「きのう、火星に行った。」(笹生陽子/講談社)

きのう、火星に行った。 (講談社文庫)

 先日感想を書いた「ぼくらのサイテーの夏」が清々とした青さを書いていると言えるなら、この話は痛々しい青さに満ちていると言えるだろう。落ちこみのなかに爽やかさの垣間見えた「ぼくらの〜」に対し、この話は刺々しさと熱さであふれている。


 療養先から7年ぶりに帰宅してきた弟との交流、そのなかで感じる生命の生々しさ。最初は嫌なクラスメイトに対する反駁で始めた真面目な様が、いつのまにか本気になっていって。生々しい「生」に突き動かされて、「生」のエネルギーの有限さを知って、本気というものに芽生えていく。
 幼いころからなんでも人よりわかってしまって、まわりがバカみたいに思えてしまうという経験には、個人的に痛いものがあった。なんというか、特に中学・高校最後のナントカとか、そういうイベントにやたらと熱くなる女子たち。それを冷ややかな目で斜に構えて見ていたのは、数年前の俺なわけで。この話は小学6年生の話だけれど、巻島は彼と同じことを17まで繰り返していた。作者的なメッセージとして「こんな段階は小学生で卒業しなさい」と言われているものを、ずっとあとまでやっていたのである。まあお恥ずかしい限り。
 そんな個人的なことはどうでもよくて、こういう斜に構える病気を治すにはそれなりの闘病生活ってものが必要だったりする。今作の場合はそれが、病院でたくさんの死を見てきた弟が見せる「全力の生」であり、自分を変えようともがくクラスメイトの有り様だった。肖像としての自分、理想像としての自己と格闘する彼らの描写は、ありありと読み手に感覚となって迫ってくる。かつて格闘し、あるいはいまも格闘している読者たちへ、若き闘いの日々を思い起こさせる。児童文学という形態こそ取っているが、そのあたり、青春小説としても通用するものがこの話にはあるのではなかろうか。
 本気をあざ笑う社会のなかで、それでも本気の大切さに挑む作者の姿勢には好感が持てました。


 ただ、こののち「楽園のつくりかた」で父性と向きあってみた作者にしては、この作品では父親というのは単なる殴って叱りつけるだけのマシーンになっているのは気になった。その「楽園」の父性も父性創造という問題に挑んだだけであって、父性の表現には至っていないので、そもそも父性というところに弱点のある人なのかもしれない。


 あとそうだ、河原にはやっぱり死体がつきものなんですかね(苦笑)
 河原の死体が「生」の感覚を与えるって、そこだけ見たら岡崎京子の「リバーズ・エッジ」と同じだったり。「リバーズ〜」と違って、死体は1回しか出ないけどさ。