言ったときと似ていた。妥協を許さない、信念に基づく言葉だからこそこもるものがあるのか。
『でも、ここ数日、見つかる間隔がだんだん早くなってるじゃない。……もう限界なのよ。やっぱり、逃げ切って帰るだなんて』
『シュリア様!』
 ガーティスは叫ぶようにして、シュリアの言葉を遮った。その遮りの、あまりに強い調子に、亮介はありもしない肩がびくつくのを錯覚した。
『あのときの決意はどうなさったのですか? ともにウィレールに帰り、宙軍政府を倒して王家を再興させると言った気持ちは!? ここで弱気になっては――弱気になったほうが負けですよ!』
『うん。それはわかってるんだけど、ね……』
 はっきりとした返事はせず、シュリアは語尾を濁す。
 それが、亮介にはひどく引っかかった。
 けど、いまはそんなことを訊ける状況じゃない。
 思い直すや否や、すぐ横の木の枝が球に弾かれて飛んだ。球はばらけて、そのうちのいくつかが目の前に踊り来る。ガーティスは体を捻ってそれを避ける。
 やがて、遊歩道のような細い道が見えてきた。坂の終わるラインに沿って、一本走っている。幅は一メートル半ぐらい。舗装はされてないけど、草は刈られ木の根はひとつもない。まっ平らで、いかにも走りやすそうだ。
 当然、ガーティスはそこに足を踏み入れる。
 そのとき。
 いままでとは全然違うほうから――左の奥から、ものすごい速さの球が飛んできた。
 際どいタイミングで、ガーティスはシュリアを地面に押し倒す。
 球は視界のすぐ横をかすめていった。一瞬、球が空気を焦がす音がしたような、気がする。あっという間のことだったから、はっきり憶えてないけど。
『なかなかいい反応をしているじゃないか、ガーティス』
 そこへ、やけに見下した調子の声がかけられた。伏せた姿勢のまま、ガーティスは声のほうへ顔をやる。
 そこには、敵の一団がいた。例のグリーンのボディが四人。そして四人の中心に、ひとりだけ色の違うやつがいる。黒っぽい青、むしろダークブルーと言ったほうが合ってるか。
 そこへ、さっきから自分たちを追っていたやつらも合流した。敵はこれで、合計七人。
 終わった。亮介は素直にそう思った。七人で包囲されたら逃げられるわけはない。不安と緊張のなか、ただガーティスの見ているものをじぃっと追いかける。
 しかし、敵は包囲の体形を取らなかった。集まった敵は皆、ブルーのうしろについてしまったのだ。そしてなにをするでもなく、突っ立ってこっちを見下ろしている。
 明らかに、様子がおかしい。
『そんな顔をするな、わざわざお前のために追跡隊に志願してやったんだから』
 ブルーの口から、流暢な日本語が――あ、そうじゃないんだっけ。ガーティスによると、俺たちはウィレール語を聞けるようにはなってるんだったか。話すことはできないけど。
 どうやらこのブルー、ガーティスとは知り合いらしい。
『ギレーキ……なんでお前が――』
 奥歯の強く噛み合わさった、ぎりっ、という音が聞こえる。ガーティスのものだ。
『意外だったか? おれが志願したことが。お前がおれに対してしたことを考えたら、そう不思議なことでもないんだがな。……しかしあれだな。こんな辺境の星に逃げこむなんて、お前もなかなかしつこいなと思ったが――まさかこんな野蛮な現地人のなかに入るとはな。さすが平民出はやることが違うよ。くくく……』
 ダークブルー――ギレーキの口もとが、大きく吊り上がって歪められた。見ていて不愉快な笑いかただ、と亮介は思う。
『なにが狙いだ』
 敵意を剥きだしにして、ガーティスが訊ねる。
『狙い? なに、おれは親切な人間だからな。お前らのことだから、現地人に言ってないんだろう? なぜ、王家はクーデターを起こされなければならなかったのか。知りたいとは思わないか?』
 ギレーキが、覗きこむようにしてガーティスを――いや、その奥の亮介を見てくる。
 見透かされるような感じがして、亮介は気持ち悪くなった。
「あなたたち宙軍が権力欲しさにクーデターを起こした、ってことなんでしょ。しかも圧政を敷いて、自分たちだけに都合のいいような政治をやってるって」
 と、毅然とした声で、有希がそう言った。いやでも、有希には悪いけど、日本語で言っても通じないんじゃ……
『くくくくく……こいつはとんだお笑いだ』
 ところが、ギレーキは体を折り曲げて、激しく笑いだした。
 すごく、気分が悪くなってくる。笑顔だけじゃなく、笑いかたそのものが気持ち悪いのか。ガーティスも同じだったらしく、見上げていた視線を下へ戻した。
『ギレーキ、お前この星の言語まで習得したのか』
 それから、吐き捨てるようにつぶやく。
『ああ。お前に復讐するのに便利かと思ってな。ソフトを作らせたんだ。しかしまさか、こんな面白い形で役立つとは思わなかったよ。くははは。――圧政? 家格に基づく序列化の復活のどこが圧政だ。それを圧政と呼ぶのは、たいした身分でもないのにダメな兄貴に続いて特務隊に入った弟か、貴族改革と称して自分たちの地位を護ろうとした王族の人間ぐらいの』
『やめなさい! 火司《イルス》のグァバンジとして恥ずかしくないのですか! グァバンジ=イルス=ココ=ギレーキ!』
 シュリアの怒声が、ギレーキの言葉を遮った。叫びながらも、凛とした声だ。
『恥ずかしい? あなたの存在のほうが、よっぽどウィレールにとって恥ずかしかったのですよ。レピンニの飾り姫様。それにもう、火司《イルス》でもありませんよ。王家は滅んだんですから』
 どうやら、その言葉はシュリアにとってかなり屈辱的な言葉だったらしい。シュリアから二の句は継がれなかった。
『王家はまだ滅んでない!』
 変わりに、ガーティスが叫ぶ。
『血筋は消えてないかもしらんが、実態はすでになくなっているだろう。〝滅ぶ〟ってのはそういうことなんだよ、ガーティス。それにしても、お前もずいぶんと落ちたもんだなぁ。訓練学校でおれに対してさんざやってくれた男がこれほどまでに……くくく……』
 ギレーキは屈みこんで、ガーティス――亮介の顔を見る。ガーティスは目を合わさない。
『こんな役立たずの王女に尽くして……まったく、どんな優秀な男でも道筋を誤るとこんなことになってしまうんだなぁ。怖ろしい話よ』
 ねっとりとするような声で、ギレーキは語りかけてくる。胃はないのに、なぜか吐き気を亮介は感じる。自分に力があって、かついま体を動かせられるなら、間違いなく殴っているだろう。
 しかしガーティスは、そんなギレーキにいっさい構うことなく、自分のための行動をしていた。手を腹の下に置いて、足首を立てる。両のつま先を地面につける。
 そして、ギレーキと目を合わせたかと思うと。
『喋りたいだけなら、行かせてもらうぞ!』
 シュリアを――有希の体を左腕で抱えると、斜め上に向かって、跳び上がった。手近な枝に着地する。
『逃げられるとでも? この人数相手に』
 ギレーキがそう言うと、背後にいたグリーンのうち四人が駆けだした。
 それを見下ろしつつ、ガーティスはさらに上へ跳ぼうとする。
 その足が、滑った。
 慌てて右手で枝を掴むが、掴んだそばから枝の根元へ球が飛んできた。枝は乾いた音をたてて、脆くも折れる。
 なんとか体を寄せて、シュリアをかばうのが精一杯だった。そのまま、地面に着地する。
 四人が素早く、まわりを取り囲んだ。
 ガーティスも遅れることなく、棒を作りだして構える。シュリアにはその場で屈んでいてくれ、と目で指示する。シュリアは頷きを返す。
 それを見るやいなや、正面に向かって飛びこんだ。重心を落としているからか、視界が下に沈む。ガーティスの見ているものの焦点が、敵の胸から足に移る。
 右手に持った棒が、ふたりの足へ向けて伸ばされた。敵ふたりはうしろへステップして、それを避ける。
 ガーティスは体を右に沈みこませると、間髪いれず左足を前に踏みこませた。
 視界の端に、切り返され斜めに振り上げられた棒が映る。
 棒は右側の敵の首に、見事にヒットした。相手はそのまま、仰向けにふっ飛ぶ。
 ガーティスは最後までその様子を見ることはせず、棒をうしろへしならせながらターンした。視界に映る林の木々が、右から左へ流れる。
 そして流れの終わりに、敵の姿が目に入った。
 ただし、それは倒れる寸前のものだったけれど。ガーティスの持っている棒は、襲いかかろうと腕を振りかぶっていたそいつの顎を直撃していた。
 やはり倒れるのを確認せずに、ガーティスはうしろへ下がって間合いを取り直す。下がりながら、シュリア――有希の奥襟をつかみ、自分よりうしろに下がらせる。
 そこで再び構えを取って――お互い、動かなくなった。
 急に、音が世界からなくなっていく。ガーティスが息を整えている音だけが聞こえてくるだけだ。ほかはなにもない。静かすぎて、不安になってくる。
『ほう。なかなか……』
 ギレーキが感心したように、声を漏らすのが聞こえた。
 それっきり、また音が途絶える。
 ガーティスの呼吸が、だんだんテンポがゆっくりになってきている。手もとを細かく動かしながら、相手の出方をうかがっている。
 相手の目も、こっちを捉えている。いかなる感情もなく、ただ打ち据えて捕まえることだけを考えているような、そんな目をふたりともしている。
 そうして、焦れるような時間が続いて。
 今度は、向こうが先に動いた。それも、同時に。
 わずかに遅れて、ガーティスも動く。右側の敵に向かって、間合いを詰める。右足で前へ強く踏みこむ。
 けれど、初動の遅れは、そのまま先手争いに大きく響く。
 こっちが手を動かす前に、目の前の敵は棒を振り下ろしてきた。
 なんだか、棒が普段見ているものより巨大に見える。こんなのが当たったら、この体、とても無事じゃすまないよな……
 考えている間に、視界が左へスライドした。ガーティスがステップして避けようとしたのだ。
 しかし今度は、左側の敵の姿が目に映った。ガーティスが苛立ったように、喉を鳴らす。たぶん、思っていたより跳びすぎたんだろう。それで左の敵に近くなってしまったのだ。
 隙を見逃さず、そいつは棒を打ち下ろしてきた。
 ガーティスは左肩に両手を引きつけて、なんとかその攻撃を受け止める。止めた位置が位置だけに、腕に充分な力が入らない。押される。腕が体に、さらに近づいてくる。
 タイミングを計って、ガーティスは上体を捻った。相手の棒が弾かれ、少し浮く。
 その一瞬を利用して、ガーティスは相手のヒザに左足を乗せた。そして蹴る。相手の体を利用したバックステップだ。
 また、間合いが開く。
 今度はお互い、そこで止まりはしなかった。
 ここがチャンスとばかりに、左の敵が踏みこんできた。
 ガーティスも、それを待っていたように体を沈みこませる。目の焦点は、相手の左ヒザ。
 そこへ、一閃。
 ヒザを抱えて、相手は倒れこんだ。
 もちろん、ガーティスの目はすぐにそこから離れる。すぐに右に跳ぶ。もうひとりの敵の顔が、視界の中央に来る。
 ガーティスは止まらない。
 両腕を肩のうしろに引きつけると、棒を倒して先端を相手に向けた。
 そのまま、喉もと目がけて、突きを繰りだす。
 相手は突きを予想していなかったのだろうか。反応しきれず、まともに喰らってしまった。嫌な声を出しながら、その場に前から倒れてしまう。
 そしてガーティスは、さっきヒザを砕いた敵のもとへ歩み寄った。無言で、そいつを見下ろす。そいつは痛がるばかりで、こっちが近づいたことに気づいていない。
 首の裏筋に、棒を打ち据えた。
 そいつの体が、ぐったりとなって動かなくなる。
 それを見届けて――ようやく、ガーティスは大きく息をついた。
『さすがだな、ガーティス。やはりこいつらでは相手にならんか。そんな未開人の体で、しかも精神がふたつある状態だというのに。たいしたもんだ』
 明らかに見下した口調で、ギレーキが言う。
 それに対して、ガーティスは言葉を返さなかった。
 黙って、ギレーキに向かって構えを取る。
『ほう。やる気か、このおれと』
『当たり前だ。お前を倒さないとこっちは逃げられないのだから』
 そう言うガーティスの呼吸は、まだちょっと乱れている。息をする音が、領域のなかを吹き抜けている。
『そんな体たらくで、よく言う。いまのでかなり消耗したようだな。未開人の体で、しかも二心状態でいるから、あの程度の相手で息を乱すんだ』
 そしてギレーキは、視線をシュリアのほうに向けた。顔には満面の笑みを浮かべている。
『統合してしまえよ。ガーティス。飾り姫様がせっかくいるのだから。くくく……』
 本当によく笑う男だ、と亮介は思う。それも人を不快にさせる笑いばかり。正直、こいつとこれ以上同じ空間にはいたくない。口が使えるなら唾でも吐きたいところだ。
 でもいま、なにか変な言葉を言わなかったか? 〝統合〝がどうとか……
『黙りなさい! 星民から税理を貪るような愚昧の輩が、王家の名を辱めて御尊霊様に許されると思っているのですか!』
 シュリアの怒声が、背中から飛んできた。
『貪るとはひどい言いかたですな。貴族の特権ですよ? 家格の優れたものが愚民の上に立ち、導いていく。当然の摂理です。貴族制は御尊霊様が始められ、確立していったものなのですから、かえってお喜びになられることでしょう。そもそも愚昧の輩と言われますが、いまウィレールを治めているのは我々なのですよ? 我々の舵取りあってこそ、内乱に乗じた外部干渉も受けずに済んでいるのです。能無しの王家のことなんて、もうほとんどの星民が忘れ去っているでしょう。そのあたり、わかっておられるのですか? 飾りひ――』
 言葉が最後まで紡がれるのを待たず、ガーティスはギレーキに飛びかかっていった。
 ギレーキは少しも慌てず、流れるようにして腕を伸ばすと、手のひらに瞬時に棒を作りだした。まったく力んだ様子もなく、棒を体の前に出す。そこにこっちの棒がぶつかる。
 そのまま、押し合いになった。
『いまのお前ごときがおれに勝とうだなんて、認識不覚も甚だしいわ。愚かしい』
 見上げるギレーキの顔は、笑みこそ浮かんでいないもののやはり余裕に満ちている。全身どこを見ても、力みというものが見えない。
 だというのに、こっちが徐々に押されてきている。
『……つまらん』
 と、ギレーキはあっさりガーティスを突き放した。地面に尻もちをついて、ガーティスがくぐもった声を漏らす。
 ギレーキはくるっと、背中をむけた。
『おい。あいつの相手をしてやれ』
 そして、うしろに控えていたグリーンふたりにそう告げると、そのまま奥に歩いていってしまった。まるでこっちに関心がないかのように。
 新たな敵となったふたりは、ほぼ同時に棒を作りだす。すぐに間合いを詰めて、こっちに跳びかかってくるだろう。
 早く立ち上がって、こっちも構えを取らないといけない。
『シュリア様! 走って!』
 しかし、ガーティスの叫んだことは、亮介にも意外なことだった。立ち上がってすぐに敵に背を向け、全速力で走りだす。平らな遊歩道が、充分な加速を自分たちにくれる。
「なんだよ。倒すんじゃなかったのか?」
『ああ言えば、うしろを塞がれることはないと考えた! ここは真っ向戦うより、逃げたほうが生き延びられると思ったんだ!』
 返事を聞いてるそばから、道の脇に立っていた木の枝が数本まとめて粉砕される。近くにいた鳥が驚いて飛び立っていく。今回も、向こうは数を撃ってくる作戦のようだ。
 ガーティスは、一度もうしろを振り返らない。前を行くシュリアをかばう位置に立って、ひたすら逃げている。
 あるいは、振り返る余裕さえないのか。
 さっき整えたばかりの息は、また激しく乱れている。いつもならきょろきょろと目まぐるしくまわりを確認するのに、いまは目の前のシュリアだけしか見ていない。
 あんなに頼りがいのあるやつだと思っていたガーティスが、ここまで追いこまれている。
 言葉が、ない。
 たぶん、これが本物の〝必死〟ってやつなんだろう。いままで生きてきて、自分は一度もこんなふうになったことがない。それはもちろん、怖がっているからなんだけど。
 だけどガーティスは、いままさに〝必死〟になって目的を果たそうとしている。
 失敗することが、怖くないんだろう。
 やっぱり、勇気を持てる人とそうでない人とは生まれつき分かれているんだ。だってこの自分とガーティスが同じ心を持つだなんて、到底ありえないんだから。
 と、ここで初めて、ガーティスがうしろを振り返った。
 いつの間にか、敵の姿がなくなっていた。さっきから攻撃が減ってきたなとは思っていたけど……
「撒いた、のか?」
 あんまり期待せず、おそるおそる、亮介は訊いてみる。
『そうらしい……』
「でもなんか、おかしくないか。いつもはもっとしつこいと思うんだけど」
 なんだか、わざと退いたような気がするのだ。さっきのギレーキのこともあるし、亮介にはそう思えてならない。
『さあな。……どのみち、こちらにできることは逃げることだけだからな』
 ガーティスはその疑問を一蹴した。確かに、相手がわざと追ってこないのだとしても、こっちの行動は変わらない。逃げて、地球を脱出することだけだ。
『もうちょっと進んでから、少し、休憩しよう』
 そう言って、ガーティスはまた走りだした。かなり疲れているらしい。自分から休むだなんて、言ったことなかったのに。体を返されたときが怖いな、と亮介は思う。
 いや、それよりもまず、気になることがある。
 さっきのギレーキとの会話のなかで、いくつか亮介の知らないことが出てきた。〝クーデターを起こされなければならなかった〟の話でギレーキが爆笑した理由とか、〝統合〟とか――いろいろ聞いたつもりだけど、まだガーティスたちが話してくれてないことがあるらしい。
 でも、たぶん訊いても答えてくれないだろう。話す気があったら、これまでにもう言ってくれてるはずだから。
 それでも、こっちとしてはなんとか言ってほしいんだけれど。ここまでかかわらせておいて、大事なことは言えないなんてのは都合がよすぎると思う。
 だんだん広くなってきていた道は、さらに土からアスファルトの舗装に変わった。ぼこぼこした汚い舗装だけど、それでも見栄えはぐっと増す。ガーティスはその道を、軽く跳ぶようにして走る。
『ねえ、ガーティス……』
 突然、前を行くシュリアが口を開いた。いままでになく思いつめた声に、亮介はなにかいやなものを感じる。
『なんです?』
 ガーティスが聞き返すが、返事はなかなか出てこなかった。
 一分ぐらい、そうして走っていただろうか。
『もうだめ。わたし、これ以上あなたに迷惑をかけられない』
 言って、シュリアは完全に立ち止まってしまった。視界が有希の姿を追い抜き、うしろへ置いていく。
 ガーティスはすぐに止まって、シュリアのほうへ向き直った。
『シュリア様……』
『わたしは、ギレーキたちの言うとおり、無能な、ただのお飾りの王女でしかないのよ。あなたは特務隊だったから、その責任感でずっとわたしについてきてくれてるんだろうけど……。もう、いいの。こんなわたしのせいで、あなたが迷惑を受けてしまうなんて理不尽すぎるもの。だからわたしは、これ以上逃げるなんてできない』
 ガーティスは一言も返さない。うつむいて話すシュリアの顔を黙って見続ける。
『見たくないの。あなたがわたしのせいで苦しむのは。わたしには、あなたを苦しめていい権利なんかないのに……』
 シュリアの声はだんだん小さくなり、最後には消え果ててしまった。
 ガーティスはまだ、なにも言わない。風が木々をざわめかせる音だけが、亮介の領域のなかで響く。
 言わないのではなくて、むしろ、言えないのかもしれない。
 感情にまかせて叱りつけるのは簡単だ。だけどガーティスにしたら、相手は自分の上司――もとい君主で、だからなるべく相手の神経を逆なでしないように言葉を選ばなきゃいけない。しかもその上で相手に考えを改めさせるような言葉を言わなきゃならないとなると……見つけるのはかなり難しい。
『ご自分のことを、無能だなんて言うのは、やめてください』
 やがて、ガーティスは声の調子を抑えて、口を開いた。
『確かに、いままでの王にはすべて能力がありました。その意味では、あいつらの言い分も外れてはいないのかもしれません。でも、それがなんだって言うんですかっ! 王家の人間として果たすべき責務――それを果たすのに、能力は関係ありませんっ』
『……やっぱり』
 シュリアが、ゆっくりと顔をあげた。
 そこにあったのは、悲しみと怒りがない交ぜになった表情だった。
『あなたはいつもそう。口を開ければ、王家の責任だ責務だ、って。それしか言わない。わたしが無能な時点で、みんなはわたしを王としては認めないし、だから責任だって果たせるわけがないんだから。あなたがどれだけ頑張ってくれても、わたしがこんなだから……どうにもならないのよ!』
 そして、シュリアは身を翻して、林のなかに走っていってしまった。
 完全に、ガーティスは不意を突かれた。あとを追えない。
『シュリア様!』
 呼びかけても、もちろん止まってくれはしない。あっという間に、シュリア――有希の姿は木々の奥に見えなくなってしまった。
 ガーティスはただ呆然と、消えていった林を見つめる。林の奥から、カラスが間の抜けた声で鳴いているのが聞こえる。それがやけに亮介の不安を掻きたてる。
「おい、追わないのかよ?」
『ん、あ、ああ……』
 亮介に言われて、ガーティスはようやく足を動かした。けれど、普段と比べてまったく速さが上がってこない。
「早く追いつかねえと、マズいんじゃないのか? いま襲われたら絶対捕まるぞ」
『あ――』
 このことも、言われないと気がつかなかったらしい。いつもと同じ速さまで、ぐん、と加速する。
 やっぱり、ガーティスにしたらショック、だったんだろう。だから意識が働かなくなって、いちいち自分に言われないと気がつけない。
 でも……話の背景がいまいち見えないから、ガーティスに同情することもできない。王女様が逃げたのはわかった。それがガーティスに対する裏切りだってことも。だけど、その前のギレーキの言ってたことが見えないから、王女様とガーティスの話していたことも理解できない。
 こうなったら、やっぱり、言ってもらわなきゃダメだろう。
「なあ。お前らは言いたくなかったのかもしれないけど……。こんなことになった以上、なにも言わないってのはナシだと思うけどな」
 思いのほか、声に苛立ちが出てしまった。もっとソフトに話しかけるつもりだったのに。
『特に、隠したかったわけじゃ、ない』
 ガーティスは短く区切る口調で、そう切り返した。言葉のひとつひとつを口に上らせるのが重くて、そんな話しかたになっていることは察しがついた。
『ただ、シュリア様の前でこんな話をするのは、気分を害されるから……』
「ああ、べつに責めてるわけじゃないんだ。言いたくないことのひとつやふたつ、あったっておかしくないんだから。ましてや俺たちは、事故で偶然同居することになった、行きずりの関係みたいなもんだし」
『……すまない』
 なんだか、場の空気が暗く、重い。このままずぶずぶと沈んでしまいそうな気さえしてくる。鬱蒼と葉を繁らせた林の薄暗さが、さらにその雰囲気に輪をかけている。
「それじゃあ訊くけど……まず、〝統合〟ってなんだ?」
 なるべく明るく聞こえるように、亮介は言った。
『ひとつの体にふたつの精神が入っているとき、よりスムースな体の制御・行動のために、ふたつの精神をひとつにまとめることができるんだ。ただこれは、ふたり分の大きさをひとり分にするというだけのことではなくて、人格の統合をも伴うものだから――普通はやらない』
「人格の統合って、なんだよ」
『簡単に言えば、統合するほうの人がこの世からいなくなる、ということだ』
 なるほど。そりゃあ普通はやらないだろう。
「でもなんだって、そんな危ないことができるんだよ。お前らは。もともとふたり分入れること自体が、異常なことなんだろ?」
『異常ではあるが、研究がなされなかったわけじゃない。〝統合〟については、初等教育の段階で教えられる。統合にはメリットもあるからな。ふたりがそれぞれ持ってた能力ソフトを、ひとりで持てるんだ。体内における処理速度も速まるし。ああ、もちろん、精神統合が一般常識として確立したのは、統合したものを元通りに切り離す方法の存在がわかってからだぞ。ただ、だからといって、人格を一時的にでも失くすことの恐さは変わらないけどな。みんな恐いからやらないわけだし』
 ガーティスは一気にまくしたててくれたけど、亮介には話半分も飲みこめなかった。ガーティスの普段生きている世界ってのがわからないから、それに基づいて説明されてもちんぷんかんぷんだ。
 突っこんで訊いてもたぶん理解できそうにないので、亮介は次の質問に進む。
「じゃあ次。さっき散々言ってた、〝能力〟って、なんだ?」
 言って、けどなんの反応も返ってこなかった。一瞬、自分が本当にちゃんと喋ってたのか不安になる。
 走っているガーティスは、前方斜め下を見ている。下に固定したまま、左右に激しく焦点が揺れている。
「べつに、言いたくないんならそれでいいけど……。先に、違う質問をするから。〝クーデターを起こされなければならなかった〟――って、どういう意味だ?」
 なおも、反応は返ってこない。ガーティスは立ち止まって左右を見やり、シュリアの行った方向の見当をつける。
 右手奥のほうへ、足を向けた。依然として、木々の深さは変わらない。
 言いにくいんじゃなくて、やっぱり本当は言いたくないんじゃないだろうか。
 亮介はあきらめて、前にいるはずの有希のうしろ姿を探すことに集中しようと、視界に意識を傾けた。
『そのふたつは、ひとつの線で繋がっている』
 と、突然、ガーティスが口を開いた。
『さっきは、シュリア様が気分を害されるから、と言ったが、このことは私にとってもかなり気が重いことなんだ。だから』
「言えないってわけ、か」
 先を予測して、亮介は言葉を継ぐ。
 しかし、その予測ははずれた。
『いや、このことは亮介にも言っておかなければならない。むしろ、こうなるまで言わなかったことを責められても仕方がないくらいで……』
「そんな責めるとか、そういうことはしないけどさ。さっきも言ったけど、言いたくないことぐらい誰でもあるんだから」
 それに、重要なのはこれまでの経緯じゃなくて、いま早くそれを教えてくれることだ。
 ガーティスは短く感謝の言葉を言ったあと、ニ、三度咳払いをして、それから静かに、話を始めた。
『少し長くなるが、まず国の体制について話をする。最初に私が名乗ったときのことを覚えているか?』
「あ、ああ」
『あのとき、私が言った国名は? どうだ?』
 亮介は記憶を巻き戻す。会ったのは三日前のことだ。神社の裏から走って山のなかに入って、そこで……
「確か、ウィレールの前になにかついてたよな。よく、覚えてないけど」
『祖導ウィレール王国、だ。〝祖導〟とは、自分たちの先祖によって国が導かれている――という意味なんだが、このことに、さっきの質問の答えがあるんだ。これから、それについて話をする。……先祖によって導かれている、というのは、なにかの例えや抽象ではない。本当に、導かれているんだ』
「導くって、どういうことだよ」
 ガーティスは、具体的に言う前に抽象的なことを言うことが多い気がする。おかげで話を理解するのに、ワンテンポ遅れてしまう。
『それを説明するには、まず我々の習慣や思想について話さないといけない。――我々が近代になってから、体を取り替えるようになった、ということは話したな? そうなると、普通はそこから体と精神は別のものだ、という精神独立の考えが発生してくることになるんだろうが……我々は近代以前から、体と精神は別のものだということを知っていた』
「なんで?」
『ある一族に、そういう〝分離〟の能力があったからだ。自分の精神と体を分離する能力。分離して、精神だけで世界に留まれる能力。近代に入ってからはさらに、統合した精神を元に戻す〝分離〟もできるとわかった。それを有しているのが、王族なんだ。むしろ、その能力があったから、王族として国を治められたと言うほうが正しい』
「じゃあ、さっきの〝能力〟って、それのことか?」
『ああ。そしてシュリア様は、その能力を事故で喪失してしまっているんだ』
 喪失。
 ガーティスはさらりと言ったが、その単語は亮介の心に鋭く突き刺さった。失うことは、それ自体が怖いことだと思う。
『ウィレールの王族は、自分の精神を分離して外に留まり、その状態で祖霊の託宣を受けることができる。祖霊というのは、過去に国を治めていた王族たちで――生前、精神体だけの状態になることのできた方々だから、死してもなお、意識体として存在し続けられるらしい。そして意識体になると、星を取り巻く運命の流れが、〝見える〟らしい。……このあたりのことは、歴代の王族が語ってきたことで、私が実際に御尊霊を見たわけではないからよくわからないのだが……。それでも、その導きに従って、これまでなんとかうまくやってきたのは確かだから、私は歴代の国王陛下が仰られてきたことはすべて真実だと信じている』
 長い説明を、一息にガーティスは喋りきった。口のなかに唾が溜まりすぎたらしく、足もとにそれを吐き捨てる。
 霊魂とか託宣とか、そういうオカルトなことは亮介はあまり信じていないのだが、ガーティスの言うことを疑う気は起きなかった。だって、こんな宇宙人と体を共有してること自体が、ほとんどオカルトみたいなものだし。
 むしろそれより、亮介はあることに気になった。
「運命が〝見える〟ってんならさ、なんで、クーデターを防げなかったんだ?」
『……わからない』
 答えたガーティスの声は、地の底から引っぱり上げてきたような声だった。
『それこそが、やつらにしてみれば自分たちの行動の正当性を主張する根拠になっているんだが……歴史を顧みれば、ウィレールはすべての危機を順当に回避してきたわけではないから、御尊霊にも、わかることとわからないことがあるのだ、と私は思う――』
 最後は自信なさそうに、ガーティスは声をすぼめた。これ以上この話題を続けると、また勝手にひとりで落ちこんでしまいそうだ。亮介は話題を切り替えようとした。
「まあ、能力のことはなんとなくわかったよ、いまので。それじゃあ、クーデターを起こされうんぬん、っていうのは――」
『それは』
 こっちの質問を積極的に遮ったわりに、ガーティスはなかなか次の言葉を継がなかった。また、目の焦点がせわしなくさまよう。有希の影は、まだ見えない。木漏れ日が地面に、白い模様を描いている。
 十秒も走って、それからようやく、口を開いた。
『宇宙交流時代を迎えてから、ウィレールには王制・貴族制の廃止を唱える人々がぐっと増えた。と言っても、私の曽祖父のころの話だけども。特にどういう階層や職業にそういう人が集中していたということはない。貴族のなかにも王制は民主的でないと言う人がいたし、一般星民においては王制を支持する人のほうが多い。ただ、宙軍だけは例外だった。他の星のことに触れる機会が多いから、そういう思想の影響を受けた人間が、他より多くなったんだと思う』
「それで?」
『ことの発端は、シュリア様が六歳のときのことだ。初めて公式の場でせ精神を分離をさせ、正式な王家の一族として認められるという、そういう儀式があるんだが、そこでシュリア様は分離のさなかに、留守だった体のほうを廃王派に襲われた』
「それが、事件?」
『そうだ。戻る場所を失いかけるという恐怖を味わったシュリア様は、そのことがもとで能力の一切を喪失してしまった。すると廃王派が、王女は王族たらん資格をもっておらず、このままそのような無資格者が国政を執る事態となるのはおかしい、と言い出して……。それが彼らの言う、〝クーデターを起こされなければならなかった〟というところの意味だ』
「ふぅん」
 ようするに、国のシステムを変えたかった人たちが、自分たちで事件を起こして、その結果起こった幸運に乗っかったってわけか。でも、事件以降にその人たちが言ってることだけを聞くと、どことなく納得できてしまうところがある。
「で、でも、原因を自分たちで作ったことは別として、国王になるには、その、託宣を受けられる力が要るんじゃないのか? だからそいつらの言うことも一理」
『国王としての責務を果たすのに、能力は関係ないっ!』
 ガーティスに激しく怒鳴られ、亮介は自分の精神がすくみあがったように感じた。
『託宣はもう、あくまで補助的な機能にすぎないんだ。それを政治の中心にしていた時代なんて、ずっとずっと大昔のことだ。だから、そんな能力なんかなくたって、国を治めることはできる! できるんだ! なのに――』
「もういい、いいから。悪かったよ、わかってもないくせに相手の肩持つようなこと言って」
 そうだ。託宣がなくても国を治められるなら、力はなくても構わない。ガーティスは宮廷にいたんだから、おそらく政治の内情を普通の人より詳しく知っているんだろう。
 でも、だとすると。
「それじゃあ、なんで王女さんは走って逃げたりまでするんだよ」
『それは――』


        *


『ガーティスは、わたしがこんなのであるにもかかわらず、まだ王家としての責任を果たせると思ってるの。でも、王家の責任っていうのは、能力があって初めて果たせるものだから――だって、王家が王家であることを示すものは、能力以外にはないんだから。それがないわたしには、いくら言われてもどうすることもできないのよ』
 林の奥深くで、シュリアはすでに歩いていた。
 繁る葉に覆われて、あたりはどことなく薄暗い。葉の間からこぼれて地面に映る陽光が、やけにまぶしい。シュリアは目を細める。あたりに立ちこめるこの星独特の匂いが、鼻の奥を刺激する。これが植物の匂いなのだと思うと、なかなか感慨深い。
 こんなときでなければ、もっとこの自然を堪能できるのに、とシュリアは思った。ウィレールのどこにも、これほどまとまって植物があるところはない。体の自由をもらうときは逃げているときだけだから、こんなふうに植物の群れのなかを歩くことなんてできなかった。
 したいしたいと思っていたことをようやくできたのに――シュリアの心はもちろん、晴れやかになったりしない。
 有希は黙っている。いまちょうど、能力のことについてひと通り説明をしたところだ。なにか言葉を返してくれてもいいのに、なにも言ってこない。
 その沈黙が、いまのシュリアには堪える。
 なんでもいいから、なにか言ってほしい。なにか言って、自分の口を塞いでほしい。でないと、心のなかで行き場を求めているものが、膨れ上がって外へ弾け出てしまいそうだから――
「でも、ガーティスさんのこと、嫌いじゃないんでしょ?」
 そこでようやく、有希が言ってくれた。
 けれどその内容は、シュリアの予測とは大きく外れていた。シュリアはちょっとまごつく。
『ま、まさか。そんなことあるわけないじゃない。ガーティスは、なにかと蔑まれることの多いわたしに、ずっとよくしてくれてきたんだから。たぶん、お兄さんのことがあるからだと思うけど……』
「お兄さん?」
「え、ああ。言ってなかったわね』
 訊き返されて、初めてシュリアはそのことに思いあたった。一度に多くのことを説明したために、なにを言ったか自分でも混乱してしまっていたようだ。
『わたしが襲われたとき、ガーティスのお兄さんはわたしの警備担当だったの。でも襲撃を防げなかったことで責任を問われて、離宮に飛ばされてしまった。たぶん、そのあたりのことを、ガーティスは気にして、それで……』
 シュリアは、ガーティスの性格についてはよく理解している。
 自分の信念にまっすぐで、曲がったことは嫌い。責任感が強く、何事も投げ出さない。仲間の失敗を自分の失敗と感じ、仲間の分まで罪をかぶろうとする。
 そんな人だから……ガーティスは、お兄さんの失敗の償いのために、わたしに尽くしてくれているだけなんだ――シュリアはそう思っていた。
 でも、そう思えば思うほど、シュリアの胸はいつもなぜか苦しくなっていく。いまも、そうだ。ひとりになってから、ずっと苦しい。
 なんでそうなってしまうのか――いつも、そうなるたびに考えるのだけれど、シュリアにはさっぱりわからなかった。
 そして、わからないと思い知らされるたびに、苛立ちが募っていく。苛立って、ガーティスにたしなめられるようなことをわざと言ってしまう。
 でも、今回のことは完璧にトドメだった。たしなめられる程度じゃすまないだろう。
『これでガーティスも、わたしに愛想が尽きたでしょうね。痛いところを突かれたからって、あんなに簡単に逃げちゃったんだから』
 シュリアは、自分をメチャクチャにしてしまいたい衝動に駆られていた。
 問題に対して、面と向き合う勇気のない自分。
 ガーティスの気持ちを知りながら、逃げだしてしまう自分。
 それを変えなきゃいけないって、わかっている。何年も前から。ずっと前から。ガーティスと出会う前から。――変えなきゃ、って思っている。
 でも、そこまでわかっていても、シュリアのなかにある結論が変わることはなかった。
 ――能力がなければ、王家の責任なんか果たせない。だから、たとえ立ち向かっても結局ムダに終わる。
 どうしてウィレールは、ここまで王制を保ってこれたのか。それはひとえに、〝能力〟のおかげだ。能力のおかげで人々は危機を避け、平穏な暮らしを続けられた。そして人々は、能力によってそれをもたらしてくれた国王を支持した。
 なら、能力を持たない王族は――どうなる?
 そんな国王を支持する人々というのが、シュリアにはまったく想像できなかった。
 シュリアの祖父……幼いころに亡くなった先王の見立てによれば、シュリア本人の気持ち次第で、いつでも能力は戻るらしい。
 けれど結局、この年になるまで約十年。能力は戻ってこなかった。もちろん、自分なりに努力はしてみた。冥想室を設けてそこに一ヶ月篭ってみたり、わざと二心状態にして体が空っぽににならないようにしたうえで試みてみたり。怪しい薬もいくつか飲んだし、怪しい寝具も取り寄せてみたりした。
 どれも、なんの意味もなかった。
 あきらめの悪いことは、ときに不幸な結果しかもたらさない。シュリアがこれまで生きてきて得た、最も大きな教訓だ。ガーティスも自分の意識改革をあきらめなかったから、理不尽にも追われる身になってしまったのだ。教訓は、いつも真実から外れない。
「それはわからないよ。これだけで愛想が尽きるかどうかなんて。あなたたちにしてみれば、ほんとに遠いところまで来たんでしょう? この星は。だったら、もうガーティスさんは覚悟を決めてると思う」
 有希の声で、シュリアの意識は引き戻された。
『覚悟――って?』
「これぐらいのトラブルは、予想の範囲内なんじゃないか、ってこと。能力がないと責任を果たせないとかいう考えも、こんなふうに逃げることも、全部見透かされてると思うよ」
 シュリアはその言葉に対して、答えられなかった。
 ガーティスがそこまで、すべて自分のことをわかったうえで、それでもなおこんな自分のことをなんとかしようとしてくれているのだとしたら。
 シュリアは恥ずかしい気持ちになって、そしてすぐに怖くなった。自分の幼さと、ガーティスがそこまで自分にしてくれているかもしれない、ということに。なんの打算もなく、自分に無条件で尽くしてくれる人間など、これまで誰もいなかったんだから。
 ――ひょっとしたら、ガーティスは初めてのそういう人間なんだろうか。
 いやでも、これまでの例に漏れず、ガーティスもやっぱり実は演技で……
 シュリアははっとして、思考を急いで振り払った。
 真実はどっちかわからない。でも、ここまでしてくれている人を疑うなんて、あんまりじゃないか。なにより、自分が一番ガーティスのことを信じていたい。
「まあいろいろ、あなたにもまわりからのプレッシャーとか、そういうものがあったと思うよ。それが苦しい気持ちは、わたしにもわかるけどね――ってこら、服を脱ぐな」
『え? あ、ごめん』
 考えを深くするあまり、また無意識に服に手が伸びてしまっていた。手を引っこめる。
「ほんとに、ぜんぜん直す気がないんだね」
『そういうわけじゃ、ないけど。……ごめん』
「まあいいよ。ちょっとずつ治まってはきてるし」
 そうやって許してくれる有希の声は、明るく朗らかなものだった。いまの自分とは対照的に。有希はいつも明るく話しかけてくれる。こんな性格だったら、自分も逃げたりはしなかったんだろうか。
「わたしもね、まわりの期待に苦しんだ時期があるんだ。わたしね、ひとりっ子だから、親の期待っていうのが集中してくるの。もちろん、親は口では〝好きなことをやらせてあげたい〟って言ってくれるけど、なんていうか、そのうしろにある隠された期待っていうか――そういうものが見えちゃうんだ」
 歩きながら、地面に横たわっている枯れ葉を踏む。くしゃっ、という乾いた音がした。
「それにわたし、なまじ勉強ができたから、みんなから優等生に見られることもあって……それが辛かった。まわりの思い描く〝わたし〟と、わたしが自分で思っている〝わたし〟とが、ずれちゃってるんだよね。だから、いまのあなたの気持ち、わたしにはわかる。みんなの〝わたし〟になろうとして、でもどうしてもなれなくて、そのうち、本当のわたしはそうじゃない、こうなんだ――って叫びたくなっちゃうんだよね」
 有希に言われて、シュリアは改めて自分の心と向かい合った。
 みんなの期待する王族になろう、という気持ちは、たぶんまだ心の奥底でくすぶっている。能力が戻ってきてくれるなら、それはすごく嬉しいことだ。
 けど、そうでなく、〝能力〟のない自分――この自分そのものを見て評価してほしい、という気持ちもある。
 でも、誰もそういう見かたはしてくれない。能力なしの、ただ飾ってあるだけの王女か。不幸な事故で能力を失ったかわいそうな王女か――そのどちらかの見かたをする人間しか、自分のまわりにはいない。
 ただひとり、ガーティスを除いて。
 ガーティスは同情もしないし、無能だとも言わない。自分そのものを見てくれているからこそ、能力がなくても王族の責務を果たせるのだと言えるんだろう。
 そんなガーティスに対して、自分のしたことといえば。
 勝手に拗ねて、勝手に逃げてきただけじゃないか。
 なんて、無様なんだろう。
『謝らなきゃ、だめかな……』
 ぽつりと、シュリアの口から言葉が漏れた。
「うぅん。やっぱりこの場合、そうすべきよね」
『……うん』
 そうだ。謝らなきゃいけない。いますぐ取って返って、これから頑張って責務を果たすから――と言えばいい。
 でも……本当に能力なしで、責務を果たせるんだろうか?
 能力がなければ、王家の責任なんて果たせない。シュリアが固めた、ひとつの答え。それはこの十年の苦痛とともに、しっかりとした重みを持って自分の心に居座っている。
 ガーティスの気持ちには応えたい。でも、この答えも、自分にとってはずっと思い知らされてきた真実なのだ。
 ふたつの反する想い。そのどちらの想いも、シュリアのなかでは真実だった。
『わからないよ。わたし、どうしたらいいか、どうしたら……』
 頭のなかがぐちゃぐちゃになっていく。自然と、足が止まった。足を動かす気力が起きない。シュリアはその場でしゃがみこむ。
「誰だって、答えは知らないんだよ。間違ってるかどうかさえ、だいぶあとになってからじゃないとわからないことも多いんだから。だからさ、とりあえず先に行こ――」
 有希の声が、中途半端に途切れた。
 もちろん、シュリアももうその理由に気づいている。
 林の奥。木々の重なり合っているところ。そこに、見慣れすぎたライトグリーンのやつがいた。
「――――ッ!」
 有希が悲鳴をあげる。
 シュリアはもちろん立ち上がって、すぐに体をターンさせた。
 マズい。自分には戦闘能力がない。早くガーティスのところへ行かないと――
 走りだそうとしたそのとき、目の前にあった細い木の幹が爆ぜた。シュリアの足が止まる。視界の端には、光の残像が残っている。自分では球の飛来を見切れない。マズい。このまま飛び出したら避けられない。
 瞬時に、シュリアは手近な幹の裏へ身を隠した。
「ねえ! 早く、早く逃げないと! 捕まっちゃう!」
 必死な声で、有希が叫ぶ。
 そうだ。ここにいても一時的な球避けしかできない。でも出たら当たる。出なかったら捕まる。
『そんなこと言ったって、言ったって――』
 幹からそっと、顔を出して様子を見る。敵はシュリアの予想をはるかに超えて、すぐ近くまでやって来ていた。
 嫌だ。捕まるのはやっぱり嫌だ。当たったほうがまだいい。
 捕まるシーンを思い浮かべて怖くなって、シュリアは斜め前の木の裏へ移動しようとした。そうだ。こうやって少しずつ木の裏を移っていけば、案外うまく逃げられるかもしれな――
 左足のすぐ横の地面が、くぐもった音とともに噴き上がった。掘り返された土が足にかかる。
 いまので、腰が抜けてしまった。足に力が入らない。へなへなとお尻を下につけてしまう。
 敵はもう走るのをやめている。追い詰めるのを愉しんでいるのか、手に棒を持って、ゆっくりゆっくり、こっちに迫ってきている。シュリアはお尻をつけたままあとずさる。
 背中が、なにかに当たった。
 うしろを見ないでもなにかわかった。背中に感じる、このざらっとした感触は、この星の木の肌でしかない。
 とうとう、敵はあと五歩ほどのところまでやって来た。興奮しているのか、笑顔が震えている。
 そいつが、大上段に棒を構えた。
 シュリアは目をつぶる。
 心のなかで、たったひとりの名前を呼びながら。
 ――ガーティス……!
 そして――――頭のすぐ近くで、ものすごい音がした。


第4章その2へ