兄妹日和 その5

 5年前の夏。
 まなみは6歳で、ほやほやの小学生で、妹だった。
 航は11歳で、兄で、まなみと一緒に風呂に入らなくなりだしたころだった。
 舞台は海、人の少ない穴場の海岸で。風の静かな、ベタ凪の日だった。
 ――家族旅行、と言えば、普通は楽しい雰囲気を想像するだろう。
 だがこのときのまなみに限っては、完全にどしゃ降りだった。
 きっかけは、まなみが作っていた砂のトンネルを、航が崩したこと。
「あ、悪い」
 まなみを昼食に呼びに来たとき、運悪く、航はトンネル山付近の砂を踏み抜いてしまった。山の片側があっけなく崩壊し、トンネルは一瞬でただの陥没地帯と成り果てた。
 無論、わざと壊したのではなかったことは、幼いまなみでも感じ取れた。航からまったく悪意というものを感じなかったから。
 しかし、6歳児に理解と感情を分別できるわけはなかった。
 大泣きした。泣いて、両親に訴えた。
 しかし両親はまなみをなだめるだけで、航に制裁しようとはしなかった。まなみの感情は、制裁なしでは収まらないほど膨れ上がっていたのに。しょうがない、という大人の常套理論で、やり過ごした。
 結局、むくれたまま、まなみは昼食を食べることとなった。食べないという抗議手段の存在も知っていたが、お腹はそれを断固として許可しなかった。


 まなみは海に出ることにした。砂浜で砂を見ているとせつない気分に、そして悔しい気持ちになるからだった。もちろん純粋に、航から離れるためでもあった。
 水玉模様が映える、ピンクの浮き輪を相棒に、太平洋に乗り出した。
 バタ足は快調だった。じゃぶじゃぶ進んだ。白いあぶくを巻き上げつつ、みるみるみるみるまなみを沖へ運んでいった。苛立ちも手伝って、まなみの足は力強く、緩まることなく海を蹴り続けた。
 ふと振り返ると、ビーチパラソルが随分小さくなっていた。まなみの視線に気づいた母親が、のん気に手を振っている。小さいことにこだわらないのは彼女のいいところなのだが、いまのまなみには逆効果だった。
 くるりと、背を向ける。
 横一文字の水平線が、視界いっぱいに広がる。
 足を浮き輪の内側から抜いて、その足を、まなみは浮き輪に投げ出した。お尻だけが、輪のなかで沈んだかたちになる。自然と、空を仰ぐかたちになる。
 まぶしさに、まなみは目を閉じた。
 波の動きにあわせて、ゆらゆら、ゆらゆら、体がたゆたう。じりじりと肌は熱を帯び、一方で足やお尻は冷え冷えで。ほんの薄い水面一枚を通して、世界は完全に切り替わる。
 いろんな思考が――ほとんどは、思考とは呼べないレベルの代物だったが――頭のなかを駆け巡る。
 なんで航はあそこに足を出したのか。なんでもっと硬めのところで作らなかったのか。なんで航に作り直せと言わなかったのか。
 砂山の亡霊が、まなみに迫ってきた。逃げ場もなく、まなみは亡霊に押しつぶされる。ぶつぶつと怨嗟の声を聞かされながら、砂山の重みがどんどん増してくる。まなみの体が沈んでいく。
 ……目が覚めたとき、まなみはべったりと、汗をかいていた。
 いつのまにか眠ってしまっていたのだ。陽の光にも少々、さっきより色味がついている。そろそろ帰ってもいいだろう。
 まなみは浜辺のほうを向く。
「え……」
 パラソルは、恐ろしく遠くにあった。
 母親の表情が、まるっきり見えないぐらい。うちわをぱたぱたしながら父親と話しているのはわかるのだが、顔色がまったくわからない。
 まなみは急いで体勢を戻した。久しぶりの海中に、足がおののく。
 そしてそれよりもおののいたのが、わきの下だった。
 浮き輪をわきに抱えたはいいが……空気が、かなり少なくなっていたのだ。へにゃへにゃのよれよれ、赤い水玉模様もすっかり張りがない。
「うっ……っ」
 急激な不安が、まなみを襲った。あそこまで、本当に帰れるのか。泣きそうになってくる。
 しかし一秒も足掻かずにあきらめる性格では、まなみはなかった。懸命に、足をばたつかせる。大きな白しぶきが上がって、まなみのうしろ頭に降ってくる。
 まったく、縮まらなかった。あれほど行きはすいすいと進めたのに。
「やだ……」
 縮まらない。
「あっ、あ……」
 進まない。
「うっ、うっ」
 進まない。届かない。帰れない。海の上。置いていかれる。置き去り。置き去り。置き去り。バイバイ。
「うっ、うわぁあああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁあっ」
 爆発した。
 もはや理性もなにもない。ただ声の引き攣れるまま、まなみは号泣する。足こそまだ動いているけれど、それでも恐怖のほうが勝って。
 母親が立った。父親も同じく。どこへ行くのか。行くのか。置いて行くのか。ここに、ここにまだ。まだ。
「お前、なに泣いてんだよ」
 急に、声をかけられた。反射的にまなみはそちらを向く。
 航の顔が、海面から突き出ていた。シュノーケルつきゴーグルをしているが、声も顔のかたちも、確かに航だ。
「おにい、ちゃん」
「ウンコでも漏らしたのか? どうせ魚のエサになるんだから気にしなくていいぞそんなの」
 下品な冗談を、航は飛ばす。
 その腕に、まなみはしがみついた。
「まなみ?」
「おにいちゃん。いっしょに、かえろ?」
 航の腕は、海水ですっかり冷たくなっていた。でも掴めば掴むほど内側からあったかくなってくるように、まなみには感じられた。
「泳げないのか? 浮き輪で来てるのに」
 怪訝な顔を、航は見せた。まなみはうつむく。
 航は黙って、浮き輪についている紐を、掴んだ。そのまま、海に潜る。
 まなみよりずっと背の高い航のバタ足は、威力も段違いだった。
 海面のすぐ下で、航の背中が動いている。けっして筋肉質でもないけれど、活発に動いている。動いて、まなみを引っ張ってくれている。
 相変わらず、浮き輪はぺったんこで、赤い水玉もへなへなだけど。航のその背中を見ていると、浮き輪の不安がほどけていくような気がした。
 母親たちも、パラソルに戻ってきていた。その手には4つのフラッペが握られている。どうやら、近くの売店まで買い物に行っていたらしい。
「まなみ」
 不意に、航がバタ足を止めて、顔を出した。
「今度また、海に来ることがあったら、さ。ふたりで、でっかいトンネル作ろうぜ」
 振り返らずに、航は、言った。返事を待たずに、また潜ってしまう。
「……うん」
 まなみは鼻をすすりながら、背中に向かって、頷いた。