「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(ジェローム・デイヴィッド・サリンジャー(訳村上春樹)/白水社)

キャッチャー・イン・ザ・ライ

 もはや我が積読マウンテンからいかなる本が発掘されようとも驚きはない。はっはー。今回は3年前の地層からこんな本が出てきたりしました。
 いわゆるアメリカ文学史上に輝く超有名作なわけですが……っていうかむしろ「お前まだ読んでなかったのかよ」という批判を受けそうだな。えー、どうもすみません。オイラはなにせ、教養がウンコなので。オタクの脱教養という傾向に勢いよく流されてきた生涯なので。どうもすみません。
 で、まあ、なんだ。読んでまず第一に思ったのは、「これは読む時期によって満足度が変わるなぁ」ということ。もっと具体的に言えば、ティーンエイジャーのころにこれに出会えた人はかなり幸せだったのではないか、ということです。
 主人公ホールデンのありかたってのはね、なんというか、みんながなあなあで済ませてきている現実の小汚いところとか欺瞞とか、そういうものにたいして嫌悪をむき出しにする感じで。こういうのって確かに、中学生高校生のころ、そんな気持ちになったりしたんですよ。実際。俺も。体育祭文化祭とかの、そのときだけのクラスの一致団結ムードとか、嘘くさすぎて大嫌いだった。高2のときはそれをこじらせて、文化祭前日の準備日を仮病でサボったし。(そーいうのだったから、オイラクラスで浮きまくりだったんですが)
 ただね、大人になってしまうと、その「なあなあ」の効能とか存在意義とかに気づいてしまうんですよね。それらが在ることは確かにベストではないけど、ベターではある、というか。現実の在りかたに適応してしまっているというか。だから読んでいてもどこか「こいつガキだねぇ」と引いて見てしまう感じになってしまう。


 あとこれはうっすら思ったことですが……ジャンルとしてのエンタメと文学を分ける要素ってのは、もしかしたら「達成」に主眼を置いているかどうかなのかな、と。べつに今作みたいに、細かな描写や言い回しや人物の個性で楽しめないということはないのだけれど、それはそれ、文学としての楽しさであって、ジャンルとしてのエンターテイメントとは違う気がする。
 日本の文学もたいして読んでない無教養者がなにを言ってるのかというところですが。