クロッシングマインド 第3章 その1

        3


 楕円形の月が出ていた。雲ひとつない紺青の夜空に浮かんで、光条を地上に放っている。
 フェンスに寄りかかって座っている亮介の目は、確かにその月を捉えていた。
 月から視線を下ろせば、そこには無数の自転車があった。あっちではきっちり並べられているかと思えば、こっちではただ積み上げてあるだけだったりしている。明かりは蛍光灯がひとつきり。錆ついた車体はその光をまったく反射せず、影だけがくっきり浮き上がる様はひどく不気味に見えた。
 山際の自転車保管所で、亮介たちは夜を明かしていた。
 まわりにあるのは、違法駐輪の果てに連行されてきた自転車たち。背後にはむき出しの山肌がそそり立っている。保管所は低いフェンスでいくつかの区画に分けられていて、そのなかの一画に亮介たちは息を潜めていた。虫たちの盛大な音楽会だけが、この場の音として存在している。
 亮介の視線がまた、上へと向けられた。
 夜のすべてを知りつくし、それでいて、ただ見守っているだけの存在《もの》。わずか三十八万キロの距離から、この地上を眺め見渡しているもの。――月。
 それをただ、心奪われたように、冴えた銀色を瞳に焼きつけんばかりに、見つめている。
 と、遠くでバイクの音がした。亮介は急に背筋を伸ばし、あたりを見回す。
 空気にかすれるようにして、エンジン音は消えていった。もとの静かさに戻る。敵でなかったことを確認し終え、亮介はまたフェンスに背を預けた。
 しかし、一瞬でその表情がこわばった。
 首を固定したまま、亮介の目だけが左へ流される。
 このあたりは、平たくならされている駐輪場を除いて、向かって右から左へ上りの傾斜がついていた。駐輪場の左端からは再び傾斜が続いていて、そこには小さな小屋が建っている。
 その屋根の上に、大きな人が立っていた。暗くて輪郭しかわからないが、この星の人間ではありえない巨躯であることはわかる。首から上がよく動いているところを見ると、こちらの気配は感じているが、場所を特定しきれていないというところか。
『シュリア様、起きてください。やつらです』
 うしろ手で、ガーティスはすぐ横の有希の体を揺すった。緊張で気持ちが張り詰めているからだろう。三人とも、それでいっぺんに起きる。
「うぅ。こんなときに来なくても……」
 亮介は不満をあらわにする。昨日に引き続き、今日もまたうまく寝れなかった。かなりいいところまでいったと自分では思うのだが、こんなふうに邪魔されてばかりではたまらない。これからもこんなことが続くんだろうか。
 屋根の上の敵は、こっちを見ていない。ガーティスは、気づかれないうちに逃げきってしまうつもりだろう。
「でもこれ、逃げられるの? 確かうしろ、崖みたいになってたんじゃ」
 と、有希がそんなことを漏らした。
 ……確かにうしろは九十度近い急斜面だった。あの斜面を、登ることができるんだろうか。いくら運動能力が上がっていると言っても、体はこの自分の――地球人の体だ。逃げられる公算があるから、こういう場所を夜明かしに選んだんだろうけど、不安は拭えない。
 しかし、ガーティスは亮介の予想に反することを言った。
『仕方がない。亮介、覚悟を決めてくれ。これから少し戦う』
「はい?」
 タタカウ。一瞬、それがどこか遠い国の言葉のように聞こえる。
『ここから前の柵まで距離がありすぎる。私がシュリア様のために時間をかせがないといけない。そのまま行ったらやつらに回りこまれてしまう。……本格的な戦いは初めてだから、正直、不安を感じているだろう。でも、まだどの程度かわからないが、亮介が不安を覚えると体の動作に影響が出る可能性がある。できるかぎり、そういう気持ちはなくしてくれ』
 有無を言わせない勢いで、ガーティスは言った。亮介の心が、驚きと恐怖で震える。
「で、でもこないだ、いつもどおりの力は出ない、って。それに影響が出るっていったい」
『倒すことが目的でなければなんとかなる。影響の詳しい話はあとでする』
「そんなこと言っても……」
 なんとかなる、だなんて、あまりに無責任な言いかたじゃないだろうか。だってそれは、うまくいく根拠が思いつかないからそんな言いかたになってるわけで。
『この二日、ちゃんと逃げてこれたんだ。それでも不安か?』
 ガーティスは、亮介の不安を察したのか、そんなことを言った。
 でも、いままでがうまくいっていたからと言って、これからもずっとうまくいき続けるだなんて……そうなる保障はどこにもないじゃないか。
 どう答えればいいのかためらって、結局、亮介は返事をしなかった。
『シュリア様、私が合図したら、全力で右手に走ってください。ちょっとずつ右に寄っておいて。走る距離を少なくしておいたほうがいいですから』
 言いながら、ガーティスは立ち上がった。敵もこっちに気づく。敵の手の甲から、七色の光が天を突くように伸び、棒状になる。
 ガーティスは目をちらりと動かしてうしろを確認しつつ、立ち位置を微妙に変化させた。地面を踏む音がやけに響く。うしろから、息を呑む音が聞こえてくる。
 ああ、そうだ。これは自分のためだけの戦いじゃないんだ。
 護るって決めたんだから、あとはもうぶつかっていくだけじゃないか。やらなきゃ、護れないんだから。
 背中の向こうにいる存在を意識して、亮介の迷いが薄れていった。
 敵が屋根から降りた。乱雑に積まれた自転車の山へ、起用に降り立つ。
 合わせてガーティスも、自転車の荷台の上に立った。そして構えた姿勢のまま、少しずつ間合いを詰めていく。下を確認することなく、足先で自転車の上を渡っていく。互いに近づき合い、その姿を見据えている。
 突然、その速度が速くなった。
 勢いを利用して、相手に向けて一気に跳び上がる。身長差のせいで、こっちが跳んでも完全に相手を上回れない。
 顔をめがけて、ガーティスは棒をしならせる。
 相手は、棒を斜めに倒して受け止めた。棒同士ぶつかり合って、白い火花が顔の前で散る。相手の視線と、こっちの視線が交差する。
 ガーティスはそれ以上ムリはせず、いったん下がって距離を取った。ちらりと下を見ただけで、狭いサドルに着地する。
 亮介は、心が凍りついていくのを感じた。
 思っていた以上に、怖い。
 こんな足場の上を飛び回ることも怖いけど、なによりあの相手の目、だ。むき出しの敵意をはっきり受けるのが、こんなに恐ろしいなんて。自分はやっぱりこういうのに向いていないんじゃ――
 そこまで考えかけて、亮介は慌ててその気持ちを追いやった。
〝不安を覚えると、影響が出る〟
 さっき言われたことが、しっかりと胸に残っている。その影響が、絶対にいいものじゃないことも想像がつく。だから自分は、こんなふうに、恐がっていてはいけないのだ。
 ガーティスが再び、距離を詰めだした。今度はまっすぐ行かず、右から回りこむようにして進んでいる。軽業のように、自転車の地面を渡り歩いていく。相手は、慎重なのか、近づいてこない。
 三メートルぐらいまで近づいたとき、ガーティスはそこから急にペースを上げた。あっという間に距離を詰めて、腰に溜めていた棒を喉へ突き上げる。
 しかし敵も、それをモロに喰らったりしない。体を倒して避けると、そのまま下から棒を振り上げてきた。
 ガーティスは垂直に跳んでそれをかわす。と同時に、両足で、相手の腹を蹴りつけた。
 倒れこそしなかったものの、向こうはバランスを崩してよたよたとうしろに下がった。難なく着地したガーティスは、その隙を見逃さない。胴に向けて薙ぎの一撃を振るう。
 相手はそれを、棒の根元でなんとか受け止めた。しかし止めるだけが精一杯で、押し返せそうにない。
 ガーティスは、ここが勝負どころと見たんだろう。さらに踏みこんで、ラッシュをかけていった。身長差を生かして、顔や喉のほうには突き上げる攻撃を。腰から下には振り下ろす攻撃を浴びせていく。
 明らかにこっちが優勢だった。亮介はさっきの不安を忘れ、悠然とした意識でガーティスのアクションを眺める。本当に自分の体かと思うくらい、洗練されたシャープな動きだ。ナルシストってわけじゃないけど、ちょっと惚れ惚れする。
 と、敵の片足が自転車のカゴにハマった。大きな足だから、なかなか抜けないで慌てふためいている。そんな相手の顔を、ガーティスは目で捉えている。
 決着をつけるべく、ガーティスは手を上へ大きく振りかぶった。
 ――――!
 かん高い破裂音が、耳のなかを貫いた。ガーティスがうしろを振り返る。
 ある一帯の自転車がすべて吹き飛ぶか倒れるかしていて、ミステリーサークルのようになっていた。さらにサークルの地面にはいくつかひび割れが走っている。この暗さでもわかるのだから、かなり太いひびだ。
 そしてそのサークルのすぐ右で、尻もちをついている有希の――シュリアの姿があった。足はガニマタに開いていて、微妙にパンチラしている。しかしさすがに亮介もこの雰囲気では興奮しなかった。
 シュリアのまなざしは、ある一点に向けられている。ガーティスはその視線を追って、右から左へと首を動かした。
 視界に、さっき敵がいた小屋の青い屋根が入った。頼りない明かるさのなか、青く塗られた鉄板はぼんやりとその明かりを映している。
 そこに、新しい敵が立っていた。
 そしてそいつの手には、一気呵成とばかりに、また新たな光球が作られている。
『シュリア様!』
 ガーティスが叫んだ。叫んで、勢いよく荷台を蹴って跳んだ。低く速く、ただ間に合うことだけを考えた跳びかた。
「うわあぁぁっ」
 急な跳躍に、亮介の心は追いつかない。ただ本能のまま絶叫してしまう。
 ガーティスの目はまだ屋根の上を捉えている。いままさに、球は投げられようとしているところだった。
 視界がようやく、着地予定地に切り替わる。中心に見えているのは、黒くてつやのあるサドルだ。しかしそれを見たのは一瞬だけで、また小屋のほうに目は転じられる。
 敵の右腕が、振り抜かれた。
 自分の右足が、黒いサドルに伸びていく。そこに着地して立ちはだかれれば、充分、あの球を弾き返せる。数回のアクションで、亮介は間に合う、合わないタイミングというものをつかんでいた。
 いきなりの大ジャンプで驚きはしたが、さすがはガーティス、ここ一番頼りになる。
 しかし、次の瞬間――右足はサドルを滑ってオーバーした。
 棒を持っていた右手を付いてなんとか止めようとするが、勢いは死なない。足はそのまま、隣の自転車のフレームを直撃した。騒がしい音を立てて、自転車がドミノ倒しになっていく。
 昼間に買ったばかりの新品の靴がまずかったのか。それにこれじゃあ足も無事ではすまないだろう。亮介は青ざめた気持ちになる。
 ――いや、いまはそんなことを考えている場合じゃない。亮介は気持ちを奮い立たせ、目の前で起こっていることに意識を集中させる。
 ガーティスは目を球にしっかりと合わせていた。球はもうすぐそこまで迫ってきている。もう、いまから立ってたんじゃ遅い。間に合わない。うしろの有希に当たってしまう。座ったまま棒で叩こうにも、さっき右手を付いちゃったから――持ち替えてる時間はない。
 無理だ。
 亮介は、目をそらしたくてもできないこの状況を恨みたくなった。
 が、ガーティスはあきらめなかった。
 ――さっきと同じ破裂音が、さっきの倍以上の大きさで耳をつんざいた。
 同時に、上のほうの見えないところから、細かい光の粒子が降り落ちてくる。
 ガーティスがどうしたのか、一瞬、亮介は分からなかった。状況を整理しようとする。
 いま自分は座っている。そしてその体勢のまま、左手が上へ伸ばされている。そして球は弾かれ、もと来た方に戻っている。
 そう。ガーティスは素手で、球を受けたのだ。信じられないが、それ以外に導ける答えはない。
 弾かれた球は、運良く、屋根の敵へとまっすぐ向かっていた。敵は、予期していなかったのか、飛来に慌ててうしろに下がっている。
 ガーティスは立ち上がって顔を上げた。と、視界の左のほうに、さっき追い詰めたやつが近づいてきているのが見えた。顔をそちらに向ける。緑の巨体が、サドルを蹴り飛ばしながら走ってくる。
 右手一本で、ガーティスは棒を構えた。
 相手が跳んだ。こっちが片手しか使えないこと見越してか、上段に構えて一気に勝負をつけにきている。
 ガーティスは相手の真下に潜りこんで、低く屈みこんだ。棒は、肩にかついでいるのか、見える範囲にはない。ガーティスの首が上を向く。相手の姿を捉える。
 そのまま垂直に跳び上がると同時に、うしろに溜めていた棒を、相手の首もとへしならせた。
 こちらの勢いに飲まれたのか、相手はモロに喰らってしまった。そのまま自転車の海に頭から突っこむ。
『今です、走って!』
 有希たちのほうを見ずに、ガーティスは叫んだ。叫んだガーティスもその場から跳んで、フェンスを越えて出る。越えたところは、街まで続いている下り坂だ。有希たちは先行して走っている。背負ったザックが大きく揺れているので、この暗がりでも姿がよくわかる。
 すぐさま、うしろからいくつもの球が飛んできた。
 しかしそのどれもが狙いをはずれ、見当違いのほうへ飛んでいく。数を撃つことに必死になっているからだろうか。街灯や交通標識には当たるけれど、自分たちにはひとつも当たらない。
 単に、こっちが速いってこともあるかもしれない。今朝に比べ、走る速さはかなり上がっている。恥ずかしいのを我慢して靴を買ったかいがあった。
 遠く、下り坂の先には、街の夜景が広がっていた。小さい街だから特別すごいわけでもないけど、家や車や信号の――人の生活の明かりの群れは、見ているだけで面白い。
 夜景はみるみる近づいてくる。信号が赤から青に変わったのが見えた。さらに、車のテールランプが動いていく様子までわかるようになる。
「どこまで逃げるんだよ?」
『街まで行こう。この勢いなら振り切れる』
 ガーティスはそう言って、さらに速さを上げた。


 建物と建物の間の狭い路地で、亮介たちは息をついていた。
 名前を見てもどこだかわからない商店街の片隅だった。夜遅いため、店のシャッターはどこも閉まっている。どの店の門灯も、商店街のどの街灯もくすんだ色をしていて、古めかしい印象を受ける。
「やっぱり、靴があると違うよな。断然速いよ」
『そうだな。こんなものがあるのなら初めに教えてくれれば嬉しかったんだが』
「あのな……。どこの誰だよ。そんな余裕をくれなかったのは」
『む』
 痛いところを突かれたのか、ガーティスはそれで黙ってしまった。チャンスとばかり、亮介は言いたいことをぶつけにかかる。
「しかもお前、球を手で受け止めただろ。なんてことしやがる。俺の体だぞ」
『すまない。とっさのことだったので、つい。普段ならこのあと体を替えればすむことだから、その――で、でも一応、直前に小さい球を作ってガードはしたから』
 言いながら、ガーティスの目が左手にいく。見た目にはそんなに変わっていないけど、ちょっと焦げているような気がしないでもない。おっかなびっくり手を閉じたり開いたりしている。かなり痛いのだろうか。あとで体を返されるのが怖い。
『そんな、痛そうなことまでしてくれなくたって……』
 と、シュリアがぽつりとそんなこと漏らした。
『なんです?』
 ガーティスの視線がそっちへ向けられる。
『なんでもない』
 シュリアはそっけなく答えて、会話を続けることを拒んだ。
 ガーティスはまじまじと有希の姿を見つめ続ける。気のせいだろうか。なにか、違和感を感じるのだけれど……
「あ」
 しばらく考えて、亮介は気づいた。
「あの、王女さん。ブレザーは?」
 言われて、シュリアはきょとんとした表情を見せる。やっぱり気づいてなかったか。
「まさか……」
 有希が心配そうな声をあげる。
 亮介はそれに頷いた。有希のブレザーはいつの間にかなくなっていて、見るからに寒そうな、白いブラウス姿になってしまっている。
『ねえ、なにを話してるの』
 シュリアはまだ会話について来れない。
「ちょっ、なんでまだ服を脱いだりしたの? もうわかったんじゃないの」
 有希が大声で、シュリアを怒鳴った。この時間帯だ。大声はよく通る。
『静かにしてくれ。声が響いてる』
 ガーティスの注意はかえって逆効果だったらしい。有希の声のトーンがさらに上がった。
「こんなことじゃ、いくつ服があったってどうしようもないじゃない。なんで向こうに――清水くんたちにできることがこっちにできないのか。説明してよ」
 数秒、沈黙が続く。そして重たそうにシュリアは口を開いた。
『人には、無意識にやっちゃうことってのがあると思う。それが悪いことだって知っていても。わたしの場合、それがこれなんだと思う。いままで自分でも知らなかったんだけど。――ごめんなさい』
 思いのほか素直に、シュリアは謝った。そうしおらしく来られると、有希も拳を下ろさざるを得ない。
「まあ、早く直してくれればいいよ、それで。どうせブレザーは傷だらけになっちゃったから買い換えるつもりでいたし。次からちゃんと、こういうことはやめてよね」
『うん……』
 弱々しく、シュリアは返事をした。とりあえず、この件はすんだとみていいだろう。
 亮介は軽く、息を吸った。
「ところでさ、さっき言ってた〝体の動作への影響〟って、なんなんだ?」
 そう、ずっとこれが気になっていた。不安になると悪い影響が出る――言葉だけ見れば、これほど、自分の弱点とマッチしたものはない。だからこそ、早くガーティスに訊いて、事実を明らかにしておきたかった。
 ガーティスの視線が、地面に落とされる。
『実は、一度新聞で見ただけのことだから、よくわからないところもあるんだが……体の所有者本人の精神がきちんと体にある状態のところへ、他人の精神を入れた場合――制御を他人がしているときであっても、もとの体の持ち主の思ったことが、動作に反映されることがあるらしいんだ。肉体の精神親和性がどうのとか書いてあった記憶があるが……』
 それは、亮介の予想と近いものだった。
「そ、それって――」
 怖さのあまり、二の句がうまく継げない。
「わたしたちが中にいて、そこで弱気なことを思うと、そのせいで動作が鈍ったり失敗したりするかも、ってこと?」
『そういうことだ』
 亮介の言葉を継いだ有希に対して、ガーティスは肯定の言葉を返した。亮介の心のなかに、一気に黒いものが広がる。
 予想がほとんどはずれなかったことは、結構ショックなことだった。根拠もなく、はずれるだろうと思っていた自分も悪いと言えばそうなのだけれど。 
 それに、もうひとつ、黒いものの発生源になるものがあった。
 大ジャンプのあとサドルに着地しようとして滑ってしまい、かなりやばい状況になったとき。結局は素手で球を受けることでなんとかなったけど、そもそも滑ってしまったのは、自分が着地を怖がっていたからなんじゃ……
 あのときどんな気持ちだったかを、必死に思い出そうとする。けれど、怖かったとかすごかったとかの大まかなこと以外、なにも思い出せなかった。
「なあ、その、なじるみたいになるから言いにくいんだけど……サドルから落ちかけたことがあっただろ。あれは、どうしてなんだ?」
 しかたなく、亮介は訊ねる。できれば訊きたくないけれど、はっきり違うと言ってくれるなら、これに勝る薬はない。
『足をついた角度が悪かったんだろう。ひょっとして、足の付け根の構造が、我々とこの星の人間で違ってたりするのか?』
「さあ、それはわからないけど。ひょっとしたら、俺の気持ちのせいで失敗したのかなあ、なぁんて考えちゃって、こんなことを訊いたんだけどね。違うんならそれはそれでいいんだ。うん」
 ガーティスの答えに、亮介は心の底から安堵した。
 迷惑をかけていなかったこともほっとしたけど、やはりガーティスの口から違う答えが出てきてくれたことが素直に嬉しい。
 本当はビビっていたのかもしれない。いや、きっと自分のことだからビビっていたんだろう。だけどそれが影響しなかったというなら、それで結果オーライだ。
 しかし、次のガーティスの言葉が、そんなムードをいっぺんに吹き飛ばした。
『そうか。私は角度が悪かったと解釈していたんだが、その可能性もあるな』
「か、か、可能性の話だろ。カノウセイ。気にしなくていいって」
 必死になって、亮介は打ち消そうとする。せっかく収められそうだったのに、蒸し返されてはたまらない。第一、有希にビビりだってことが知れたら……
『どっちにしろ、次の戦闘ではっきりするだろう。今はなんとも言えない。証拠がなにもない以上、調べることもできないし。……可能性が当たっていて、そのせいで次の戦闘のときに捕まったら目も当てられないがな』
 ガーティスのつけ加えた言葉が、亮介には皮肉に聞こえた。ここで正直に言ってしまったほうが、生き延びられる確立は高くなる。そういう皮肉。
 それでも、亮介には言いだす勇気が出なかった。見栄のほうを取るなんて、自分でも格好悪いと思うけど、有希の顔を見ているとやっぱり見栄のほうを取ってしまいたくなる。それに、まだそうでない可能性を信じてもいたかった。
『とにかく、今夜はもう少し安全なところへ移動して、そこで夜明けまで待ちましょう』
 ガーティスの提案にシュリアも従い、亮介たちは狭い路地から商店街のメインストリートへ出た。くすんだ街灯の明かりと看板、それに重そうな灰色か白のシャッターだけが目に入る。
 つまらない景色だと思ったんだろうか。ガーティスはすぐに目を斜め上に向けた。
 そこには、大きな黄色の月があった。
 まだ満月には数日足りないが、楕円形のそれはそれでも充分大きい。それがだいぶ低いところまで傾いている。駐輪場のときはもっと高いところにあったから、こっちが西になるのか。黄色くて大きな月なんてほとんど見たことがないから、神秘的な感じがする。
 ガーティスも見とれてしまったのか、走りだそうとはせずにただ月を見上げていた。
「お前らの星には、ああいうのがないのか?」
『ん、ああ。衛星のことか? ウィレールにはふたつある。しかもひとつは、あれによく似ているしな。見ていると懐かしいんだ』
『セーンケレトゥーには、三年間いたんだものね』
 と、シュリアが知らない名前を口にした。
「なに? その、セーンなんとかって」
『衛星の名前よ。ウィレールのふたつの衛星は、バラハズートとセーンケレトゥーって言うんだけど、この星のと似てるのがセーンケレトゥー。セーンケレトゥーには、兵士になるための訓練学校があるの』
「ふぅん」
 有希が感心したように、声を出した。
『物心ついたときからあそこに行くんだって決めてていたから、なんだか、見上げるのが癖になっていてな。ウィレールを出たときから、もうしばらく見れないって思ってたから、なんだかむずがゆい』
 ガーティスが淡々と、そうつぶやいた。故郷に対する気持ちを抑えていることが、亮介にはわかった。昨日の夜、聞かせてくれたことを思い出す。
「地球にいる間、好きなだけ見ていけよ。ニセモノだから満たされないかもしれないけど」
『……ああ』
 穏やかに、ガーティスは頷いた。
 月はただただ、地上を照らし続けていた。


        *


 午後三時。日なたの温もりが少しずつ失せ始め、日かげの冷たさが面積とともに勢力を増しだすころ。
 亮介と有希は、スーパーにいた。
 コンビニの建物をそのまま広く大きくしたような、独立型の店舗だ。有名チェーン店ではないが、店の大きさはなんら負けていない。
 ふたりは入口すぐの華やかな青物には目もくれず、奥にある、パンや保存食の並ぶ一角で品物を眺めていた。
「やっぱり安いなぁ。コンビニと違って」
 有希が、棚からレーズンロールを手に取って、そう言う。制服のブラウスの上には、薄手のセーターを着ている。有希が自分の家から持ってきたものだ。セーター姿の女子高生というのは珍しくないせいか、着こなしに違和感はない。
 有希は代わる代わる品物を手に取り、見比べている。
「普段、買い物とか、するのか?」
「ううん。そんなに、することもないけど」
 有希はそう言うが、亮介には買い物慣れしているように見えた。的確で手際よく、買うものと買わないものを判断している。自分が買い物をするときは迷ってしまっていることが多いから、余計にそう見える。
 ひょっとして、有希が本当に買い物慣れしてないんだとしたら、そういう判断力は慣れとは関係ないってこともありえるんだろうか。単に、自分の思い切りが悪いだけとか――
 考えが悪いほうに行きかけたので、亮介は話題を変えにかかった。
「こういうときは、食べられる状態にするのに、時間のかからないものがいいんだよな」
「そうだね。食べる時間がたくさん取れるわけじゃないし。ああ、それからわたし、ちょっと考えたんだけど、これからはこまめにちょっとずつ買うほうがいいと思わない? 食事中にいきなり来られて、荷物を置いてかなきゃいけなくなりそうなこととか、起きるかもしれないし」
「そう、だな。そのほうがいいんじゃない。うん」
 正直、買いものは全部有希に任せてしまうほうがいいだろう。自分より経済感覚があるし、考えも数段、先を行っている。
 亮介は有希から離れ、生鮮食料品のコーナーを目指した。気を紛らわすものがなくなると、例の左手や足の打ち身がズキズキとうずいてくる。一応、応急処置はしたが、どの程度効果があるかはわからない。
 まわりの視線がこっちに注がれている気がする。スーパーに学生服の男というのが、かなり浮いているだろうことは自分でもよくわかるけど、やっぱりじろじろ見られるのはしんどい。
 なんとか、生鮮食料品のコーナーに着くと、亮介は焼肉・ステーキ用の肉の集められたあたりをじっくりと眺め渡した。高そうな肉を見るのは、それだけで目の保養になる。
『しかし、この星には色んな食べ物があるのだな』
 ずっと観察していたのだろう。いまは中にいるガーティスが、率直に感想を漏らした。
「そうか? そう言われても、よくわからないけど」
 いままで食の豊かさについて考えたこともなかった亮介には、ガーティスと同じ感覚など得られようはずもない。
『まず、他の生物を屠殺してその肉を食べるという習慣が、いまのウィレールにはない。ポーレヴという、栄養素を染みこませた固形物があってな。意外に弾力があるんだが、それが主食だ。地域ごとの味付けの違いなんかは多少あるが、基本的な部分では大差ない』
「ふうん」
 そんなことを説明されても、まったく理解できない。とっかかりさえ見つからない。
「じゃあ、主食以外のバリエーションが、あんまり多くないってことか?」
 とりあえず、さっきのガーティスの言葉を思い出して、話についていく。
『いや、あんまりどころか、九割以上ポーレヴだけで食事を済ましてしまう。基本的に、食事というのは手早く済ませてしまうものなんでな。この星に来て日の浅いころ、楽しそうに食事をする家族というのを見て不思議に思っていたんだが、なるほど、これだけ食材が豊富なら食べるのも面白いかもしれないな』
 亮介は、自分の耳を疑った。
「お前らは、食事が、楽しくないのか?」
 食事が楽しくないなんて。そんなバカな。
『さあ。わからないな。食事中は、私たちなりに楽しい気分になっているのかもしれない。ただ、変化がないからな。行為に変化が少なければ、気持ちの変化も少なくなっていくものだろう。……昔はウィレールでももっと色々な食材があったんだろうけどな。開発主義と乱獲でなくなってしまった。それに合わせて、人間の側の食事心理が変わったんだとしたら、〝適応した〟ということになるのかもしれん』
 亮介は、心の根底が揺さぶられた気がした。
 こいつらは、昼休み前のあのじれったい気持ちとか、パーティでの豪華な食べものを前にした興奮とか、そういうことをなにも感じないってのか。そんなの、悲しすぎる。
 こんなときでなかったら、そういう気持ちを教えてやれるのに。
「お前らが追われてる宇宙人でなかったら、焼き肉でも食わしてやるんだけどなぁ」
 亮介は焼き肉用の牛肉――百グラムあたり六百円のパックを手に取り、そうつぶやいた。
『それは、そんなに良いものなのか?』
「ああ。少なくとも、俺たちのなかではトップを競うグループに入るよ。宇宙人の味覚に合うかまではわかんないけど」
 それでもきっと、食べることが楽しいことだってことぐらいは、伝えられるはずだ。
 と、亮介はうしろから肩を叩かれた。
「だいたい、選んだんだけど……」
 有希が、手に提げたかごを亮介に示す。飲みもの、パン、それから絆創膏の箱がきれいに並べられている。
「ん、ああ。いいんじゃない」
 そのまま、亮介は有希と一緒にレジに向かった。
 金を払うのは、有希の担当である。亮介はあのドタバタのなかで、財布をもって出るのを忘れたのだ。
 レジのうしろで、手持ちぶさたに待ちながら、亮介は有希の様子を見つめる。財布から、千円札を二枚、出しているのが見える。
 なんだか、無性に情けない気分になった。自分の立場が、彼女にデート代をおごられる貧乏彼氏みたいな感じに思える。もちろん、有希とはそんな関係になんて、とうていなれそうにもないのだけれど。
 それはそうと、ことが終わったら、お金、ちゃんと返さないとなぁ。
 そんなことを考えているうちに、やがて、有希が支払いを終えて出てきた。買ったものをポリ袋に詰めこみ、亮介が預かっていた有希のザックにそれを入れる。
 ふたりはスーパーを出た。
 出口の前に広がる駐車場は、スーパーの建物の影で覆われている。目の前の家々が黄みがかった色に染まっていることと合わせて、肌寒い印象を受ける。
「――どう?」
 駐車場から足を踏み出す前に、有希がガーティスに訊ねた。
『大丈夫だ。気配はない』
 体の制御を取っていなくても、ガーティスには敵の気配がつかめるのだという。幸い、いまはいないということだった。亮介たちは、ここへ来たときとは反対方向へ歩き始める。すぐに陰を抜け、日なたに入った。光の温もりに、体のこわばりがほどけていく。
「なんかさ、もうすっかり秋って感じだよな。ついこないだまで夏だと思ってたのに」
 ふと、空を見上げながら、亮介はそんなことを言った。細い雲がいくつも、薄青い色をバックにたなびいている。いかにも秋らしい空だった。
「そう、だね」
 しみじみとした調子で、有希もうなずく。
 かさかさという乾いた音がして、意識が空から下へ戻る。艶を失った街路樹の葉が風に揺すられていた。もうすぐ色づき、地面に落ちていくだろう。
「お前らの星には、季節とかあるのか?」
 なんとはなしに、亮介は話を振ってみた。
『もちろんあるぞ。地軸の傾きが、この星とたいして変わらないしな』
「へぇ。意外な共通点だな」
 いままであまりにもかけ離れたことばかり聞かされていて、共通することなんてないんだろうと思っていた亮介は、素直に驚く。
『ウィレールでは、秋は一番、思慮深くなる季節だと言われている。人が、自分のしていることについて、ふと立ち止まって考えてしまうような、そういう季節だと』
「そうなの? 確かに地球でもわりとそういう傾向はあるなぁ。夜が長くなるからかな。ひとりで暗いところにいると、いろいろ考えこんじゃたりしない?」
 有希も話に乗ってくる。
『それは、あるかもね。寝ているとき急に不安になって、それで窓を全開にして、宮下の街を眺めるとか――ときどきすることがあるもの。わたし』
『そうなんですか、シュリア様』
『……うん。でも、ほんとに、ときどきなのよ、ときどき』
 なにやらまた、雲行きの明るくない話に行きそうだ。亮介は会話の方向を戻そうとする。
「なんか、秋らしいイベントみたいなのはあるのか?」
『ん、ああ。秋と言えば、各地で夜祭りが行われる。十の月の果てる日に、先祖の霊に感謝の意を示すべく行われるんだ。人が多くて、すごく盛り上がるぞ』
 さらに明かされる宇宙人の〝秋〟に、亮介は親近感を覚える。ただ、日本の秋祭りはたいていが収穫祭で、宇宙人の祭りとはちょっと違うものではあるのだけど、そういう違いはどうでもよかった。
 秋に祭りがある。そういう似通ったところのあることが、単純に嬉しかった。
『私なんかも、故郷でよく兄さんに連れられて――』
『ガーティス。あんまり夜祭りの話はしないで。お願い』
 突然、シュリアはガーティスの声を遮った。この有無を言わさぬ口調、何回目だろう。
 ガーティスはシュリアの言わんとしている真意がわかったのか、それ以上話を続けなかった。
 幹線の大きな道から折れ、亮介たちは路地に入った。車が二台、ギリギリすれ違える程度の道幅しかない。周囲に気を配りながら、その路地を早足で進む。
 と、右斜め前に、ひときわ高い灰色の柱が見えた。
「あれ、お風呂屋さんかな?」
 有希が柱を指差して、亮介に訊いてくる。
 亮介は目を凝らして、柱を見直した。確かに、柱の腹に〝湯〟という字が見える。その上に書いてある、おそらく店の名前と思われる字は煤でかすれて読めない。さらに煙突には、はしごまでついていた。まさに典型的な銭湯の煙突という感じだ。
「そうみたいだな」
 銭湯なんて見るの、いつ以来だろう。家の近所にはもともとなかったから、どこか出先で見たことがあるばっかりだけど。
 有希の顔が、くるりとこちらに向いた。
「ねえ、入ってかない? もう二日も入ってないし」
 うかがうようなというよりは、さも当然という表情をしている。訊きかたは疑問形だけど、反対されるなんて考えてもいないみたいだ。まあもちろん、反対する気なんてあるはずもなかったけれど。そろそろ気持ち悪くなってきたのはこっちも同じだった。
「べつに俺はいいけど、でもこいつらは――」
 言いながら、亮介はうしろから来た夕刊配達のバイクを避ける。そのまま、壁に片手をついて、中にいる存在へ意識を傾けた。
「俺たちは一生、ひとつの体を使い続ける――ってことは、わかってるよな」
『ああ』
「で、だ。ひとつのものを使い続けるんだから、丁寧に扱うことはもちろん、手入れだって欠かすことはできない。俺たちがこれから入りたい〝風呂〟ってのは、つまり、その手入れをするためのところなんだ」
 普段なにも考えずにやっていることを、客観的な言葉を並べて説明するってのは、なんだかこそばゆい。
『その手入れってのは、そんなにまめにしなければならないものなのか? 正直、不要な寄り道はしてくれないほうが嬉しいのだが』
「あ、え、と、うーん」
 亮介は言葉に詰まってしまった。確かに、二日ぐらい風呂に入らなくても、走ったりするのに支障はない。世界には、体を洗ったり清めたりするスパンがもっと長い民族もあると言うし。ガーティスの意を考えると、入らないことが正しいことに思えてしまう。
 そうして答えあぐねていると、有希が口を開いた。
「手入れを怠れば怠るほど、全身が気持ち悪くなっていくの。そうしたら、心がその気持ち悪さにとらわれちゃって、戦うときなんか影響が出ると思う。つまり、ちょっと時間をかけることで、大きなピンチを避けられるわけ。わたしたちが入りたいって言ったのは単に自分たちのためだけじゃなくて、あなたたちのためを思ってのことでもあるの」
 さすがは有希だ。自分とは格が違う。こんなに上手くまとめるなんて。これだけ、差の大きさを感じさせられ続けると、慣れてしまうのか、もう落ちこみもしない。自分がへたれで、有希がすごいということ。そのことは絶対に覆せない現実なんだって、わかってしまう。
『そうか。そういうことなら、なおさら行ってほしい』
 ガーティスも納得したらしい。
 有希が微笑みを浮かべて、こっちへこくりとうなづいてきた。
 亮介は、目線を斜め下にそらした。それから小さく、うなづき返した。


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