「雲のむこう、約束の場所」

雲のむこう、約束の場所 [DVD]


 「世界にひとりきり、取り残されている気がする」と、彼女はつぶやいた。


 夜中三時。ぼくはふと思いたって、外へ出てみる。雨の降らない6月の風は驚くほど涼やかで、ぼくは鮮やかに裏切られた。熱気のこもった自分の部屋とくらべて、なんて爽やかなんだろう。
 夜の街には、誰の気配もなかった。足音や話し声はおろか、車の走り去る音もしない。夜半までは激しく吠えあっていた犬たちも、いまは眠りこけている。
 いつもより大きめに足音をたてながら、ぼくは歩く。
 ふと夜空を見上げる。夏の大三角とか見えるかなと思ってみたけれど、残念ながらぼくは夏の星座にあまり詳しくなかった。ただ、たくさんの星が瞬いていて。星の動く音さえ聞こえるんじゃないかって思えてきて、ぼくは耳を澄ませた。目を凝らした。
 いつもと違う世界。昼間と違う世界。でもやっぱり、ただ暗くなっているだけで同じだとわかる風景。
 これと同じ風景のなかで、ぼくは昼間、こんなふうにひとりきりになれるだろうか。
 まずできない。
 それこそぼくが、魔法使いか独裁者でもないかぎり。
 でも、いまのぼくは世界にひとりきりだ。誰の、なんの特別な力も使わず、ひとりきりだ。
 ――ふと、ある考えが頭をよぎる。
 もしかしたらこれは、ぼくはハメられているんじゃないかって。
 みんないっせいに知らない町へ移動してて。ぼくだけがハメられて、いまこの街に残されているんじゃないかって。
 もちろんそんなこと、あるわけがない。また朝がきたら、昨日と同じ日常がこの街で繰り返されていくんだ。そうに決まっている。新聞配達のカブが空気を震わせて、スズメはさえずり、カラスはエサ探しに忙しくて。
 でも、もし、もしかしたら――ぼくはこの街にひとりきりなんだとしたら――


 街のなかに、ぼくひとりだけが残されたら。
 それは、ぼくと街の間をさえぎるものがなにもないってことだ。
 つまり、ダイレクトに街とぼくが繋がっているわけで。
 街みたいなでっかいものと、一対一のラインができるわけで。
 ……よくぼくは、人から「空ばかり」見てるねって言われることがある。
 それは間違いでもなんでもなくて。だってほんとに、空をよく見てるから。
 空はでっかくて、ぼくなんか簡単に飲みこんでしまいそうだと思う。
 でも見上げている瞬間は、確かに飲まれていない。この足で立っている。ぼくと空は、その瞬間、向きあっている。顔と顔で、目と目で、向きあっている。
 夜の街に出てくるのは、べつに初めてのことじゃない。ついでに言えば、さっきみたいな妄想を抱くのも初めてじゃない。
 ぼくは、自分よりはるかにおっきなものと、繋がってみたいという欲望にかられている。
 だからよくこうして夜の街に出るし、空をいつも見上げている。


 世界のなかでたったひとりになるってことは、だから、ぼくにとってはちょっとだけうれしいことだ。
 でも彼女にとってはそうじゃない。
 だって彼女の気持ちは、世界なんてものには向いていないから。いつだって、この世に生きる人間、人間の集合である社会ってやつを見ているから。
 彼女自身は、その命と世界の命運を両天秤にかけられてるっていうのに。
 もちろん、世界ってのは社会の集合じゃないの、って言われるかもしれない。でもぼくには、世界ってのは社会もあるけど、風景とか景色とか、そういう人の力を超えたものたちのほうが、占める割合は高いんじゃないかって、思えてならない。


 どこかの遠い遠い世界には、高い高い白亜の塔がそびえているという。
 塔のまわりには、蓬田や蟹田三厩というどこかで聞いたようなローカル地名があって、マニアにとっては有名な、階段国道(339号線)まであるらしい。
 その世界に生きる人はみんな、白亜の塔を毎日見上げて生きている。それこそなにげない生活の一部のように。静岡・山梨の人の生活に、富士山が混じっているのと同じように。
 だから、その白亜の塔は、その世界を象徴している、と言える。
 うらやましい。
 ぼくのまわりには、そんな、世界の象徴みたいなものはない。
 だから空を見上げるしかないし、夜の街に出るしかない。
 そうしなければ、世界の輪郭に触れることができないからだ。
 だけどその世界のやつらは、そんなことをしなくてもいい。
 そこに、白い塔があるから。


 彼女たちは、とりあえずその白亜の塔を――世界ってやつをぶっ壊してみることにしたらしい。
 ぼくは、自分の世界に対して、どうすればいいのか、知らない。
 いっそ世界のほうから、ぼくに向かって話しかけてきてくれないかとさえ、思うときもある。空を見ていて、そんな願望に胸を詰まらせるときもある。
 けれど世界ってやつは、なにも言ってはこない。ただそこにあって、見下ろしているだけだ。
 彼女たちのことは、心底、うらやましいと思う。せめて世界と語りあえないのなら、世界にぶつかってみたいと思うのは当然だ。彼女たちは幸運にもそれを手にしていた。そしてぼくたちには白亜の塔はない。


 ――目の前を、一台のオートバイが猛スピードで走り去っていった。
 ぼくの思考はそれで寸断され、世界と繋がっていた一対一のか細いラインも、ぷっつり途切れた。