クロッシングマインド 第5章

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 夜の風に、砂ぼこりが巻き上げられている。月の光にそれはさらされ、まるで砂金のようにキラキラして見える。もっとも、亮介はそれが目や口に入ってしまうことを心配してしまうのなれど。
 しかしガーティスは、口も目もかばうことなく、じっと青黒い空を見上げている。砂ぼこりなんて、目の前の喜びに比べたら気にならないのかもしれない。
 郊外の採石場に、亮介たちはいた。
 というのも、今朝、救難信号の返信が届いたのだ。返信の内容は、今夜にも地球に着陸できる、というものだった。
 亮介は、心の底からほっとした。これでやっと、もとの平穏な生活に戻れると思うと、嬉しすぎて叫びたいぐらいの気分だった。
 ガーティスも有希も、とにかく大騒ぎした。あんまり騒ぎすぎて、近くの家のおじいさんに窓から怒鳴られてしまった。
 ただシュリアだけは、複雑な表情をしていたけれど。
 支援者は、宇宙船を着陸させるために、広くて人気のないところの確保を求めていた。
 すぐにコンビニで、このあたりの地図を調べた。二十キロほど先の山中に、いまは動いていない採石場があることがわかった。南には山林が広がっていて、面積は付近の高校の十倍はあった。
 直接向かわず、南の林のほうから回りこんで行くことにした。あと少しで脱出できるというときに敵に見つかっては、元も子もない。
 しかし不思議なことに、この日は一度も敵に会わなかった。まったく体に無理をさせることなく、亮介たちは南から採石場に侵入した。
 空はすでに暮れかかっていた。採石場には深く茜が差していて、もともとの石の色と混じり合って絶妙な風景を描いていた。
 それがすごく綺麗で、まるで自分たちを祝福してくれているようだと、亮介は思った。


 陽が沈んだあとしばらくして昇ってきた満月が、いよいよ南天に迫ろうとしている。
 ガーティスは立ちっぱなしで、ずっと空を見ている。会ったときのことを考えて、すでに精神は入れ替えてあった。
 採石場は、静かだった。街の喧騒は遥かに遠く、風に石が転がる音と森のみみずく、それに虫の声だけしか聞こえてこない。
 やかましい生活に慣れた亮介は、その静寂に不安を感じずにはいられない。
「……遅い、な」
 怖くなって、ガーティスに話しかける。ガーティスはなにも返さなかった。
 そうやってしばらく待ち続けて、やがて。
 空の色が、変わった。
 淡い紺青からどんどん陰って、濃い青へと変貌していく。
 はっきりと瞬間的に変わったわけじゃない。ただ、ずっと見ていれば、色が濃くなっていくのがわかる。そんな変わりかた。
『来た』
 ガーティスは喜びに満ちた、明るい声で呟いた。
「えっ? どこ、どこだよ?」
 慌てて、亮介は問う。船の姿なんてどこにも見あたらない。
『船は肉眼では見えないようにしてあるんだ。光の屈折率を変えて、な。この星を混乱させるわけにはいかないし』
 なにかすごい技術を使って、見えなくしているらしい。あまりにぶっ飛んだ話すぎて、亮介にはよくわからなかった。
 だんだん、空がうねってくる。吹きつける風が強くなってくる。ガーティスはじっと、そのうねりの中心を凝視している。
 うしろで座っていたシュリアも、ようやく立って横に並んできた。
『シュリア様』
 興奮を隠さず、ガーティスが声をかける。が、シュリアなにも答えなかった。
 空気のうねりはだんだん下に移ってきて、それは地上にまで達した。そして達すると同時に、風が収まった。
 なにもない宙に光の線が走る。空間を長方形に切り取り、その長方形が前に倒れてくる。倒れてできた間から、光が溢れてくる。
 完全に扉が開くと、そこにはふたりの人間が立っていた。ふたりとも、朱色の体をしていた。
『ゾイ! あなただったの!』
 いままで反応の乏しかったシュリアが、初めて声をあげる。
『ええ。遅くなりました。シュリア様』
 ゾイと呼ばれた背の高いほうが、できたばかりの階段を降りてくる。出会ったときのガーティスたちやギレーキと同じく、彼らも二メートルを越えている。
『しかしまさか、本当に現地人の体にお入りになられていたとは。おいたわしい……』
 ゾイは、シュリアの――有希の頭に手を触れようとした。亮介はそれがカチンとくる。
「再会のあいさつもほどほどにしとけよ。見つかるとマズいだろ」
 気安く有希に触られることで時間がムダになるなんて、むかつくにもほどがある。
 と、ゾイのうしろにいた背の低い――といっても亮介よりかなり高い――男が、顔をはっきりと顰めた。
『なんだ、現地人の声か? なんと言ってるのか知らんが、下品な声だな』
『あ、その、早くしないと見つかるんじゃないかと心配してくれたのですよ。それに彼はウィレール語は話せませんが聞いて理解することはできますよ』
『そんなことはどうでもいい。低級な文明には、傷つけるに値する品格などないだろうが』
 汚らしいものを見る目つきで、こっちを見ている。なんだこいつは。
「おい。お前から早くするように言ってくれよ。こいつら態度悪すぎるぞ」
『そんなこと言えるか。この人たちは三代前に王家と姻族関係を結ばれた貴族だぞ。こっちにはこっちの立場が……』
 ガーティスは小声でぼそぼそと答える。
『話はそれぐらいにして、早くやることをやりましょう。本当に宙軍が来たら大変だしね』
 と、気を利かせてくれたのか、シュリアがそう言ってくれた。朱色のふたりは顔を見合わせ、それからうなずき合う。
『わかりました。それではガーティスから先になかへ――』
 言葉にうながされて、ガーティスは足を光のほうへ踏みだした。一歩一歩ゆっくりと、入口を見据えながら近づいていく。やっとこれで、平和な生活に戻れる――
 そのとき、鋭い音がした。
 しなるもので、なにかが打ち据えられる音。
『シュリア様!』
 はっ、とガーティスは振り返る。しかしなにもかも遅すぎた。
 シュリアはぐったりとなっていて、グリーンのひとりに抱えられていた。そのまわりにさらに数人、敵がいる。いつの間にこんな近くに迫っていたのか。グリーンたちは有希の額に、亮介の腕ぐらいありそうな太いチューブをつけようとしている。
 ガーティスは手に棒を作りながら、そいつらに跳びかかろうとした。
『慌てるなガーティス。動くと、姫様の安全は保障しないぞ』
 そこへさらに、暗がりから見覚えのある影が現れた。満面の笑みを浮かべながら、こっちに歩いてくる。
『ギレーキ、お前が、なぜ……』
 ガーティスは足を止め、声を震わせながら問いただす。
 視界の端で、なにかが怪しく輝いた。有希の額に当てられているチューブの吸い口だ。光はそこからするすると滑らかに、チューブのなかを移動していく。
『なぜ? 答えるまでもないだろう?』
 ギレーキの視線がガーティスの背後を示す。ガーティスもあとを追って目線を向ける。
 そこにはもちろん、朱色のふたりがいた。
『悪く思わないでくれ、なんてことは言わない。誰がどう見てもこれは裏切りだものな』
 ゾイはこっちを見つめ、はっきりとした口調でそう言った。さらに続ける。
『ただ、これだけは知っておいて欲しい。私は王家のこともシュリア様のことも、嫌いだったわけじゃないんだ。時流が少しでも違えば、そちら側にいたかもしれない。ただ、私には、先祖が築きあげてきたタフィーツ家を絶やしても構わないという選択が……できなかった。国の政治形態《かたち》が変わっても、一族は絶えることなく続いていけるんだから』
『そもそもお前さんは、世渡りがヘタすぎるんだ。時流を見ればあの時点で、どっちが勝つか明らかだったろうに。忠義と信念だけじゃ生きてはいけないのだよ』
 ゾイの隣の男がさらにそう付け加える。
 ガーティスは、なにも言い返さない。いますぐこいつら全員ぶちのめして欲しいのに、なにも言わない。
 だって、こんなひどいことをしておいて、そのくせ〝自分は悪くない〟なんてことを言うなんて。ふざけてる。絶対に許せない。
「こんな、こんなことって――」
 亮介の頭が、怒りで真っ白くなる。喋ることさえもどかしい。一秒でもいいから早くこいつらを殴りたい。
『お。そろそろいいみたいだな』
 場違いに明るいギレーキの声で、ガーティスはまた視線を戻した。
 ギレーキの手には、剥きだしの冷たい鋼色をした、鉄のカタマリが下げられていた。縦に長い炊飯ジャーのようなかたちだ。真ん中からやや上に、半球のランプがふたつある。有希の体は、ギレーキの足もとに倒されている。
『まあこうして、お姫様は拘束されてしまいました、というわけだ。どうだガーティス。おれの演出は』
『演出、だと?』
『そうだ。希望の絶頂から、絶望の底へ落とされる。最高だろ? このために昨日はわざと見逃してやったんだからな。くくく……』
 ギレーキはあの、不快な笑いをこぼした。
『あとは帰って、公開処刑という段取りなんだが……しかしあれだな。もしこのお姫様に能力があったら、こういう拘束の仕方はできなかったということを考えると、これもなかなか皮肉な結末だと――』
『ギレーキ――っ!』
 相手のくどい喋りを吹き飛ばすように叫びながら、ガーティスはギレーキに踏みこんだ。
『せっかちだな。話は最後まで聞け』
 ギレーキはうしろにステップした。ガーティスの攻撃は空を斬る。両脇に控えていたギレーキの部下たちが、さっ、と目の前に立ちふさがった。
『このままお前を無視してウィレールに帰っても、いいんだけどな。ただ、それじゃあこんなところまで来た愉しみがないだろう? そこでだ。おれとお前、一対一の勝負でケリをつけようじゃないか』
『なんだと?』
『お前が勝てばこの星から退いてやる。お姫様も返そう。――悪い話じゃないだろう? どのみちお前もウィレールを目指しているのだから、ここから出ても宙軍の網からは逃れられないしな。ここを退くぐらい、たいした損失じゃない。もっとも、二心状態で力の落ちたいまのお前がおれに勝つなんてことは、万にひとつもありえないだろうがな』
 ギレーキは余裕を隠そうともしない。ゆっくりとした歩調で、宇宙船の横のスペースに出る。歩きながら、棒をすらりと出現させている。
『訓練学校のころから、おれがどれだけお前を恨んでいたか、知っているか? 貴族に媚も売らず、そのくせ成績優秀で生意気で――挙句はおれが入るはずだった特務隊のポストを横取りしやがった。おかげでおれは宙軍なんていう、煩わしい部隊に入るはめになったんだ。お前の存在は目障りなんだよ』
 そして、構えを取った。武道の心得のない亮介から見てさえ隙がないとわかる、完璧な構え。
『勝手なことを……』
 ぎり、と自分の奥歯が鳴るのが聞こえる。ガーティスの怒りが、亮介の心にまで響いてくる。暴れ回っているのがわかる。
『亮介』
「なんだよ」
『これで最後だ。だから、頼むから、なにも考えないでくれ』
 一瞬、どう答えたらいいか、迷った。
「……わかった」
 それでもなんとか、そう返事をした。怖がるなと言われてもできないことは、自分でわかっている。でも、ガーティスが勝つ可能性が少しでもあるんなら、せめてやる気を削がせるようなことはやめよう、と思った。
 ガーティスが腰を落とし、構えを取る。正面から、ギレーキの鋭い目つきが刺さってくるのがわかる。
『お前にひとつ感謝することがあるとしたら、これだろうな。宙軍は実戦形式の訓練が多くてな。いまのおれの力は、おそらく普段のお前を上回っているずだ』
 ガーティスは無駄口にいちいち反応しない。にじり寄るように間合いを詰めていく。
 世界が、ふたりだけの空間に閉じていく。
 木々のざわめきも虫の声も、なにもかもが遠ざかっていく。
『ガーティス、ここがお前の墓場だっ!』
 お互い、ほぼ同時に跳躍した。二本の棒が閃き、ぶつかり合う。鮮やかな光の粒が散る。
 そのまま、押し合いになった。
『ぐっ……』
 ガーティスが、うめき声を漏らした。ず、ず、と少しずつ相手に押されている。背中を反らしながら上半身を必死に揺すって、ガーティスはなんとか耐えきろうとする。ギレーキはどんどん上体を押しつけてくる。
 ついに耐えきれなくなって、ガーティスは左に跳んだ。顔の真横を相手の棒が通過する。
 ガーティスはさらにうしろに跳んだ。構えは解かない。
『逃げてもムダだ!』
 ギレーキは素早く追いついてくると、こっちの頭目がけて、上段から振り下ろしてきた。
 棒を寝かせて、ガーティスは受け止める。受け止めながら、さらにうしろに下がる。ギレーキも遅れず追ってきて、攻撃を繰りだしてくる。
 右肩を狙ってきた突きを、ガーティスは棒の下端で受け流した。顔面に向かってギレーキが切り返してくると、急いで腕を引き戻してそれを防ぐ。力勝負になりかけると、ガーティスは手もとの動きで相手の棒を撥ねのけ、うしろへ下がる。
 前に踏みだす余裕が、まったくない。ギレーキは圧倒的に強い。
 それでもなぜか、亮介は負ける予感がしなかった。ガーティスの動きにも、これまでで最高のものを感じているからだ。それに、あんなひどい裏切りを受けてそのうえ負けるだなんて――そんな悲惨な目にガーティスは会っちゃダメだ。こんなに頑張ってる人間が報われないなんて、あんまりじゃないか。
 ガーティスの後退が、なにかにぶつかって急に止まった。視界が横を向く。そこには、高い岩肌の絶壁がそびえ立っていた。追いこまれてしまった。
『やれやれ。失望したよ、ガーティス。お前なら、ハンデを乗り越えて、おれを愉しませてくれると思っていたんだがな。まあいい。ここで未開の星の塵になれ』
 ギレーキは舌でべろりと口のまわりを舐めると、顔を愉快そうに歪めたまま、大上段に構えを取った。
 そして、一気に振り下ろしてきた。
 ガーティスは体勢を低くすると、一瞬の隙をついて相手の膝へ横薙ぎの一撃を放った。ギレーキは跳び上がって、それをかわす。
 降ろしている最中に跳んだ結果、ギレーキの攻撃は自分たちの頭の上にはずれてくれた。岩肌は細かく削れ、ぱらぱらと小石になって落ちてくる。
 着地に若干失敗したギレーキをよそに、ガーティスは斜め前に跳んだ。崖を背にして戦い続けることはあまりにもリスクが大きい。
 もちろんギレーキもすぐに立ち上がって、追いかけてくる。
『そうだ、それでこそお前だよ! それぐらいやってくれれば、俺ももっと愉しめ――』
『うるさい。少しは黙れ』
 ガーティスは開《ひら》けたほうへ、さらに後退する。しかし後退と前進では速さに差があるため、すぐに追いつかれてしまう。
 ギレーキの体が突然、視界から消えた。
 いや、身を沈めて、こっちの足を払いにきたのだ。
 ガーティスは少しも慌てず、その場でジャンプした。そしてそこから、相手の側頭部に狙いを定めて、棒を打ち下ろした。ギレーキの頭はがら空きだった。
 しかし、ギレーキは頭を守りにいかなかった。それどころか、棒を切り返してこっちのわき腹を叩きにきている。それも、ほとんど同時に当たりそうなタイミングで。
 ガーティスは右手だけに棒を持ち替えると、手首を返してわき腹の前へ棒を伸ばした。そこへ相手の攻撃がぶつかる。
 片手だけで受け止めきれるものではなく、ガーティスは大きく吹っ飛ばされた。なんとか左手で受身を取りにいく。
『ぎ……』
 ガーティスが苦しげに、うめき声を漏らした。やっとマシになってきていた左手が、これでたぶん、使い物にならなくなったんだろう。
 それでも、痛がってるヒマなんてない。ガーティスはさっと立ち上がると、素早く構えを取った。結構な距離が、ギレーキとの間に開いている。こんなにも飛ばされてしまったのか。視界が細かく上下に揺れている。
『お前は相打ちだと思ったのかもしれんが、いまのはお前のほうが少し早かったぞ。確かにあのままいけば、お前のアバラも砕けただろうがな。現地人の体の心配などするなんて、ぬるすぎるぞガーティス。くくく……』
 ギレーキの言葉に、亮介は、はっとさせられた。ガーティスはこの体を、なるべく傷つけまいとしながら、戦っていたのだ。
 向こうはきっと、予備の体ぐらい持ってるはずだ。ということは、防御にもかなりの意識を払わなきゃならないぶん、こっちが絶対的に不利になる。
 初めて、亮介の心に黒いものが差した。
 亮介は必死に振り払おうとする。いま弱気になったらダメだ。こんなところで迷惑なんかかけられない。絶対に、ガーティスは勝たなきゃいけないんだ。だいたいはじめから、この戦いは不利だってことはわかってたんだから。いまさらその要素がひとつ増えたってどうってことないんだ。
 理屈がなんとか通ったせいか、津波のように迫っていた陰は勢いを失い、そこで引いていった。亮介はそれに少しほっとする。やっと、まわりの状況に気を配れる余裕ができる。
 風が、規則正しいリズムで吹いていた。相変わらず、視界は上下に揺れ――えっ?
 亮介は、ようやく異変に気づいた。
 ガーティスは激しく、顔が上下するほど喘いでいた。風と聞き間違えたのは、ガーティスの吐く息だったのだ。
「おい、大丈夫かよ!? お前、その息――」
 小声で、亮介は話しかける。
『案ずるな。すぐ終わる。終わらせてやるから……』
 そう言われても、こんな苦しそうな呼吸を聞かされると心配しないわけにはいかない。
『頼むから、心配するな。私は、大丈夫だ』
 が、ガーティスが言い加えたそのひとことで、亮介はそれ以上声をかけられなくなった。
 心配する、なんていうマイナスなことを頭に浮かべてしまうと、それがとっかかりになって体に影響を与えるかもしれない。それをガーティスは危ぶんでいるのだ。
 結局、地球人で部外者な亮介にできることは、黙って信じること。それだけだった、
『だいぶ、疲れているようだな、ガーティスよ。そんな体では、さすがについてこれないか。お前は確かに、技量ではいまでもおれより上かもしれん。だがな、実戦でものをいうのは技術じゃない。思ったとおりの動きを続けるための体力だ』
 ギレーキは、緊張感が薄いのか、相変わらずよく喋る。普段の勤務からこんな感じなんだろうか。こいつの部下が哀れでならない。
 ガーティスはそんなくだらない喋りを無視して、再び相手に向かって駆けだした。
『ちっ』
 もっと話すつもりだったのか、ギレーキの対応はわずかに遅れた。胸に近いところで、こっちの攻撃を受け止める。
 勢いに任せて、ガーティスはさらに踏みこんでいく。
 まずは首へ。天を突くように。
 次は顔面を。大上段から振り下ろして。
 さらに腹を。小脇に棒を抱えて押しこむように。
 ガーティスが攻めるたびに、ギレーキはうしろへ下がっていく。もしかしたら、ガーティスは一気に勝負をつけるつもりかもしれない。やっぱり、さっきの息はヤバかったのか。
 と、下がり続けていた。ギレーキが、尻もちをついた。バランスを崩したらしい。初めて、こっちが見下ろすかたちになった。
 ガーティスは、ギレーキの胸を片足で踏みつけた。棒を逆手に持ち直し、狙いを、真下の顔に定める。
『ま、待て。もう勝負はついた。おれの負けだ。お姫様は解放してやる。な? だからもういいだろ?』
 ギレーキは、なんと命乞いをしてきた。自分の情けなさにしょちゅう呆れる亮介でさえ、その様子は見苦しすぎて吐き気がした。
『その、手に乗るか。お前の、性格は、よく知っている――』
 さっきよりもさらに息が苦しいのか、ガーティスは途切れ途切れに喋る。それでもなんとか、相手の喉に真っすぐ突き下ろすべく、手を目の高さにまで上げてきた。
 これで、終わる。もうこれで逃げなくてすむ。
 亮介の心は、すでにこのあとのことに関心が移っていた。
 が。
『が、ぐがは……が――』
 なにかが喉に詰まったような声を出したかと思うと、ガーティスは腕の力を抜いた。勢いもなく、棒はギレーキの喉に落とされる。
『げごっ』
 それでも、かなりダメージがあったらしい。ギレーキはガーティスの足から抜け出すと、喉を押さえてあたりを転げまわった。
『あ、ああ――くぐぐが――ぁ』
 しかしガーティスはそれをまったく見ず、顔を両手で覆いながらギレーキの声とは反対の方向へ走りだした。
「おい、どうしたんだよ? おい!」
 亮介の叫びにも、なにも反応しない。棒はいつの間にか消えている。
『ぎ、ぎ……がっ、あ――ん――』
 足がもつれて、前のめりに倒れてしまった。なんとか手をついて受け身はとったみたいだが、おかしな様子はいっこうに収まらない。
「おい! なんか言えよ!」
 不安になって、亮介は叫ぶ。せっかくあと一歩まできたってのに、こんなわけのわからないことでパーになるなんて、そんなことあってたまるか。
 再び襲いかかってきた黒い陰を、亮介は強い言葉で必死に追いやろうとする。しかしもはや、起こっていることの衝撃がきつすぎて、亮介の抵抗は風前のともしび同然だった。
「いったい、どうし――」
『亮……介』
 ようやく、ガーティスの口が開かれた。自分の名前だけだったが、その言いかたがひどく切迫したものだったので、なにも訊けなくなってしまう。
『いいか、よく聞け……これからお前が、戦うことになる……』
「は!?」
 言っている意味が、よくわからない。戦うのはガーティスの役目で、自分は単なる体の持ち主のはずだ。
『無理が、たたった。ふたつも心があっては、容量オーバーするに、きまっているんだ……。だから……統合、する』
〝統合〟
 それがどういうことだったか。亮介ははっきり憶えていた。そして瞬時に、〝戦うことになる〟という意味の真意を理解する。
「でもそれってお前、いなくなるんじゃ」
『私は、いいんだ。助けられ……る、なら』
「そんなこと言ったって――」
 ガーティスが、自分と統合する。統合とは、人格を統合すること。統合された人格は、ないものとなる。人格についていた、その人の記憶も経験も。
 それはつまるところ、このあとの戦いは、この〝清水亮介〟そのもので戦わなければならないということだった。
『攻撃は……精神の、力を物理、に転換して……行う。ただ、念ずれば、いい』
 ガーティスは、簡単なことだと言わんばかりに、言葉を絞りだしてくる。
 無理に、きまっている。自分にはできない。
 戦闘の術や技は引き継げたとしても、瞬時の判断に必要な経験や記憶がなければそれらは使いこなせない。なにより、相手に向かっていく強さがなければ……
「そんな……できるわけないよ。俺には、あいつに勝つだなんて」
 もう、心に降りた陰を払うことはできなかった。払う気力も湧かなかった。まわりすべてを黒く塗られて、どこへも足を出せなくなった。
 しかし、ガーティスは、怒るでもなく呆れるでもなく。
『頼んだ……』
 ただそれだけを言い残して。
 いきなり、目の前が真っ白になった。意識がどんどん、うしろに飛ばされていく。光に包まれた世界は亮介を奥へと運び、その道中、自分のまわりに次々と赤紫色の小さな球が集まってくる。
 意識の境界が、溶けるようにあいまいになって、わからなくなっていく――
 ――殺気を感じて、亮介は反射的に飛び退いた。
 見れば、いままでいた地面からもうもうと土煙が上がっている。
『ちっ』
 遠く向こうにいるギレーキが、なにかを投げ放った格好になっていた。左手は、まだ喉を押さえている。
 意識が表に、出てしまっていた。それも、いままでとは全然違う入れ替わりかたで。なにが起こったのか。考えなくてもわかってしまう。
 ただそれでも、どうしても認めたくなくて、亮介はガーティスに呼びかけようとした。
「お――」
 声が出かかったところで、亮介は慌てて口を閉じた。
 もしガーティスがいなくなったことがばれたら、相手に絶対つけこまれてしまう。たぶん勝てないとは思うけど、それでもできるところまで粘らないといけない。あんな頼まれかたをされてしまったんだから。
 亮介はまっすぐ、相手を見据えた。ギレーキもこっちを睨み返してきた。怖れなど微塵も感じていない、強い眼光が刺さってくる。
 その視線がつらくて、亮介は一歩下がった。地面の感覚がまるでない。足の裏に力が入ってないのだ。裏どころか、足全体が震えてしまっている。
 それでもなんとか、亮介は右の手のひらを天へ向ける。頭のなかに、棒のイメージを必死で浮かべる。
 ――出ろ! 出てきやがれっ!
 すると、手のひらの真ん中で、光の輪が回り始めた。輪は回りながら、上へと昇っていく。昇りながら、輪と手の間に円柱型の光の膜を残していく。
 その長さが竹刀ほどにまで達したところで、筒の中身が壁からあふれてきた。瞬時に筒は詰まり、一本の棒になる。
 棒は見た目よりも、ずしりと重たかった。そのかわり、表面は手に吸いついてくる感触があって、どれだけ振り回しても飛んでいかないようになっている。
 左手をおそるおそる、棒に添える。手首から先は動きはするものの、もうなんの感覚も残ってない。皮がめくれても皮膚が裂けても、たぶん気がつけないだろう。なんとか両手に持った姿勢にして、亮介は構える。ガーティスの構えよりも相手側に倒して、剣道の正眼の構えみたいな格好になる。
『構えを変えたな。姑息な作戦でも浮かんだか?』
 ギレーキはまだ気づいていない。自分たちの間を風が吹きぬける。月光のせいで砂ぼこりは青白くなり、それがふわぁと舞い上がる。
『さっきのはなんだかわからんが……お前なりの意趣返しか? そんなにおれの〝演出〟が気に入らなかったか。相変わらず面白くないやつだ』
 もしこっちが勝てる可能性があるなら、それは統合がバレる前だ。バレる前に勝負をつけてしまえたときだ。――それならば。
 亮介は小刻みに間合いを詰め、相手の間合いギリギリのところまで足を進めた。そして留まることなく、構えたまんまで跳びこんだ。
 狙いは、さっきダメージを受けた、首。
 しかしギレーキは、棒を傾けるだけでそれをを受け止めてしまった。硬いものに当たった感じはせず、それどころか当たった衝撃さえ手に伝わってこない。
 勝負は、押し合いに移行する。体格差があるから、この勝負はこっちに絶対的に不利だ。常に上から押さえつけられる体勢になる。
「う……」
 上からの圧力に、亮介の背骨が悲鳴を上げた。腰も足も、耐えるのがきつくなってくる。
 たまらず、亮介はその場に尻もちをついてしまった。
 ギレーキと、目が合ってしまう。亮介は瞬時に転がってそこから離れる。
 けれど、予感とは裏腹に、ギレーキは攻撃してこなかった。亮介の体を、じとじとと舐めるように見てくるだけだ。不審に思いながらも、亮介は立ち上がって棒を構える。
『お前、現地人か?』
 ギレーキは、いともあっさりと崩壊の言葉を口にした。
 亮介は声を上げない。喋ればその時点で、向こうの疑問が解決してしまう。
『……答える気はない、か。まあ、喋れば声でばれるしな。だがな、ガーティスがあの程度のことで、腰を落としてしまうわけがないんだよ……!』
 ギレーキの凄みに、全身の肌が泡立った。しかし、ここで折れるわけにはいかない。亮介は手にに力をこめ、棒を強く握り締める。
『しかしなぁ。こんなところまで来てやったのに、最大の愉しみが勝手に統合するとは。まったく愚かだ。ふざけている。こんな星の人間と統合なんて――く……ふふふあはーっはっははははははは!』
 ギレーキは突然、気が触れたように笑いだした。
『お前にはお似合いだよガーティス! バカはやっぱりバカな死にかたしかしないんだな。お姫様、聞いてますか? ガーティスはあなたのせいで死んだんですよ。あなたを助けようとして! あなたが無能でさえなければ死ななかったんですよ! ふははははははははは!』
 ギレーキは鉄のカタマリを指して、さらに高らかに笑う。
 亮介は体が震えるのを感じた。怖いからではなく、怒りのあまり体が震えるのを。
 ガーティスがここまで言われる筋合いなんてない。あいつはただ自分の信じたことに一途で、そのために正しいと思う行動をしただけだ。他人が笑い飛ばせることじゃない。
「お前、日本語、わかるんだっけ?」
 なるべく低くなるように意識して、亮介は声を出した。
『なんだ未開人。お前たちは見逃してやってもいいんだぞ』
 ギレーキのその言葉が、甘い誘惑となって亮介に襲いかかってくる。この数日、平穏な日常が戻ってくることだけを願っていたんだから、その言葉に従わない道理はない。
 でも、このままじゃガーティスが浮かばれない。なにより、自分の気持ちもすっきりしない。ずっと、見捨てて逃げたっていう罪悪感が残り続ける。
 亮介はちらりと、有希を見た。有希はギレーキの部下たちに囲まれ、地面に横たえられている。
 ――ごめん。俺のせいでもう元の生活に戻れなくなるかもしれないけど……死なせたりなんか、しないから。
 心のなかで有希に謝って、それから、大きく息を吸った。
「さっきからごちゃごちゃうるせえんだよ。お前みたいな、人をバカにすることしかしてこなかったやつに、ガーティスを笑う資格なんてないんだからな。命を懸《か》けて行動したこともないくせに、偉そうにしてんじゃねえよ」
 ギレーキの愉快そうだった表情が、一瞬にして消え失せる。
『ふん、そうか。そんなに死にたいのならさっさと殺してやる。お前も、そこに倒れている女もだ。ふたりぐらい殺しても、どうとでもごまかせるからな』
 そして、その目に力が篭められた。殺してやる、という気合が、亮介の全身にびりびり伝わってくる。ガーティスのことがなければ、いますぐ逃げだしたい気分だ。
 それでも、やらなきゃいけない。せめてやれるところまで、やらなきゃいけない。
 おぼつかない手で棒を握り、構えた。思考がギレーキ一色に染まっていく。見えているものだけしか、意識にのぼらない。
『どいつもこいつも、ふざけやがってぇ!』
 叫びながら、ギレーキが突っこんできた。ガーティスと戦っていたときと比べると、動きが大きい。勢いに任せている感じ。
 そんな突進でも、亮介にはかわすことができない。速さもそうだが、なにより、どこへ動いても攻撃が届いてきそうで、足を動かせないのだ。
 かろうじて、亮介は攻撃を受け止める。
 筋力は、ガーティスがいなくなっても変わらないから……ガーティスにできたことは、亮介にもできるはずだった。でも、あの勢いを紙一重でかわせるラインを判断する力はない。だから、ガーティスみたいに避けまくって相手の隙をうかがうなんてことはできない。
 攻撃を止められたギレーキは、しかし今度は押してこなかった。素早く腕出を引き戻し、すぐに棒を振り下ろしてきたのだ。最初は左肩、次は右わき腹、さらには脳天、太もも――全身のいたるところへ、棒がしなって飛んでくる。
 亮介の手は、亮介自身が思うより早く、棒をそこへ合わせていった。当たりたくない気持ちが、手を動かしてくれているのか。 ぶつかるごとに粒子が散って、闇に煌めく。
 ひとつ防ぐごとに、足がうしろに下がっていく。前に出なきゃ、踏みこまなきゃ勝てないってわかっているのに、足は下がり続けるだけばかりだ。
 ギレーキの体が、大きく見える。実物も大きいけど、それよりさらに大きく。四メートルぐらいに見える。こんな相手に向かって、逆に飛びこんでいったなんて。あいつは、どれだけの覚悟でここに立っていたんだろう。
 左のこめかみを、相手の攻撃がかすめた。かすっただけなのに、えぐられたような激痛が起こる。
「う……」
 亮介は思わず体を縮みあげてしまった。バランスが崩れる。その隙を、ギレーキは見逃さない。
 左肩へ、鋭い一撃が襲いかかってきた。
 亮介は体を投げだすようにして、右へ跳ぶ。
 しかし、遅かった。最後まで元いた場所に残った左の足首が、爆発した。
「じ、ぎっ……」
 痒いぐらいの痺れと痛みが、じわじわと広がっていく。亮介はとっさに左足首を押さえた。手がぬる、と滑った。血が出たらしい。裾が破れてボロボロになったズボンに、すごい勢いで染みが広がっていっている。
 こんなものにいちいち構ってたら、また攻撃を喰らってしまう。亮介はそこから手を離して、立ち上がろうとした。
 足が叫び声をあげて、それを嫌がった。歯を食いしばってそれを無視する。右足だけに体重をかけて、亮介は棒を構える。
 こんな状態で構えたって、役には立たないかもしれない。それでも、こけおどしになってくれるのならそれでいい。
 左の頬を、なにかが流れていく。肩を持ちあげてそれを拭うと、やっぱり血だった。かすっただけだと思っていたこめかみは、ずっとずきずき疼いている。もちろん左足も、鼓動と同じペースで疼いている。
『踏みこんできたらどうだ。威勢がよかったわりには戦いかたが臆病じゃないか? ん?』
 ギレーキの言葉に、亮介のなかのなにかが反応する。
 臆病? 違う。確かに自分はずっとそうだったけど、いまはこうやって戦いの場に立ってられてるじゃないか。自分は臆病じゃない。違う。違う――
 気がつくと、亮介は駆けだしていた。
「わあああああああ!」
 体勢も気にせず、本当にただ突っこむだけの安易な攻撃だった。相手を欺こうとか、テクニックでなんとかしようとかいっさいなく、足の痛みも忘れて真っすぐに向かっていく。
 上段から、亮介は棒を叩きつけた。
 が、亮介にとっては渾身の一撃だったそれを、ギレーキは難なく受け止めた。ギレーキの胸のあたりで、粒子の花が咲いている。
『弱いな。本当に同じ体か? まあ経験の差は、統合でも如何ともしがたいものなんだろうよ。つくづくガーティスもバカな男だ』
 そしてギレーキは、棒を合わせたまま亮介の持ち手の近くまで滑らせ、同時に自身も身を屈めると、下から上へ棒をすくい上げるように押しこんだ。
 よろよろと、亮介は後退する。左足に体重がかかって、また激痛が走った。それでもまだ、ギレーキの挑発に対する憤りが収まらない。
 また、亮介は突っこんでいった。
 さっきの繰り返しを見ているかのように、またギレーキには簡単にそれを受け止められ、弾き返される。
 できない。
 さっきと筋力とか変わっていないのに、それでも、ガーティスみたいに戦えない。
 自分が、弱いせいだ。この心が弱いせいだ。
 ギレーキもいま言ったじゃないか。本当に同じ体か、って。体は同じでも心の強さが違えば、相手から見てさえこんなにも弱くなるのだ。
 亮介は、もう抑えようとは思わなかった。抑えるという行為自体を忘れてしまった。体じゅうを嫌な汗が流れていく。息が上がる。どれだけ息を吸っても心の乱れが止まらない。
 自分は、殺される。
『もう、いいか。愉しめるかと思って決着を延ばしてきたが、あんまりお前、面白くないしな』
 ギレーキは大きく息を吐くと、一段、握りを強くした。


        *


 シュリアは、一連の戦いをすべて見て、そして聞いていた。
 統合。人格の吸収、収束。それが具体的にどういうことであるか、いまさら、考えなくてもわかる。
 ――ガーティス……
 シュリアの頭のなかを、いろいろなことがよぎっていく。
 ――初めて会ったときから、すごく真面目だった。崩していいよって言ったのに、ずっとガチガチだったんだもの。
 ――いつも、自分のそばにいてくれた。護衛のために、わたしの前に立ってくれて……あの大きな背中が好きなのよね。
 ――わたしのこと、ちっとも見下した目で見なかった。飾り姫なんて陰口を言われるぐらいのわたしに、ただの一度も、そんな目をしなかった。
 ――けっこう、厳しいことも言われたっけ。わたしが自分の無能を口実にして逃げたようなことを言っても、それに真正面から言い返してくれたのはガーティスだけだったし。
 とめどなく溢れて、想いは止まらない。もうガーティスは戻ってこないと思うと、あとからあとから湧き出てくる。
 ……そこで、シュリアは気づいた。
 ガーティスが統合したのは、自分が能力を取り戻して元に戻してくれると信じていたからなんじゃないか、ということに。それなら確かに、行動に納得できる。
 ――けど、そんなこと……できるわけが……
 さっきよりも大きな悲しみが、シュリアの心を襲う。助けられるはずだった者を、助けられない。自分に力がないせいで。こんなときまで自分を信じてくれてた人を、助けられない。
 ――信じる?
 そうだ。ガーティスは最期まで自分を信じてくれたのだ。一度も、ガーティスの励ましにまともに応えようとしなかった、この自分に。
 その気持ちを、このまま闇に葬り去っていいんだろうか。
 ――いいわけがない。
 だから、やるしかないんだ。
 もちろん、自信なんてこれっぽっちもない。やりかただっておぼろげだ。だけど、ここまでガーティスがしてくれたのに、自分が努力もしないであきらめてしまうなんて、そんなの、許せない。
 信じてくれたんだから。ずっと、信じてくれてたんだから。
 ここで応えなきゃ、もう二度とチャンスはない。
 なにより。
 ――もう一度、会いたい。
 与えてもらうばっかりで、まだなんにも、自分はお返しをしていない。
 だから。
 ――――行こう。


        *


 下げた足の踵がわずかに高く乗り上がって、亮介の心臓がビクンと跳ねた。うしろを、一瞬だけ振り返る。
 もう絶壁まで来てしまったのかと思っていたのだが、まだちょっとだけ距離があった。それでも、たった数メートルの余裕でしかない。あそこに達するのは時間の問題だろう。追いこまれても、直撃をガードし続けることはできるだろうけど、それだって何時間も続けられるもんじゃない。
 なんの打開策もなく、亮介は徐々に絶壁へ追い詰められていっていた。反射神経だけでかろうじて相手の攻撃を防いではいるが、反撃することはまったくできていない。
 鼻先に、鉄の錆びたような臭いがしてくる。拭っても垂れてくるもんだから、さっきからこめかみの傷はほったらかしにしていた。
 足の痛みは、なんだかどうでもよくなっている。痛くないことはないんだけど、それよりも立って構えなきゃいけないから、足のことが意識からなくなってしまっている。
 息が苦しい。どれだけ吸っても吸い足りない。少しでも気を抜くと、自分がいまなにをしているのかわからなくなりそうだ。
 殺されるのはわかっているのに、自分はなんだってこんなムダなことをしているんだろう……? 構えを取って、相手の攻撃を防いで――それがなんになるんだ? 自分はなんのために……
 背中にどすんと、衝撃が広がった。とうとう、絶壁に達したようだ。
『もっと泣き喚いてくれたりすると面白かったんだがなぁ。――つまらん』
 ギレーキは勝手なことを言っている。手で棒を弄びながら、タイミングを計っている。
 亮介の心に、いろんな人への言葉が駆け巡った。
 ――父さん母さん。出来の悪い息子ですいませんでした。おまけに先に死んじゃって……。稲城。妬んで悪かった。かわいい彼女と幸せに暮らせよ。王女様とガーティス。あんまり役に立てなくて悪かったな。あの世で恨み言は聞くから。
 ――それから……有希。俺が弱いせいで死んじゃうけど……だめだ、どんなこと言ってもフォローにななんかならないよな。ごめ――
 視界の端で、眩しい閃光が走った。
 幾筋もの白い光芒が、亮介の目の前を駆け抜ける。
 そこへさらに、ギレーキの部下たちの怒声が加わる。ただひたすらに、驚きとパニックだけを主張する叫びだ。
『なんだ、騒々しい』
 苛立たしげに、ギレーキが振り返る。
 全員の視線が集中する先には、有希の体があった。
 そしてその体が――上半身を起こした。痛そうに、首の裏筋を押さえながら。
「有希!」
 亮介はそばに駆け寄ろうとして、すぐに自分の置かれていた状況を思い出した。ギレーキに激突する寸前に、なんとか体を元へ戻す。
『ふん。現地人が起きただけでなにを騒いでるんだ。お前ら、早く片して』
 有希が、なにかに気づいた顔になった。そしてギレーキの言葉を遮って、口を開いた。
『あ、そっか。亮介にしてみれば有希が気になるもんね。大丈夫、気絶してるだけだから』
 その声は、有希ではなくシュリアのものだった。
 シュリアは、なんの邪魔もされず体の不調も見せず、その場に立ち上がる。
『なっ』
 今度はギレーキが驚いて、動きを止めてしまった。こっちのことなんか忘れたみたいに、呆然と有希の――シュリアのほうを見ている。
『なんで……どうやって抜け出した?』
『どうやって? そんなの、言わなくてもわかるでしょ』
 毅然とした声で、シュリアは言う。
『しかし、そんな――能力が戻るはずは』
 うろたえているのか、ギレーキは言葉をうまく紡げない。
 もちろん、亮介にとってもシュリアの脱出は意外なことだった。あんなに逃避して、ガーティスとケンカまでしたのに。信じられない。
 でもそれより、いまは先に訊くべきことがあった。
「ほ、ほんとに大丈夫なのか? その……」
『ええ。有希の命に別状があったら、こんなふうに動けないから』
 シュリアは肩をぐるぐる回して、体の万全をアピールしている。
『なぜだ! なぜ戻った? 十年も戻らなかったのに――おれたちをずっと、騙していたのか!』
 ギレーキの大声が、採石場一帯に響き渡った。小刻みに、棒を持つ手が震えている。
『騙すメリットなんかないわ。本当にわたしは能力が使えなくて、たったいまそれが戻った。それだけよ』
『ふざけるなっ。こんなタイミングよく戻るなんてふざけている! お前ら! 早くそいつを捕まえろ!』
 ギレーキはシュリアをそいつ呼ばわりしながら、指で差した。もちろんシュリアはそれに反応する。グリーンのいないほうへ、勢いよく駆けだした。
 が、そこへ、物陰からふたり、グリーンが現れた。シュリアは行く手を阻まれ、あえなく捕まってしまう。
『やめなさい! わたしを拘束したら、あなたたちの体に入るわよ。……二心状態なんて、なりたくないでしょう?』
 自分の手をうしろで抱えたグリーンふたりに向かって、シュリアはそんなことを言った。部下たちの目が、ギレーキのほうをうかがう。
『我々のうちの誰かに入ったら、その体の持ち主――現地人の女を殺しますよ。いざとなれば、現地人の女もろともあなたを殺すことも、我々にはできますしね』
『はじめから亮介たちは殺すつもりだったくせに、それを取り引きの材料にするの? それに、あなたにはわたしをここで殺せないでしょう? わたしをみんなの前で殺さないと、王制派の動きを沈静化させる効果とか、星民意識を急転させるための演出効果とかが得られないんだし。ましてやあなたの性格を考えたら。……あなたが特務隊に来なくて、本当によかったわ』
 シュリアの体が、引きずられるようにして元のところへ戻ってくる。体で抵抗こそしていないが、目は死んでいない。
『こうも見事に人を欺ける殿下に仕えなくて、こっちも運がよかったですよ』
 ギレーキの皮肉に、シュリアの顔はさらに力みを強める。
『だから、騙すメリットなんかないって言ってるじゃない! わたしは、ガーティスの言おうとしていたことに、やっと気づけたの。だから、戻った』
『はぁ?』
 ギレーキが、わからない、という声を出した。体の向きはこっちに向いているが、気持ちはすっかりあっちに飛んでいるみたいだ。
『わたしは気づいたのよ。ガーティスがわたしの復活を信じて統合したんだってことに。それでやっと、わかった。ガーティスがいつもなんで、能力はなくても王家の責務は果たせるって言えてたのか。――自分に向けられている信頼ってものに、人は応えなきゃいけないんだわ。王家が向けられている国民からの信頼。ガーティスがわたしに向けてきた信頼。どっちも、同じことなのよ。応えなきゃいけないって意味で』
 淡々と、シュリアは語る。
『ガーティスはわたしが能力を取り戻すって信じて、亮介が勝つって信じて、それで統合した。わたしたちは、それに応えなきゃいけないのよ。もちろん、自主分離がうまくいったからって、肝心の統合分離もできるとは限らないけど……。でも、わたしにはできる。絶対に。――もちろん、亮介も勝てる』
 そしてシュリアは、亮介に向かって微笑みを寄こしてきた。有希の顔で笑みを投げかけられるというのは、本人じゃないとわかっていてもドキッとする。
 しかし、その動揺はすぐに亮介の胸から消えた。シュリアの言葉が耳の奥で繰り返されて、心のいたるところに響き渡っている。
〝自分に向けられている信頼ってものに、人は応えなきゃいけないんだわ〟
 胸に深く、シュリアの言葉が刺さる。それどころか胸をえぐって、底に溜まっていたヘドロみたいなものも一緒にかき回している。
 どんなに自分ではダメだと思っても、励ましてくれる人がいる。
 自分ではとっくにできないと思っていることでも、できると言ってくれる人がいる。
 王女様の場合はガーティスだった。ガーティスは王女様を信じて統合し、それを受け取った王女様は、それに応えたいと思った。
〝清水くんは、ほんとは立ち向かえる人間だってことだよ〟
〝亮介は臆病なんかじゃない〟
 有希の言葉。昨日の夜、有希は自分のことをわざと名前で呼んでまで、信じていることを伝えようとした。そのときに、言われたコトバ。
 あのころからずっと、そう思ってくれていたんなら。
 自分のどんなに情けないところを見ても、そう思ってくれていたんなら……
 ――なるほど。王女様の言うとおりりだ。
 これに応えなきゃ――俺は自分を許せない。
『くだらない。信じるだの応えるだの、精神論的な話を持ちだすだなんて。この宇宙時代に……くだらない』
 ギレーキは露骨にシュリアを軽蔑している。ギレーキの意識は、こっちに向いていない。
 亮介は迷いなく、そこへ跳びこんでいった。
『くっ――』
 明らかに、ギレーキの反応は遅れた。いままでで一番、体に近いところで、棒を重ね合わせている。
 亮介はそこでさらに、足に力をこめた。相手を押すように、前へ、前へと出る。ギレーキの体はたいした抵抗感もなく、簡単にうしろに下がっていく。
 が、それも数歩だけのことだった。ギレーキの体が突然重くなって、ビクともしなくなる。体格も力もはっきりと差があるから、押し合いをするとどうしてもこうなってしまう。
 ギレーキと、目が合う。月明かりだけの薄闇のなか、目の光だけがはっきりと見える。
 亮介は、目をそらさない。そらせばその瞬間、一気につけこまれる。
 重ね合わせている互いの棒が震える。腕の、いや、上半身の力のすべてを、ふたりとも一本の棒に注いでいる。亮介は、痛覚のすでにない左手が痒くなってくるのを感じる。
 そのまま、長い間押し合いが続いて。先に、ギレーキが動いた。
 腕を体に引き戻し、うしろにステップする。
 相手が急に力を抜いたので、亮介はよろっと前のめりになってしまった。
 そこへ、ギレーキの棒が飛んでくる。狙いは、顔面。
 亮介は、首を左に傾けるだけで、それをかわした。ずっと相手から目を離してないので、攻撃してくるタイミングや、どの角度からどこを狙ってくるのか、ある程度わかる。
 右耳の近くで、髪が焦げる音がした。かすってしまったらしい。どうでもいいことだ。
 のめったことで体勢が低くなっているのをいいことに、亮介はそのまま相手の足もとへ払いの一撃を見舞いにいった。
 ギレーキは、またも軽やかにバックステップを刻む。亮介の棒が、ギレーキの前を通過していく。
 と、そこで、ギレーキは体の勢いを、がらっと、反転させてきた。間合いを急激に詰め、亮介に迫る。
 横に跳んで、亮介はなんとかそれを避けた。受身から素早く立ち上がって、棒を構え――る前に、ギレーキはもう攻撃してきていた。肩口のあたりで、それを防ぐ。クロスしている位置は、かなり棒の根もとのほうだ。
「ぐ……ぎぎぎ」
 亮介は腕に力をこめ、押し返そうとする。口のなかに唾が溢れるが構いやしない。
『さっさとくたばりやがれ!』
 その声とともに、ギレーキは体重をかけてきた。こっちは頭ひとつ以上低いから、こうされるとつらい。背中が悲鳴を上げてくる。押し返そうにも、だんだん力が抜けてくる。
 なにか、手はないか――亮介の頭が、この状況を切り抜けるためにどうしたらいいかを、必死になって考える。頭のなかには少しも、あきらめるという発想はない。
 ――さっき、急に引かれて、バランスを崩されて……だから……
 勝利を確信しているのか、ギレーキの目がすうっと、細められる。重さがさらに増してくる。
 亮介は目線を切ると、自分の棒を肩口の奥に――背中のほうに、倒した。
『うっ――』
 ギレーキの棒が、その傾きの上を滑っていく。同時にギレーキは、バランスを前に崩した。よろよろと足をよたらせて、前進してくる。
 亮介は、その足にタックルをかました。放課後、校庭でラグビー部が練習しているのを見たことがあるけど、そのときのかすかな記憶を思い出しながら、足に喰らいついていく。
 さすがにこれには耐えられなかったのか、ギレーキは背中から地面に倒れた。
 完全に、形成が逆転する。
 亮介はすかさず、相手の顔面を叩きにいった。
 ギレーキは左に転がって、それをかわす。亮介はさらに追いかける。
 今度は胸のあたり目がけて、棒をしならせた。
 が、胸に届く前に、ギレーキの足の裏が立ち塞がった。そのまま、足の裏で受け止められてしまう。
 ギレーキの顔が、歪んだ。戦闘用の体でも、直に当たるとやっぱり痛いんだろうか。
 そんなギレーキの表情に気を取られているうちに、亮介は右手を掴まれてしまった。しまった、と思ったときにはもう遅い。
 そのまま、巴投げの要領で、宙に投げ飛ばされた。
 受身も取れず、背中から地面に叩きつけられる。一瞬、息が止まる。投げられる前から息があがってたから、肺が尋常じゃない勢いで空気を求めだす。
 それでも、ふらつきながら、亮介は立ち上がった。無防備に寝てる余裕なんてない。
 ギレーキは、目前まで迫っていた。
 重い一撃が、棒にぶつかってくる。鮮やかな粒子の花が空中に咲く。亮介の足が、押されてうしろに滑る。
 そこから、ギレーキは素早い連携攻撃に打って出てきた。
 手首を返して、こっちの棒を撥ね上げたかと思うと、すかさず腰へ棒を振り下ろしてくる。お腹を引っこめて、亮介はそれをかろうじて避ける。
 返す勢いで、ギレーキは横っ面を叩きにきた。今度は防御が充分間に合う。棒を、顔の前に差し渡す。
 しかし、棒と棒がぶつかり合う直前、ギレーキは軌道を変えた。こっちが出している棒よりさらに下――脇腹へ目標が移る。フェイントだ。
 亮介は、突き刺すような動きで、腕を下へ衝き下ろした。棒の下端が、ギレーキの攻撃を弾く。
 大きく、亮介はよろめいた。左手が棒から離れ、片手だけで持った状態になる。
 ギレーキはそこへさらに、襲いかかってきた。繰り出してきた突きの行く先は、こっちの右手。
 手を引き戻して亮介はそれをかわすと、うしろへステップした。ギレーキとの間に、距離ができる。
 ギレーキは追ってこなかった。互いに構えたまま、対峙する。
 世界に、音がなかった。音としてあるのは、互いの足音、息づかい、それから粒子の散る音。それだけだ。しかもそのどれもが、一定のリズムで変わりなく聞こえてくるので、音としてはあまり感じなくなっている。
 亮介は改めて、ギレーキとの力の差を痛感していた。やる前から向こうのほうが強いなんてことはわかっていたが、ここまでとは思っていなかった。
 体格のことも、もちろんある。でもなにより、力の差を決定的なものにしてしまっているのが経験だった。咄嗟の判断――その、一秒にも満たない領域の感覚のあるなしが、ギレーキとの差を大きくしている。
 ならば、経験の薄いこっちが勝つには、どうしたらいいか。どうしたら勝って――有希を護れるか。
 可能性があるとしたら、相手の予想してないタイミングで攻撃することだろう。それなら、反応が遅れるはず。それでもだめなら……
 ――捨て身で、飛びこむしかない。しかも不意打ちで。一撃で。しとめなきゃいけない。
 もしそれを実行したら、相手を倒せても、こっちもかなりひどい傷を負うことになるだろう。
 最悪、死ぬ。
 亮介は棒を握りなおすと、ぐっと力をこめた。
 ――俺が死んだら……俺が自分を護って死んだって知ったら……あいつ、泣くかな。
 唐突に、亮介はそんなことを思った。有希の泣き顔が、脳裏に浮かぶ。
 ――泣かれるのは、嫌だな。でもきっと、俺が死んでも、あいつの生活はなんにも変わらないんだろうな……
 これまでと同じように暮らして、有希なりの幸せを見つけていくんだろう。
 その光景のなかに自分がいれたら、と思う。それもここで死ねば、永遠に叶わない。
 また、亮介は棒を持ちなおした。そして、腕が震えるぐらい、強く握りしめる。
『意外とお前、愉しめるじゃないか』
 と、そこでギレーキが口を開いた。どうでもいい話なので亮介は答えない。
『なにがどうなったのか知らんが、さっきまでと動きが変わったな。やはりおれは、あのときからずっと運がいいみたいだ。ガーティスを殺せたし、未開人は愉しませてくれるし。一部の急進派がことを起こしたと聞いたときは早まりやがってと思ったもんだが……くくく……』
 唇の端を歪め、愉快そうにギレーキは笑う。いいかげん、こいつの話につき合ってるのも鬱陶しい。
「おい、ごちゃごちゃ言わずにさっさと来やがれ! お前の話は自分のことばっかりで、全然つまんねぇんだよ」
 亮介は、わざと挑発するようなことを言った。向こうが冷静さを欠いてくれれば、そのほうがこっちにチャンスが広がる。おそらくカウンターでしか、こっちの必殺の一撃は決まらないんだから。
『その性格が、一番、もったいなかったなぁ。ガーティスもお前も、つき合いが悪すぎる』
 対して、ギレーキは皮肉を返した。仕掛けては、こない。こっちを見据えたまま、微動だにしない。
 また、音がなくなる。
 体の奥で、鼓動が響いている。それは正確なリズムを刻み、その一刻みに合わせて、体全体が震えている。握り締めている指先も。大地を踏みしめている両足も。相手だけを見るために固定されている首の裏も。震えている。
 お互いに、相手の出るのを待っている。ギレーキは慎重だ。喋りは余裕ぶっていたくせに、行動はまったくそれと正反対だ。
 ギレーキの足が、じり、じり、とかすかに砂を噛み始めている。そろそろ来るのか――と、思った瞬間だった。
 ギレーキは、完璧な形で踏みこんできた。
 カウンターの隙なんて、微塵もない。
 それでも、受けるだけならできる。亮介は棒を寝かせると、きちっとそこへ当てさせた。防がれたギレーキは、そこから棒を押しこんでくる。最後は慎重に、自分に有利な力勝負に持っていくつもりらしい。
 亮介は、自分からうしろに下がった。ここでムキになって対抗しても意味はない。
 なんとかして、こいつに隙を作らせなきゃいけない。たった一度だけでいいから、作らせなきゃいけない。
 その一度で、勝負を決めることができる。
 けれど、ギレーキはまったく隙なんて見せない。腕は伸ばさずコンパクトに締め、腰は適度に落とされている。構えた手の位置は、いつでも頭への攻撃に対応できる位置だ。
 さながら、隙間のない鎧を纏っているかのように思えてくる。
 こっちがいくらうしろに下がっても、その鎧は剥がれない。完璧に着こなしたまま、ギレーキは攻撃を繰り出してくる。
 亮介は必死でそれらを受け止め、下がって、また受けて、また下がって――そのうち、もう何回これを繰り返したのか、わからなくなってきた。
 そのとき、背中に重い衝撃が走った。
 確認するまでもない。背中に当たる、このごつごつした岩肌の感覚。絶壁だ。さっき追い詰められた場所とは、ちょうど向かいあった位置になる。
 もう、下がることはできない。
 ――こうなったら、賭けるしかない。隙とか関係なく、飛びこむしかない。
 亮介は、一瞬で覚悟を決めた。
 ひときわ強く相手を睨み、口を真一文字に結ぶ。そして、奥歯をきつく噛み締めた。
『やれやれ。意外と時間がかかってしまったな。ガーティスをおれの手で倒せなかったことは残念だが、それなりに面白かったからよしとしよう。……ここが正式に開星したら、真っ先に植民星にしてやるか。幸い、環境はいいみたいだしな。観光資源としてそれなりに活用できるだろう。くくく……』
 ギレーキは完全に勝利を確信している。慢心してくれているのならありがたい。かすかに、望みができる。
 亮介は相手に気づかれないように、少しずつ姿勢を低くしていった。
『なにか、言い残すことはあるか?』
 ギレーキは余裕ぶってそう言いながら、すっ、と構えを取る。
 亮介は答えなかった。
『なし、か。まあそれがお前の生き様ならいいだろう。いま楽にしてやる!』
 そして、ギレーキの腕が、大上段に振り上げられた。
 ちょっとだけ――大きい。振り上げの、幅が。大きい。
 ――いまっ!
 狙うは一点。相手の首へ。ガーティスが、最後にギレーキにダメージを与えたところ。おそらくまだ痛みは残っているはず。そこへ目がけて、亮介は体を躍らせる。
 しかし、ギレーキは動揺したりしなかった。こっちが飛びこんでいくことさえ、予感していたのかもしれない。両肘をくっつけて隙間を埋めると、それを首の前へ降ろしてくる。
 こっちが遅い。間に合わない!
 でもいまさら引っこめることなんてできない。これが外れたらアウトなんだから。自分はどうなってもいいから、どうなってもいいから……
 ――頼む! 届け、届いてくれ!
 頭のなかが、たったひとつの気持ちだけになる。
 強く、強く、ただそれだけを願っている。
 そして。
『ごばっ』
 ギレーキは嫌な声を出して、仰向けに倒れた。白目を剥いて、まったく動く気配はない。
 亮介は数十秒、呆然とそれを見つめる。
 自分でも、信じられない。間に合うタイミングじゃなかったし。ただ、自分の見たものが間違ってなければ……あの瞬間、棒が伸びた。
 こっちが遅いと思って、そのすぐあと。棒は、確かに伸びたのだ。そのおかげで、ギレーキを倒すことができた。
 亮介は、まだ手のなかで煌めいている棒を、不思議そうに眺める。七色の光は一瞬ごとに色合いが変わり、それがまるで、蠢いているようにさえ見えてくる。エネルギーと言うからには、流れがあるんだろう。
 でも、納得できないのは、なんでこんな相手の不意をつく便利な機能があるのに、ガーティスもギレーキも使わなかったのか、ってことだ。特にガーティス。これを知ってたんなら、統合するとき言ってくれればよかったのに。
 ――まさか、言わなかったのは、知らなかったから……なんてことはないよな。
 その可能性に思い当たるも、即座に亮介は否定する。なぜなら、ガーティス本人が言った言葉を、憶えているからだ。
〝攻撃は……ただ、念ずれば、いい〟
 この棒は、念じる気持ちで作られているのだ。だから、当たってくれと念じたおかげで、棒が伸びた。ガーティスたちがこれを使わなかったのは、まあなんでか、よくわからないけど……どうでもいいか。
 いまは、それより先にやるべきことがある。
『さ、約束よ。あなたたちにはこの星から退いてもらうわ』
 まだ捕まったままのシュリアが、普段よりも毅然とした口調でギレーキの部下たちにそう告げた。
 が、それに反して、部下たちはシュリアを引っぱっていこうとする。
『ちょ――ちょっといいの!? あなたたち、グァバンジ家のおこぼれ欲しさにくっついてたんでしょ? ここであいつを助ければ、目をかけてもらえるかもしれないのよ?』
 部下たちの動きが、ぴたっと止まった。
『早くしないと、亮介があいつを殺しちゃうかも?』
 そして大げさな調子で、シュリアはさらに被せる。亮介はそれに合わせて、棒でギレーキの顔面に向けた。
 それが、決定打になった。
 部下たちはシュリアを放り出すと、全員がわれ先にとこっちにやってきた。敵意は感じられない。戦う気はないらしい。亮介は棒をギレーキから離すと、その場から遠ざかる。
 そそくさと、緑たちがギレーキを回収していく。
 同時に、暖かい空気が立ちこめてきた。どういう成分が含まれてるかは知らないけど、これがなんの空気であるかは、なんとなくわかる。
 宇宙船が、飛び立つ準備をしているのだ。部下たちの走っていくほうからすると、ギレーキは採石場に自分たちの船を持ってきていたらしい。つまりこの場には、二隻の船があるということだ。
 亮介は走って、朱色の体の――ゾイの腰を掴んだ。
「おい! お前のは置いていけよ!」
 叫びながら、顔に棒を突きつける。
 彼らがギレーキたちのほうのに乗って帰れば、こっちのは置いていける。そしたら、それでガーティスたちは、帰れるかもしれない。亮介はそう考えた。
 が、掴まれたほうのゾイは、困惑の表情でこっちを見下ろしている。
 ――あ。日本語、通じないんだっけ。
 慌ててシュリアに通訳を頼む。シュリアは一瞬、驚いた顔になったが、反対することはしなかった。
 そうして亮介の意思は伝えられ、ゾイはそれに従った。もし戦いを選択されていたらかなりマズかったんだけど……そうしなかったのは、攻撃能力が備わっていなかっただけなのか、あるいは、裏切りを気にしていたのか――
 やがて、音もなく一機の宇宙船が空に飛び立っていった。
 急に人気のなくなった採石場には、優しい虫の声が響いていた。


        *


 宇宙船のなかに入った亮介とシュリアは、船が動くかどうか確かめるために、さっそく艦橋に向かった。
 しかし、いきなり目論見ははずれることになった。なんでも、船には固有の起動コードというのがあり、それがわからないので動かせない、ということらしい。
 亮介は気落ちしたが、まあガーティスたちの支援者が地球に来る日も遠くはないか、と思って、すぐに切り替えた。ギレーキたちが退いたってことは、支援者が地球に近づきやすくなっているということなんだから。
 次にふたりは、居住区に向かった。居住区は思っていたより狭く、亮介の部屋の二倍ぐらいしかなかった。部屋の真ん中にテーブルとソファのような座るところがあり、左手には収納スペースがあった。収納の扉に触れると、扉は左右にスライドし、なかにはいくつものウィレール人の体が吊るされていた。それを、シュリアにあてがう。
 有希から離れたシュリアは、部屋の奥から治療キットを見つけてきた。当然、シュリアは亮介に体を見せるよう迫ってきたが、亮介はそれを拒んで有希のほうを指差した。
 意識を取り戻した有希は、事態が解決したことを知ると亮介の手を掴んできた。そのまま上下にぶんぶんと振られ、亮介は嬉しいやら恥ずかしいやらで頭が軽くパニックになってしまった。
 その間に、シュリアが亮介の傷を見た。足とこめかみの処置は思いのほか簡単に済んだ――なんか得体の知れない湿布みたいなものを貼られた。丸一日貼っとけば傷が塞がるらしい――が、左手は皮膚のなかのことなので、このキットでは治しきれない、とのことだった。
 時間が経つにつれて、亮介の体はどんどんほぐれていった。さっきはなかった実感が、胸のなかでいっぱいになって溢れてくる。本当に、自分たちは勝ったのだ。無性に息を目いっぱい吸いたくなって、それから思いっきり吐き出した。
 ――あとは、ガーティスを戻すだけだった。


 宇宙船に入ってから、一時間……過ぎただろうか。
 亮介は、下を向いていた。
 隣で有希も、同じように俯いている。表情をうかがうことはできない。
 部屋のなかには、荒い息づかいの音だけが響いている。聞いているのがつらくて、亮介はソファの生地を強く掴む。体に合わせてフィットするように沈みこむ不思議なソファは、正確に自分の指のかたちを写し取る。
 それでもやっぱり様子が気になって、そうっと、亮介は視線を持ち上げた。
 正面に座るシュリアは、一時間前とはまったく別人になっていた。肩で息をして、必死に喘いでいる。目の焦点は強く結ばれたりまったく合わなかったりで、小刻みに体は震えている。
 もうずっと、十数分も会話がない。この状態が続いている。
 とうとう耐えかねて、亮介は口を開いた。
「ほら、たぶんまだ能力が戻ってから時間が経ってないからなんだよ。それか、この船で見つけた体に原因があるとか――」
 最後まで言えず、途中でやめた。いくら言葉を繋いでも、いまのシュリアにはなんの慰めにもならない。できるか、できないかという結果そのものにしか、意味がないんだから。
 王家の血統に付随する能力には、二種類ある。
 ひとつは、自己精神分離能力。自分の精神を、体から引き離して空中に放つもの。この世界において精神単独で居れるのは王族だけであり、その状態で彼らは託宣を受ける。
 もうひとつは、統合精神分離能力。ひとつの体のなかで統合された精神を、再びもとのふたりに戻す能力。こっちは近代に入ってから発見された。
 さっき、シュリアが脱出できたのは、前者の能力を発揮したから。
 そして、前者の能力が回復したとなれば、後者も回復した、と考えるのが普通だろう。当然、シュリアも亮介もそう思っていた。
 しかし、ガーティスの精神は戻ってこない。
 何度試みても、反応は返ってこないのだ。
 始める前から、不安要素はあった。シュリア自身が、これを行うのが初めて、ということなのだ。先代や先々代、それからまわりの王族がやっていたのを記憶を頼りに思い出しながらやっているが、それがどれぐらい正確な効果を発揮できるか不透明すぎる。
 部屋の空気は、まさしく雨でも降りそうなほど、重く垂れこめている。
『やっぱり、無理なのかな』
 ぽつりと、シュリアがそうこぼした。堪えきれずに、漏れてしまったような言いかたで。
「ダメだって。弱気になっちゃ。ガーティスさんの気持ちに応えたいんでしょ? まだ時間はいくらでもあるじゃない」
 有希が即座にフォローする。が、シュリアは有希のほうを見ず、足もとの同じ一点にずっと視線を落としている。
 気まずい。
 ギレーキを倒せた幸運からして、ガーティスもすぐに戻せると亮介は思いこんでいた。しかしその予想はこうして脆くも崩れてしまっている。いまごろは落ち着いてお茶会でもやってたかもしれないのに。
「ねえ。その、ここまでつき合ってきて思うんだけど。どうして、この星まで逃げてきたのが、ふたりで、なの?」
 重い空気をなんとかしようと思ったのか、有希がそんなことを尋ねた。シュリアは顔を上げ、一瞬、有希のほうを見たが、すぐまた目線を下げてしまう。
『……本当は、私邸に攻めこまれたとき、わたしはそこで死ぬつもりだったの。王家と親しかった人のなかには、宇宙に逃げだした人もいたけど……わたしはそんな気になれなかった。父様も母様も殺されて、自分だけむざむざ生きるだなんて……。それに、能力のない無能はさっさと死んだほうが……なんて考えも、あった』
 はっきりとした喋りではなく、音が口から漏れてくるような感じだったが、それでも耳によく通った。
「それで?」
『でも、特務隊の隊長さんが、むりやりわたしたちを脱出用ポッドに押し込んじゃって……。〝あなたは生きて、生き延びてください。それが私たちの果たせる最期の仕事です〟って。みんなは戦っているのに、自分たちだけおめおめ逃げだして――すごく、悔しかった。窓からウィレールを見たとき、能無しのくせに星を捨てて逃げるのか、って、星に非難されてる気がしてきて……。ガーティスのほうが、そういう悔しさは強かったと思う。裏切らず特務隊に残って、無事だったのはガーティスだけだし……』
 こいつらがどんな想いで故郷を出たのか。予想してはいたけど、それでもかなりハードな話だった。亮介は口を結んで、視線を下げる。
「なんで、ガーティスが選ばれたんだ?」
 それでも、いまのこの調子を崩したくなかったので、さらに質問を続けた。
『それはわからないけど……たぶん、一番信頼があったからだと思う。真面目だし、任務を投げ出さないし……。ウィレールから逃げだしたことはつらかったけど、ガーティスと一緒にいられるのは――ちょっと、嬉しかった。わたしのことを、蔑みも同情もしなかったのはガーティスだけだったから』
 ガーティスのシュリアに対する態度については、亮介もここ数日でよくわかっていた。
 あいつは本当に、王女様そのものを見ていた。そして王女様を助けるためにどうしたらいいかを、いつも考えていた。
 あんな、絶対の存在が自分にもいたら、と思う。ガーティスたちをずっと見ていて感じたのは、そういう羨ましいという気持ちだった。
 だからこそ同時に、ガーティスを戻してやりたいと思う。あんなふたりを、こんなことで引き離すなんて許せない。
「ふたりは、長いつき合いなの?」
 そんなことを考えている自分をよそに、有希がさらに話を被せる。
『会って三年ぐらい、かな。ガーティスが初めて来た日のことはいまでも憶えてる。ガチガチに緊張しちゃってて、おかしいったらなかったわ。でも、他の貴族出の隊員にはない真面目さだけは、すごくよくわかった。それに……わたしを少しも見下さなかったし。でもはじめはずっと疑ってた。だから、その演技を剥いでやろうって思って、いろいろひどいことをガーティスにしたんだけど……ものすごい剣幕で叱られちゃって。わたしを叱る隊員もはじめてだったわ。それで、ああ、この人は本気なんだ――って、わかった』
 シュリアはヒザに乗せた手を、ぎゅっと固めた。まるで、なにかに耐えるように。
『ガーティスと会えたから、いまのわたしがいる。どんなにまわりから蔑まれたり同情されたりしても、ガーティスと会ってから平気になった。ガーティスがちゃんとわたしを見てくれてるんだからって、自分に言い聞かせて。わたしは、ガーティスがいたから……』
 声が、だんだん弱くなっていく。宇宙人が泣くかどうか知らないけど、もし地球人と同じならこれは泣きそうになっているってことなんだろう。
「好きなんだね。ガーティスさんのこと」
 と、有希がいきなり、そんなことを言いだした。
 亮介の体温が、急角度で上昇する。いきなりそんな話題出されて、どう対応したらいいのかわからない。
 しかしシュリアは、きょとんとした顔で有希を見つめているだけだ。
『ええ、好きよ。当たり前じゃない』
 出てきたのは、そんな素っ気ない言葉だ。
 なにか、すごい食い違いがある気がする。
 そのへん、有希はさすがというか、その正体にすぐに気づいていた。
「そうじゃなくて……なんて言ったらいいかな。友だちに言う〝好き〟と、特別な誰かに言う〝好き〟は違うでしょ? わたしが言いたいのは、特別な〝好き〟のほう。わかる?」
 説明を聞いてるだけで、拷問を受けている感覚になる。恥ずかし責めとでも言うか。自分にとっての〝特別な誰か〟の口から、〝特別な好き〟についての解説をされるなんて。恥ずかしすぎて死にそうだ。
『え、あ――』
 肝心のシュリアは、みるみる顔に赤味が差している。
『そう、なのかな。わたし、そういう〝好き〟って意識したことないから……』
 自分でも意識してなかった図星を言い当てられて、かなり慌てている。見ていて、ちょっと面白い。
『でも、言われてみれば……そうなのかも、ね……。ガーティスはお兄さんのことがあって、それでわたしによくしてくれているんだから、深い気持ちを持っちゃいけないんだ、って、自分で歯止めをかけていた気がする』
 シュリアが言い終えた、次の瞬間。
「あいつは」
 思わず、亮介は声をあげてしまっていた。いまの話を聞きながら、言うべきか黙っておくべきかを考えて迷っていたのに、口のほうが勝手に先走ってしまった。
 言いかけた以上、もうごまかすことはできない。亮介は話してしまうことにした。
「あいつは、自分の兄貴のことで、王女様によくしてたわけじゃないんだよ。最初は、確かにそうだったらしいけど。だんだん王女様そのもののことが気になって。それで、その……」
 内容が内容だけに、かなり恥ずかしい。最後はしどろもどろになってしまった。亮介は軽く咳払いしてごまかす。
『え……』
 シュリアは目を見開いて、口をぽかんと開けてしまった。顔全体が呆けてしまっている。
『それじゃあ、ガーティスは、なんの義理も打算もなく、わたしに――』
 その先は継がれなかった。シュリアはヒザに乗せている拳を激しく震わせ、顔を俯ける。
 ソファに、丸い滴が落ちた。滴は連なって、いくつもいくつもこぼれてくる。
『わたし、ずっと、ガーティスに迷惑しかかけてなかった。でも、ガーティスがお兄さんのことを償うために特務隊にいるんなら、それでもいいかななんて思って甘えて……わたし、わたし――』
 シュリアの嗚咽が、部屋のなかに響く。この船は機密性が高いのか、声が普通より反響してしまう。
 そのせいで、よけいに切なくなる。亮介は居たたまれなくなって、唇を噛んだ。
「これからそれを返していけばいいじゃない。ほら、これで拭いて」
 有希がハンカチを差し出しながら、シュリアに寄り添う。やっぱり有希は強い。自分にはこんなふうに、すぐに慰めたりできない。
「戻ってほしい気持ちが強いほうがいいんだろ? だったらもう充分あるじゃねぇか。俺ならまだ、いくらでもつき合うからさ」
 それでも、できる限りの言葉をかけてみる。
『うん……』
 シュリアはおずおずと、亮介に手を伸ばしてきた。額に、ひんやりとしたものが触れる。滑らかな手のひらが、かすかに髪のほうへ動かされる。
 潤んだ瞳と、真正面で向き合う。シュリアは亮介の奥を覗きこむように、見つめてくる。亮介も視線をそらさない。その目を見つめ返す。
 目の上、額のあたりから、淡い黄金色の光が漏れてくる。さっきから何回も見ているものだ。光に導かれるように、亮介は目を閉じる。
 目を閉じると、この部屋に音が少ないことがわかるようになる。右手のほうで起こった衣擦れの音は、有希が姿勢を変えた音か。人ふたりぶんの気配以外には、なにも感じない。
 どういう理屈かわからないけれど、統合された人格はこの黄金色の光を頼りに、他人の人格という迷宮を抜け出てくるのだという。ガーティスが出てこないのは、単にまだ明かりを見つけてないからなのか、それとも明かりそのものが弱すぎるからか。
 自分の心なんて、他の人より単純にできてるんだから、ガーティスなら簡単に出てこれると思うんだけど……それでもやっぱり、人間の心である以上、出てくるのは難しいんだろうか。
 だんだん焦れてきて、亮介は唾を飲みこむ。有希が大きく息を吐いたのが聞こえる。
 そうして、長い時間がすぎて。
『やっぱり――やっぱりムリだ。できない。できない。……十年も能力が戻らなかった無能には、やっぱり片方だけしか戻せなかったのよ!』
 シュリアは叫んで、弾けるように亮介から離れた。目もとからこぼれた滴が、亮介の手に落ちてくる。
 ソファに顔を埋め、シュリアは声を上げて激しく泣きだした。初めて見る生の人の慟哭に、亮介は思わず目をそらしてしまう。見ていられない。
 けれど有希はそんなことはせず、シュリアの肩へ手を回した。そして顔を、シュリアの耳もとへ近づける。
「まだ大丈夫だって。時間はたくさんあるんだから」
『わたしだって、できるって信じたいよ! でも、でももしできなかったら、このままガーティスは……』
 ソファでくぐもったシュリアの声は、最後まで言葉を紡げない。言葉が引き鉄になって、さらに泣きかたが激しくなる。
「できるって信じたら絶対できるんだから。さっき自分で証明したんでしょ? だから、ほら、弱気にならないでさ」
 有希は、自分よりはるかに大きな体を抱いて、優しく声をかける。
『わかってる、わかってるけど、わたし、ガーティスがいないと――』
『いないと、どうなんですか?』
 全員の時間が、一瞬、止まった。
 その声は待ち焦がれていたもので、だからこんなにあっさり突然に来るなんて誰も思っていなくて。なにが起こったのかを理解するのに、普段の数倍の時間がかかってしまった。
 そして、呼吸さえするのを忘れたその数秒間のあと、亮介のなかに、ふつふつと感情が沸きあがってきた。
 やっと、あのバカ、こんな単純な心を脱出してきやが――
『ガーティス!』
 飛びかかるようにして、シュリアが抱きついてきた。体が大きいぶん、力も結構ある。
「ちょっ、いだ――王女様痛いって、痛い!」
 亮介は抗議するが、まったく聞き入れられない。
『もっと早く出てきてよ! わたし、わたし――』
 そんな勝手なことを言いながら、シュリアは顔をぐちゃぐちゃに崩している。もちろんそれは、さっきまでとは種類の違う涙だ。
『はぁ』
 ガーティスは事態を飲みこめていないのか、気の抜けた返事をする。
『もう絶対、こんな危ない真似、させないんだから! わかった?』
『しかし、シュリア様を護らなければならない以上、リスクの伴うことをせざるを得ない状況もあろうかと』
『そんなことどうでもいいの! 護らなきゃならないって言うんなら、わたしの心も一緒に護ってよね! わたしの心は、あなたがいないと、いないと――』
 言ってることが恥ずかしくなったのか、シュリアの声は最後は小さくなってしまった。
 でも、ガーティスには、それで充分伝わったらしい。
『わかりました。仰せのままにいたします』
『ガーティス!』
 シュリアは、さらに強く亮介の体を抱きしめてきた。
「ぐぎゃあぁ」
 体のどこかが、ミシ、ときしみを上げる。息が苦しい。
「お、おい、とにかく先に移そうぜ、な? いや、笑ってないで早瀬もなんとかしてくれって! うぎぃぃっ」
 宇宙人による締め技攻撃は、それからしばらく続けられた。


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