静岡の高1女子、母を毒殺未遂

 こうしたリアルと比して、オイラの想像する狂気のなんと生ぬるいことか――と書くと、不謹慎になるのかもしれないけれど。
 かつて、いまよりも閉塞感を覚え、すさみきって、恐怖の大王の降臨とカタストロフを願ってやまなかった高校生当時のオイラには、せいぜい包丁を持って振り回すぐらいの想像力しかなかった。静かに黙々と人を殺すという真の狂気には至れず、むしろ殺しより個人的な爆発・発散を望む方向へしか進まなかったということだ。いや、そうだったからこそいま普通の世界にいられるんだけど。


 いやまあ、しかしこれは題とは関係ないんだけど。狂気をエンタメの題材にすることに関してひとりごと。
 エンタメとする以上は、どうしても事象の変化が求められる。それは例えば狂気者の改心であったり、あるいは改心を迫った者が殺されたり、逆に狂気者が死んだり。
 しかし、しかしだ。
 変化なんかなくったっていいんじゃないかと最近思うのですね。
 なにかしら「転」と呼べそうな「揺らぎ/揺すり」があり、しかしそれでも結局元に戻る、みたいな。そういう構成のほうこそ、狂気それ自体を綴るにはベターなんじゃないかと。
 ……まあ変化する話も好きなんで、その路線を捨てるとかそういうことではないんですけど。なんというか、最近考えかたが微妙にブンガク(文学ではない)くさくなってきている気がしないでもない。長らくラノベを読んでないせいだな、これは。