「ぼくのためのきみときみのためのぼく」(きづきあきら/ぺんぎん書房)

ぼくのためのきみときみのためのぼく (Seed!comics)

 同人時代の作品を集めた第2短編集。人を食ったようなタイトルは、セカイ系を意識しているのかも。確かにここに収録されている一連の漫画は、内的に完結した狭い世界だけでの幸せに耽溺・拘泥している印象がある。自分たち以外の人間の理解なんて得られなくても、自分が充足ならそれでよいとする。そういうものを。
 それを一概によろしくないものと言いきっても意味はないだろう。確かに一番の幸せは、万人に祝福されることだと思う。だがそれが叶わないとき、むしろ万人の側から非難されそうなとき。非難を避けるか、個人的な完結を得るかは、彼らが彼らなりに悩みぬいて下すべき選択である。悩みぬいたのならば、その選択は尊重されてしかるべきものだ。


 正直、昔の作品だけあって、力量がきちんと備わっているとは言いがたい。太い線の絵は魅力的ではあるものの、なにが言いたいのかわからん話もあったし。たがきづき流というか、きづきさんの個性は存分に散見できる。
 人と自分とのかかわりのなかで、互いになにをしてあげようとし/あるいはどんな自分を見せようとするか。社会に生きる人間にとって、それは永遠の課題だろう。どうすれば相手が喜ぶのか/幸せにできるのか。そして、どうすれば自分は嫌われないですむか。生きているかぎり、人はずっとその命題を繰り返していく。命題はときに袋小路に入りこみ、最悪、人と衝突してしまうこともある。
 他人と衝突したことのない人間はおそらくいない。誰においても、衝突は起こりえるテーマだ。きづきさんの漫画は、その衝突を、独特のチョイスと切り口で魅せてくれる。
 一番きづきさんらしいなと思った作品は、巻末の「DISCOVERY OF LOVE」。
 DVっぽい彼氏との直接的な衝突。ストーカー君の陰から忍びこんでくる衝突。そして、愛する人との衝突を決定的に避けながら、前述のふたりの男と衝突してみせるゲイ(同性愛者)の少女。
 ひとりの少女をめぐる、三人の衝突のしかた(向き合いかた)を描き分けることで、衝突そのものの持っている「衝撃の力」(インパクト)がそこに示される。衝突は人の心に恐怖と絶望を与えるに充分すぎるものであり、また、なにをおいても避けなければならないものにもなり得るのだ。だから、ストーカー君は自分にリスクの少ない、姿を見せないという方法で相手に伝えようとしていたし、ゲイの少女は、いまの関係を失うことが怖くて、最後まで相手に気持ちを告げることができなかった。DV彼氏が、関係の終焉を怖れていたのに対して、このふたりは明らかに彼女と衝突することのほうを怖れている。


 できあいのエンターテイメントならば、衝突の恐怖を乗り越えて、みのりの果実を手にして終わるのだろう。だがこの漫画は既成のエンターテイメントの枠を放棄する。誰の心も変化しないまま、この話は終わるのだ。関係だけが変化して、それのみをメリハリにして漫画を作っている。
 べつにできあいのエンタメが悪いなんてこれっぽっちも俺は思ってない。ただ、リリシズムを強調するならば、こういう描きかたもありだろうなと、理解を示しているだけだ。エンタメの馬車馬であるラノベには適用しかねる手法だけに、かえってうならされる。
 人物的成長もなく、センチメンタルなリリシズムを貫くことで、この漫画は終わる。衝突という巨大なエネルギーを前にして、キャラクターたちは立ちすくむ。
 衝突の威力という巨大な相手に立ち向かうこと、それがとても困難だという事実の重みが、この漫画からはずしりと響いてくる。いまの「ヨイコノミライ!」のきづきさんにはない、そしてかつてのきづきさんにはあった、生き抜くことの困難さを見つめる視座がこの本には詰まっている。


 ……にしても、ウチの近所の本屋はダメだね。あそこはエロ系の取り揃えが豊富で気に入ってるんだけど、新刊の入りがとにかく遅すぎる。結局この本も、ネットで買うはめになった。
 こういうことがあると、環状線の内側に住みたいなと思ってしまう。ま、ムリだけどさ。