クロッシングマインド 第4章 その2

「間にあったか!?」
 叫びながら、亮介は目を凝らして林の奥――有希たちの姿を見つめる。
 敵は吹っ飛んで、木の幹に体を激突させていた。運よく当たってくれたらしい。ガーティスはさらにそこへ、第二撃を投げつける。今度は大きく外れて、敵の上の枝をこそぎ落としただけだった。
 敵はしこたま体をぶつけたらしく、まだ立ち上がってこない。ガーティスは一気に駆け抜け、間合いを詰める。手にはいつのまにか、七色に光る棒が握られている。
 勢いを殺さず、ガーティスは敵に躍りかかった。
 しかし相手も、不利な体勢ながらそれをなんとか受け止める。ガーティスはそこから力押しの勝負に出た。こうなると、倒れた姿勢のままの相手には、どうすることもできない。
 ガーティスは相手の棒を押し切り撥ね上げると、そのまま自分の棒を切り返した。
 鳩尾に、一撃、叩きこむ。
 瞳の色がぐるんと回って、相手はそれっきりぐったりとなってしまった。
『まだ仲間が近くにいるかもしれません。ここを離れましょう』
 そう言って、まだへたりこんでいたシュリアを立たせると、ガーティスはさらに林の奥へと走りだした。


 十五分ぐらい走ると、やがて唐突に林は切れた。目の前を、片側一車線ずつある道路が貫いている。道路の真ん中には、オレンジの鮮やかな線が引かれていた。車の通る気配はまったくしない。
 そして、道路の向こう側には、公園があった。たいして広いものではなく、隣にある家の影に全体の三分の一が覆われている。遊具はジャングルジムと滑り台、それから砂場しかない。
 ガーティスがまわりをきょろきょろと見渡す。同じような造りの家が建ち並んでいる。閑静な宅街といったところか。昼下がりの、赤みを帯びはじめた光に照らされて、家々はどこか幻想的な雰囲気を纏っている。
 やがてガーティスは、林と道路の境に渡されていた低い鉄柵を越えた。改めて左右を確認したあと、車道を突っ切って公園に入る。
 公園を少し入っていくと、右手の奥にベンチがあった。ベンチの真ん前には大きな木が植えられている。このせいで、道路からは見えなかったようだ。ガーティスはそのベンチに向かう。
 ヒザが、ベンチの端に触れた。うしろからついて来ていた足音も一緒に止まる。
 しかしガーティスは座ろうとしなかった。その場でじっと、立ち止まっている。
 自分のうしろにいる存在に、意識を傾けているのだと……亮介は気づいた。
 お互い、口を開かない。長い長い沈黙が続く。言いたいことは山ほどあるはずなのに、ふたりともなにも言おうとしない。
 シュリアはきっと、ガーティスの背中を見つめているだろう。ガーティスもその視線は感じているはずだ。お互いがお互いを激しく意識し合っている。
 だけど、なにも言わない。
 風が吹いた。ベンチ前にあった木が揺れている音が、よく聞こえる。いま初めて、あの道路を車が通った。すぐに走り去っていく。そしてまた静かになる。
 しばらくして、ようやく、シュリアが口を開いた。
『あ、あの……えっ、と……』
 けれど、なかなかちゃんとした言葉にならない。
『その、あ、わたしね……』
『シュリア様』
 最後まで言われるのを待たず、ガーティスはそこでシュリアの言葉を打ち切った。そのまま振り返る。景色が流れる。
 そして――右手で、シュリアの顔を平手打ちした。
「なっ」
 亮介は自分の目を疑う。
 だって、ガーティスはシュリアの護衛で、要するに家臣で……
『言いわけなど聞きたくありません。いいですか? こんな、どこから狙われるかわからない状況で、勝手に飛び出して行くだなんて――ご自分がどういう御立場にあるのか、わかってらっしゃるんですか?』
「あの、一応これ、わたしの体だから。あんまり叩くとかそういうのは」
 興奮するガーティスに、有希がおそるおそる頼みこむ。
『あ……すまない』
 言われて初めて、ガーティスはそのことに気づいたらしい。まったく、とんでもないことをしてくれる。一応、王女様を叩くつもりでも、手加減はしてると思うけど。
 打たれたシュリアは、頬を押さえてながら目に涙を溜めている。その目で、鋭くこっちを睨みつけている。ガーティスもその目を見つめ返す。シュリアの頬に、涙の筋が溢れていくつも落ちてくる。あとからあとから、涙は尽きない。
 そのまま数分、ふたりはお互いを見据え続けた。
『……わかってないのは、そっちのほうじゃない……っ』
 やがて、ギリギリで聞こえるぐらいの小さな声でシュリアはそう言って、そこで目線を切った。
 身を翻して、木のうしろに回ってしまう。
 ガーティスは息を漏らすと、目線を正面からそらした。それからようやく、ベンチに腰掛けようとした。
 ――視界が、急に狭まった。
 全身が脱力したような勢いでベンチに腰を落としてしまい、さらに体は下にずり落ちかける。
 ガーティスは両手をベンチに突いて、なんとかそれを押し留めた。
「おい、いまの――」
『なに、さっきから戦闘が続いたから……休んでいればなんとかなる……』
 亮介の心配に、途切れ途切れの息でガーティスは答える。
「なんとかって、お前それ――」
 いままでそんなこと、一度もなかったじゃないか。戦闘がもっと続いたときだってあったし。なのにここまでおかしくなるなんて、それは。
『いいから。気にしなくて。本当に大丈夫だ』
 気丈にそう言っているが、明らかに様子が尋常ではない。
「そんなこと言っても……」
 おそらく、溜まった疲れがピークに達したんだろう。激しく動き回る場面は、全部ガーティスがやっている。体は共有物だからともかくとして、戦闘時の緊張が長いこと続けば精神のほうが疲れてくるのは当たり前だ。
「なんなら、今日の見張り、俺だけでやろうか?」
『だから、気にしなくていいって。この程度のこと、心配されるようなことではないから』
「……わかったよ。そんなに言うんだったら気にしないでおいてやるよ」
 根負けして、亮介はそう言った。ガーティスは頑なだ。使命に一途だから、自分のことなんてまったく省みていない。それに、こっちの精神のことを信用してもないから、余計に自分がやらなきゃ、って気になるんだろう。
 たまには、俺に任せてみろよなんて――とても、言える勇気はなかった。
 ……そもそも、ガーティス自身が大丈夫だって言ってるんだ。自分の体のことなんだから、わかってないはずなんてない。
 そうだ。きっとそうだ。これは本当に、なんてことないことなんだ。
『このこと……くれぐれも、シュリア様には言わないでくれよ』
 ガーティスが、そんなことを念押ししてくる。
「ああ。いいよ」
 亮介がそう返事をすると、すぐに、目に映る公園の景色が歪んだ。意識が不思議な力に引っぱられて、まるで宙にすぅっと浮かんでいるような感じになってくる。
 気がつくと、手のひらに冷たいベンチの感触があった。
 さっきまで箱のなかから覗いているようだった景色が、いまは確かな近さをもって目の前にある。
 目の前の木には、シュリアが体を預けている。その肩が舟を漕いでいるのが見えた。幹に隠れてるからはっきりとわからないけど、たぶん眠っているんだろう。
 こうなると、見張るほうも意識を引き締めないといけない。起こしてから逃げるとなると、余計に時間がかかるんだから。より早く敵に気づかないといけない。
「なんか、王女さん寝ちゃ――」
 そのあたりのことをガーティスに確認しようとして、亮介は異変に気づいた。
 ガーティスが、もう眠っているのだ。さっき入れ替わったばかりだというのに。
「まじかよ……」
 そこまで、疲れていたということか。
 いやでも、しっかり寝て休めば、本人の言うとおりまた普通に動き回れるはずだ。心配することはない。ガーティスはここまで、何光年か知らないけど逃げてきた経験があるんだから。自分の現状を間違えたりするわけがないんだ。
 ただ、いまここに敵がきたら、ちょっとマズいだろうけど。
 亮介は手を腹の上で重ね、唇をきつく引き結んだ。自分にはただ祈ることしかできない。
 目に力をこめて、まっすぐ前を見つめる。そうすれば、なんだかこの祈りの力が増すような気がしたのだ。なんの根拠もないけれど。
 木の裏で座っているシュリアは、相変わらず首を大きく揺り動かしている。落ちそうで落ちない微妙さが、見ていて面白い。
〝わかってないのは、そっちのほうじゃない〟
 ふいに、さっきの言葉が亮介の脳裏に甦った。
 王女様がわかってほしかったものは、さっきガーティスから話を聞かされたから、なんとなくわかる。それは自分の気持ち――自分がなんで逃げたりなんかしたのか、その気持ちをわかってほしかったんだと思う。
 でも亮介には、それに同情する気は起きなかった。だって王女様は、能力のないことを理由にして、問題から目をそらしているだけじゃないかと、思うからだ。
 つまり、逃げているだけ。向き合うのが怖いから、逃げているだけ。
 そこまで考えて、はっ、と亮介は顔を上げた。体の芯が勝手に震える。両手で自分を抱いてみても、震えはいっこうに治まらない。
 ――怖いから、逃げる。
 同じじゃないか。王女様のやってることは。この自分の弱い心と。同じだ。
 自分はビビりだ。失敗するのが怖いから、失敗しそうなことからたいてい逃げてきた。
 王女様はたぶん、何度も失敗したんだろう。その結果、失敗に疲れて、向き合おうとする気力をなくしたんだ。
 このまま、自分も逃げ続けていったら、いつか立ち向かおうとする意思そのものがなくなってしまって、王女様のように、なるんだろうか。
 そんな人間には、なりたくない。ならないですむなら絶対そのほうが嬉しい。
 だれど、このまま行けば……自分は確実にそうなってしまう。
 ――どうすれば、どうすればいいんだよ……。どうすれば…………
 亮介の頭のなかを、焦りの言葉が跳ね回った。跳ね回るだけで、そいつらは答えを連れてこはない。
 震えは、しばらく治まらなかった。


        *


 連夜の虫の音楽祭をバックに、蛍光灯は頼りない光を放っていた。ぽつねんと一本だけで立っている古い蛍光灯は、仕事場である公園をけなげに照らし続けている。しかし、彼がいくら老体に鞭打っても、公園の隅のベンチは暗がりから解放されることはない。
 その暗がりのなかで、亮介は両手を天に突き出した。大きく、伸びをする。ガーティスほどじゃないが、亮介もかなり疲れを感じていた。なんとか倒れる前に、ガーティスたちの支援者が来るといいんだけど。
 さっき食べたばかりのクッキーバーの箱を、リュックのなかに押しこむ。山吹色の箱は押しつぶされて、荷物の隙間にすっぽり収まった。
 あのあと結局、亮介たちはそのまま公園で夜明かしすることになった。
 気を使うな、と言ったガーティスは、一度も起きてこなかった。起こすのもためらわれて、亮介はずっとひとりで見張りをしている。
 まぶたが重い。気を抜くとすぐにでも寝てしまいそうだ。亮介はまぶたをつねって、必死に眠気を散らそうとする。
 正面には、有希の寝顔があった。木の裏にいる有希は、頭だけを幹の陰からはみ出させている。もう何日も有希の寝顔を見てきたけど、いまだに慣れない。あまりに無防備すぎるからだ。触りたい欲情を毎日、なんとか抑えつけている。
 けれど、今日はそういう欲情は起きなかった。代わりに、絶望が心を占めていたから。
 自分はやがて、この寝顔を壊してしまうのだ。護りきれなくて。心が弱いせいで。
 心が強くなれば、強くする方法さえわかれば、有希のことを護ってやれる。そばにいられる。好きになったときからそう思っている。ずっと、強くなりたいって思ってきたのに。
 その方法が、わからない。
 亮介の口から、ため息が漏れた。息は腹の上で重ねた手にかかって、手の冷たい強張りを和らげる。
 そのとき突然、物音がした。
 亮介はびくっと、身を引きつらせる。全身の神経を、音のしたほうへ集中させる。いま敵が来たら太刀打ちできない。自分の足で逃げなきゃ。どこだ、どこにいる――
「……清水くん、のほうなの?」
 有希の声とともに、寝袋の影が横に膨らんだ。
「なんだ。脅かすなよ」
 物音の正体を知って、亮介は緊張を解いた。額にかいた嫌な汗を袖で拭う。
「ごめん。なんだか寝つけなくて」
「こいつらに、何回も寝入りっぱなを起こされたりしたしなぁ。それで、寝つきにくくなってるんじゃないか?」
「そうかも」
 有希は納得したのか、そう答えた。
 もっとも、いまの亮介は眠くてキツい状況なのだが。充分疲れていれば、寝つきの悪さは関係なくなるらしい。
「王女様は? 寝てるの?」
「うん。あっちはこういうの、慣れてるのかもしれない」
 有希が体勢を、完全にこちらに正した。黒目がちの瞳がまっすぐこちらを見ているのが、かすかにわかる。目が合っている。
 気恥ずかしくなって、亮介は目をそらした。
「なんだか、あのふたり抜きで話すの、ひさしぶりだね」
 さらに有希が言った一言に、亮介の心臓はきっちり反応する。顔がかあっと熱くなっていくのがわかる。
 考えてみれば、こうしてふたりだけで話をするのは、あの夕方以来だった。あのときもうまく話せないで、家まで行ってしまったんだっけ。
 なにを話したらいいのかわからないのは、その時と少しも変わっていない。頭のなかに候補が浮かんでは消え、浮かんでは消えていく。どんな話をすれば、有希は喜んでくれるんだろう……
「それにしても、どう?」
 候補が纏まらないうちに、有希のほうから話しかけてきた。
「どうって、なにが?」
「いや、ね。いきなり宇宙人とか出てきて、こんなことに巻きこまれて、それで、どう思ってるのかな、って」
 改めてそう言われてみると――案外、なんの感慨もない。宇宙人なんていう、漫画か小説のなかだけだと思ってた存在に入られて、逃亡劇までやってるってのに。この数日で慣れてしまったんだろうか。そんな図太い神経が自分にあるとは思えないけど。
 そんなわけだったから、亮介は率直に思ったことだけを言った。
「宇宙人だなんて、いくらなんでも現実離れしすぎてるよな。三日前までただの高校生だったのに」
 ようやくさっきの恥ずかしさも収まって、亮介は有希に向き直る。暗くて顔がはっきり見えないこともありがたい。
「うん。わたしも、まだこれって夢なんじゃないか、って、思ってる」
 ふふ、と有希が微笑を漏らした。口もとに手を当てて、笑っているのがわかる。
 その仕草が――影しか見えないのに、再び亮介の心を撥ね上げた。また、有希のほうを見れなくなってしまう。
「遠い星から来た、追われてるお姫様とか――そういうところがすごくお話っぽいし。でもこれって、現実なんだよね。聞いたことのない星から来た宇宙人も、追われてることも、こんなところで寝てることも、戦ってることも……」
 有希の声が、途中から硬いものになった。戦いのことを考えると、自分が死んでしまう可能性について、無視できないからだろう。
 ガーティスのあの話で、自分が意識させられたものと同じものを、有希も感じたと思う。いままでこれっぽっちも、自分が死ぬなんて考えたこともなく生きてきたのは、きっと同じはずだから。
 いっそ、これが夢だったらどんなにいいだろう。
 でも、これは現実だ。まだ動かすと痛みが走る左手も、ずっと好きだった幼なじみと一緒に行動していることも、その幼なじみを自分の弱さのせいで危険にさらしてしまっていることも、すべて現実なんだ。
 ふと視線を落とすと、寝袋の端が見えた。
 ほんのすぐそばに、話を聞いてくれる〝誰か〟がいる。目の前の〝誰か〟に、自分の苦しみを喋ってしまいたい。でも聞いたら、頼りないやつだと思われて、嫌われるだろうか。でも、でも――
「俺さ、戦ってるときすごく、怖いんだ」
 気がつくと、亮介の口から言葉が漏れてしまっていた。一度漏れだしたものは、なかなか止まらない。
「当たったらすごく痛いってのが、この左手のせいでわかったし……それだけじゃなくて
、なんか、相手の気迫が怖いんだ。倒してやる、潰してやるみたいな、すごい敵意を向けてきてるのがビンビン伝わってきて、だけど相手の心のどこからそれが出てきてるのかわからない。どうしてあんな、人を傷つけても構わないなんて気持ちが――」
「でもそれは、ガーティスさんだって同じでしょ? 相手がどうなってでも、自分の護りたい人を護る――自分の目的を果たしたいって思ってるんだよ。人を傷つけるのは確かによくないけどさ、ガーティスさんたちは目的のために、なんでもするんだ、って覚悟を持ってるんだと、思う」
 有希のまなざしが、亮介の体を貫く。
 それは、つまり、自分にもその覚悟を持てと、有希は要求してるのか。
「そりゃあ、あいつは筋金入りの護衛だから持ってるかもしれないけどさ。こっちはただの高校生なんだよ。しかも、人より臆病だし。……このまま怖がってばっかりじゃ、みんなに迷惑をかけちゃうってのはわかってる。わかってるけど、それでも俺、怖くて、逃げたくなって――このままじゃ絶対に俺、早瀬のことを」
 その先の言葉はなんとか、口から出る寸前で止めた。本人の前で、絶対死ぬとか言えるわけがない。
「でも、精神親和性の話って、まだ確実にそうだって決まったわけじゃないんでしょ? ガーティスさんはそうだって決めつけて言ってたけど、ガーティスさん本人も新聞で見ただけだって――」
「いや、あれは……ホントなんだ。俺が怖いと思った瞬間にちゃんと、サドルから落ちかけたり、枝を掴みそこねたりしてる。だから、このままじゃ、いつか俺のせいで……」
 言い終えて、急に静かになった。また音楽祭の演奏が耳に届くようになる。フィナーレまでまだ数時間もあるパーティは、いっそうの盛り上がりを見せている。
 風が頬に当たった。十月の夜風は冷たい。亮介は制服のボタンをもう一個かける。
 お互い、なにも喋らない。
 呆れて、いるんだろうか。有希は。へらへらと弱さをさらけ出して、いかにも慰めてくださいなんてオーラを出したこの自分に。実戦のときに迷惑をかけてしまうんだから、せめてそれまでは不安を与えないようにしてなきゃいけなかったのに……。堪えられなかった自分を呪いたくなってくる。
 行き場のない苛立ちに駆られて、亮介は自分の足を自分で踏みつける。
 そのときだった。
「ねえ。覚えてる?」
 突然、有希がそんな問いかけをしてきた。
「なにを?」
 亮介の言葉に答えず、有希は寝袋から抜け出して、すっと立ち上がった。
「……隣、座っていい?」
 亮介の体のなかが、一瞬で沸騰した。そんな近くに来るなんて。もうずっと何年もなかったことなのに、いきなりそんな。
「あ、ああ……い、い、いいよ」
 しどろもどろになりながら、なんとか亮介は答える。
 有希はベンチの端に、遠慮がちな動きで腰かけた。それを見て、慌てて亮介は逆の端に寄る。
 微妙な距離が、お互いの間にあいた。
 亮介は有希のほうを向けない。さっきまでは逆光で、しかも木を挟んでたからまだ見れたけど、この近さと明るさじゃ有希の顔が全部見えるわけで。
 もちろん見たい気持ちはある。っていうか見たい。ずっと見ていたい。でもじろじろ見たら変に思われるかもしれないし、それに心のほうがドキドキに耐えられ続けない。
「昔、公園でさ……場所のことでケンカになったこと、あったじゃない」
 そんな、亮介の葛藤に気づく様子もなく、有希はおだやかな声で話し始めた。
「そ、それって、いつごろのこと?」
「小学校に入ったばっかり、ぐらいだと思う」
 亮介は必死に記憶を遡らせる。
 ――そのころにしたケンカはひとつしかない。
 なんでいまさら、有希は負けた話を聞かせようとするんだろう。まさか、〝清水亮介は生まれたときから弱かったんだから、悩まずさっさとあきらめろ〟なんて言いだすんじゃ。
「あ、ああ。憶えてるよ。それで?」
 おびえながら、亮介は先をうながす。思わず唾を呑む。
「高学年の男の子たちが、あとから割りこんできたんだよね。わたしたち、まだぜんぜん小さかったから、勝てるわけがなくて。子供だったから、その時はまだ自分の感情とかよくわかってなかったんだけど……いまから考えると、あの時わたし、すごく悔しいって思ってた」
 有希の声のトーンは、どこか遠くの出来事を幼い子供に語って聞かせているような感じだった。
「でもね。そのとき、清水くんが言ったの。ここは先に俺たちが使ってたんだ、って。結局、ケンカになって、思いっきり負けちゃったんだけど。でも、意外だった。わたしそのときまで、亮介っておとなしい子だと思ってたから……」
「ばっ――」
 喋ろうとしたが、口が回らなかった。
 顔だけじゃなく、体じゅうが熱くなっている。変な汗がいっぱい出ている。夜風が寒い。
 それでもなんとか、亮介は口を開こうとする。
「べ、べ、べつに子供のころじゃないんだから、そんな、し、下の名前で呼ぶなよ。……恥ずか、しいし」
 最後のほうは声が小さくなってしまった。
 言われて初めて、有希はそのことに気づいたらしい。
「ご、ごめん。昔の気持ちに重ね合わせちゃってたら、つい……」
 有希の声も、尻すぼみにトーンが落ちる。
 亮介は制服の上着の胸前を摘まんで、パタパタさせた。熱くて熱くてたまらない。
 いまさら、期待を抱かせるような物言いはやめてほしいのに。有希もずるい。叶わない恋は早くあきらめなきゃいけないのに、そんなアメを落とすなんて。
「そ、そんな昔のことを持ちだして、なにが言いたいんだよ?」
 気持ちを打ち消すように、亮介は有希に突っこみ返した。
「それは――清水くんは、ホントは立ち向かえる人間だってことだよ。わたし、ずっと覚えてたんだから。公園のこと。……だから、清水くんの心が原因で危ない、とか言われたときだって反論したし、清水くんのせいで死んだらどうするって聞かれたときも、そんなことあるわけないって思ってたから、答えられなかった」
「え!? あ、あれは、俺に遠慮して、言いにくそうにしてたんじゃないのか?」
 驚いて、亮介は思わず――恥ずかしさも忘れて有希のほうを見てしまった。
 有希はううん、と首を横に振る。
 それから顔を、亮介のほうへまっすぐ、向けた。
「だから、もっと自分のこと、信じてあげて」
 有希と目が合う。丸い瞳が、暗さのなかで浮かび上がって、輝いているように見える。
 心臓から鼓動が溢れて、指の先まで脈打ってる気がする。必死に抑えてきたものが、外に向かって暴れだそうとしている。こんなこと言われたら、勢いづくのは当たり前だ。
 有希に触りたい。あのやわらかそうな体をぎゅって抱きしめたい。抱きしめて、有希が自分の耳もとで吐息とともに漏らす動揺の声を、聞いてみたい。
 亮介は、ポケットに突っこんでいた左手を出そうとした。
「――ッ」
 痛みが走った。
 その痛みとともに、湧きあがっていた感情が波のようにさあっと引いていく。
 替わりに黒い陰が、心を覆いだした。
 有希が持ちだしてきたことの結末がどういうものだったか。亮介ははっきり憶えている。
 それは、好きな子の前でプライドをずたずたにされた記憶だ。
 自分が初めて、失ってしまうということの意味を、知ったときの記憶だ。
 やらなきゃよかったと何度も思って、けれど取り返しのつかないこともあるのだと、思い知った日の記憶だ。
 幼い自分があの日に感じた後悔が、ずっと胸の奥に残って、自分を縛りつけている。
 そう、あれは、立ち向かうことの、踏みだすことの、挑むことの――恐ろしさ、怖さ、たまらなさ、取り返しのつかなさ。それらを自分に刻みつけてくれた出来事なんだ。
〝清水くんは、ほんとは立ち向かえる人間だってことだよ〟
 違う。
 あのころの自分は幼すぎて、〝怖い〟ということを知らなかっただけなんだ。
 ただ、好きな子にいいところを見せたかっただけの、バカで愚かな子供だったんだ。
 それなのに、有希はあのときのことを持ちだして、こんな自分のことを信じている。
 信じてくれている。
 だけど、その気持ちに応えられなくて、迷惑をかけたどころじゃすまないことになってしまったら。……自分は、なんて言えばいいんだろう。
 いつか必ず、有希は自分に失望する。あとになればなるほど、期待は大きく膨らんでいって、その失望は大きくなるだろう。
 それなら、いっそ。
「そんな昔のこと持ちだしてきてもさ、人間、歳を取れば変わっていくもんじゃねえか。あれから、十年たったんだぜ。十年前の俺といまの俺が、同じなわけないだろ? あのころは確かにそうだったのかもしれないけど。でも、いまはそうじゃないんだよ。……あいつらに入られたときだって、俺、あんなにビビってわめいてたんだし」
「違う」
 強い調子で、有希は亮介の言葉を否定した。
「亮介は弱くなんかない。入られたときだって、あきらめるのが早すぎるわたしに代わってひとこと言ってくれただけじゃない。それにもし、亮介の言うとおり、あのころといまがホントに違うって言うんなら……それは亮介が持ってる〝強さ〟に、余計なものが積もっているだけ。だって、あのとき上級生を睨んでた目つき、いまでもときどき、してるじゃない」
 有希は気持ちが高ぶっているのか、また、名前で呼んでしまっている。
「おい、また名前――」
 有希は、首を左右に振った。
「いいの。わざとだから。あのころといまが変わりすぎた、って言うんなら、変わってしまったものを少しずつ戻していけばいいんだよ。だから、名前で呼ぶことにする。だいたい、わたしのなかにある気持ちは、十年間、すこしも変わってないんだから」
 そう言って、有希は頬を緩めた。
 自分にだけ向けられた好きな人の微笑み。さっきよりも、さらに強烈なエサが亮介の心に投げこまれる。
 にもかかわらず、心はさっきのように燃え盛らなかった。
「そんなのは……名前で呼ぶのは、お前の好きなやつのためだけに取っとけよ。もったいないだろ」
 冷たい心から出てくるのは、ぞんざいな口調の言葉だけだった。
「そ……そうだ、ね」
 有希は亮介の対応がショックだったのか、ぎこちなく言葉を発して、それっきり、うつむいてしまった。
 この答えかたからして、やはり有希には好きな男がいるらしい。高校生なんだから、いてもおかしくないけれど。それでも、かすかにあった希望が完全に絶たれてしまったことを、意識しないわけにはいかない。
 まあでも、そんなことはとっくの昔に覚悟していたことだ。ショックもない。いま考えなきゃいけないことは、ほかにある。
「余計なものがいっぱい積もっているだけだとして……その余計なものが、取り除けないぐらい厚いものだったら? 結局、同じことだろ。今度はその余計なものが、新しい本当の心になっていくんだよ。清水亮介って人間も違う人間に変わっていく。いつまでも古い層のときのことを信じてるなんて、そんなの――意味がないよ」
 自分でも信じられないくらいの、冷たい皮肉が口から飛びだした。亮介は思わず口を真一文字に閉じて、鼻で息を細かく吸う。
 有希はなにも言ってこない。ただ手を膝の上に置いて、じっと耐えているように見える。
 見ているのがつらくて、亮介も視線を正面に戻した。
 これで完璧に、嫌われた、だろう。それを考えると、正直落ちこんでくる。
 それでもこの先、より大きな失望を与えてしまうよりは、ここで嫌いになってくれたほうがまだマシだと……亮介には思えた。
 ただそれは、理屈として納得しただけだ。気持ちのほうは、自分で自分を殴りたい衝動で溢れかえっている。
 有希は、自分のことを信じてくれていたのに。その気持ちを裏切って、さらにはあんな皮肉まで。
 最低だ。自分は。
 ビビりのうえに、人の気持ちまで踏みにじるなんて……最低だ。生きている価値もない。
「でも、その層だって掘り返すことはできるじゃない。確かに、新しい層が積もれば違う人間になるのかもしれない。でも、それで古い層がなくなるわけじゃないでしょ? だから――」
 有希はまだ、そんなことを言ってくれる。
 しかし、その言葉を素直に受け止める余裕は、もう亮介になかった。
 有希はきっと、自分の言いだしことに引っこみがつかなくなっちゃったもんだから、それを繕うために言葉を続けているんだろうな……そう、亮介には思えた。
「もういいよ。どれだけ言ってくれても、俺は変わらない。昔の俺が、仮に早瀬の言うとおりだったとしても――そのころに戻ったりなんか、できるわけない。時間は戻らないんだから。……明日も早いんだから、もう寝なよ」
 そして亮介はベンチの端に寄って、体ごと有希からそむける。
 しばらく有希は動かなかったが、やがて観念したように立ち上がって、寝袋に戻っていった。
 自分に対する怒りと絶望が収まらないまま、亮介はただ、ベンチに座り続けた。
 虫の音楽祭は、明け方近くまで続けられた。


        *


 薄暗い空間に、いくつもの星が、光っていた。
 いや、星に見えたのは、計器についている無数のランプだった。正面、左右、斜め上……明るい緑や赤の星が、いくつかのかたまりになって輝いている。
 その星々に囲まれるようにして、一枚のモニターがあった。
 モニターに映っているのは、数字の列ばかり。その行数は多すぎて数えきれない。数字の列は数秒ごとに刻々と変化している。
 計器類の稼動する、小さなウーンという音だけが、空間に響いている。
 突然、空気の弾かれる音とともに、何者かそこへが入ってきた。足音と影から察するに、進入者はふたりいるようだ。
 背の低いほうが、モニターの前で立ち止まった。
「異常なし、か」
 そして、モニターの下にあるスイッチを触る。
 画面が切り替わった。
 そこには、青い惑星が、映っていた。
 背景は、小さな星々が瞬いている一面の宇宙。その黒色とのコントラストで、惑星の青が余計にきわだって見える。まるで、吸いこまれてしまいそうなほど。
 星の直径はモニターの辺の三分の二を占めており、そしてだんだん、少しずつではあるが大きさを増していた。
「この星か」
 その姿をじっと見つめていた、背の低いほうが呟いた。
「外部モニター越しの映像でも、この美しさ。なるほど、誘われるようにしてここに逃げこんだのもうなずけるな」
「そうですかね」
 もうひとりの、背の高いほうが、その意見に疑問を呈する。
「この程度の青色惑星、珍しくありませんよ。イグン=ヨーム星系の第三惑星とたいして変わらないじゃないですか。あそこだって海洋星ですし」
「まあそれはそうだが……。お前は、この星を見てなにも感じないのか?」
「はあ。特になにも……」
 背の高いほうは言葉に窮する。低いほうは見下したように息を吐いた。
「言葉ではうまく言えないが――この星を見ていると、なんだか強い力を感じるというか」
「はあ」
「希望とか、生命力とか、そういう感じの……もどかしい、当てはまる言葉が浮かばん。ともかく、そういうものを含んでいるが故の美しさみたいなものを、おれは感じるんだ」
「よくわかりませんが……まあ、綺麗だということは私にもわかります」
 そのまま、ふたりはしばしモニターを見つめ続ける。
 画像はさらに、青い星に近づいていく。両極に白い冠を抱き、その間に濃い青の海と赤茶けた大地、それに流れるような白い雲をたなびかせている。
「それにしても、ここまで長かったな」
「そうですね。こんなところまで来ることになるとは思いませんでしたよ。よくも、これほどの道のりを逃げられたものだと……」
「まったくだ。それも、こんな星に――」
 言って、背の低いほうは改めてモニターに食い入る。
 緩やかに、青い星は回る。
 何者の意思にも影響されない高貴さと、見る者を魅了する優雅さを漂わせながら。
「ところで一応、確認しておくが、もう返信はしたのだな?」
「はい」
「……そろそろ、着陸に備えよう。惑星表面に直に着陸するなんてやったことないからな」
 そしてまた、モニターの画面が元に戻る。
 ほどなくして、彼らは退室していった。
 艦橋の小さな宇宙は、これから起こることをなにも、知らなかった。


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