クロッシングマインド 終章
淡いオレンジ色の光のなか、電車がゆっくりと駅から離れだした。遮断機の向こうを、草緑色の車両が駆けていく。
すべてが通り過ぎると、踏み切りは甲高い声を出すのを止めた。縞々の手を振り上げる。待ちかねたように、その下を車や歩行者が渡っていく。
それとほぼ同時に、改札のほうからも喧騒が聞こえてきた。亮介はそっちへ視線を移す。いろんな年格好をした人たちが改札から溢れ、それぞれの方向へ足を向けていた。上着の襟を寄せて、みんな秋の夕方へ飛びこんでいく。
その人の波を、亮介はじっと見つめる。手を突っこんでいる、制服のポケットの感触が気持ちいい。まだ真新しい生地はざらついていて、指に不思議な感じを残してくれる。まだ包帯が取れない左手は、布越しでなにも感じられないけど。
そのとき人波のなかに、青いブレザーの高校生がやって来た。自分と同じく買いなおされた新しい制服は色が鮮やかで、しかもそれが似合ってるもんだからたまらない。
亮介はかすかに目線をずらしながら、片手を上げて有希に近づいていった。
「ごめん。待った?」
「いや、そんなに」
有希の気づかいに答えながら、亮介はロータリーのほうへと歩きだす。
ガーティスたちが地球を離れて、一週間が経っていた。それからずっと、ふたりはこうして待ち合わせをしている。特にどちらから言いだしたわけではない。ただごく自然に、亮介は有希と帰りを合わせるようになっていた。
なんてことない会話を交わしながら、ふたりはバス待ちの列の脇をすぎて、そのまま県道に出る。夕方はいつもラッシュの県道は、この日も大量の車を走らせていた。テールランプの赤が連なって、亮介たちの右手を流れていく。
「なんだか、不思議な感じがするね」
突然、有希はそんなことを口にした。
「え? なにが」
「一週間前は、こんな当たり前の生活が送れるなんて、思いもしなかったから――」
「確かに」
うなずきながら、亮介は苦笑を漏らした。いまとなっては、すべてが仮想のお話だったのではないかとさえ思えてしまう。
昼も夜も関係なく、山やら森やらを走り回って。ロクでもない性格の敵と戦って。自分も有希もボロボロになって。
いま生きて前と同じ暮らしをしていることが、本当に奇跡だと思う。たぶん、なにかひとつでも間違った手を打ってしまっていたら、いまの自分たちはなかっただろう。
まあ、それに気づいたのは、家に着いてしばらく経ってからなんだけど。あのときはただ必死にやってただけだから、自分たちが綱渡りをしていたことなんて少しも気がつかなかった。
自分がそれにようやく気がつけたのは、父さんと母さんの顔を見たときだった。初めて見た両親のやつれた姿――目のクマの黒さと顔色の悪さ、髪のだらしなさにショックを受けたことは言うまでもない。なんでも、公開捜査に踏み切る寸前だったとか。自分が有希を誘拐したという誤解はされてなかったみたいで、そこにはとりあえずホッとしたけど。
ともかく、ふたりのあんな顔を、自分はきっと一生忘れないだろう。会った瞬間泣きだした声も、きっと忘れない。心配してくれる人がいて、自分は本当に幸せなんだ、ってことが充分すぎるぐらいわかったから。
行方不明になった理由は、目出し帽をかぶった男たちに拘束されてた――ということで有希と口裏を合わせた。警察の人は、意外なほどすんなり自分たちの作り話を信じてくれた。これから警察に、居もしない〝目出し帽の男〟を探させてしまうことには罪悪感を感じるけど……〝宇宙人〟なんて信じてもらえるわけがなかったから、どうしようもない。
「あいつらいまごろ、どこにいるかな?」
正面に見えてきたコンビ二から視線を上げ、亮介は空を見上げた。茜に染まった雲が、薄くたなびいている。
「まだ自分たちの星に戻ってないと思うけど……幸せになれるといいね、あのふたり」
「そうだな」
ギレーキを倒して、ガーティスたちが亮介たちの体から抜けた次の日。今度こそ本当の支援者が来て、ガーティスとシュリアは空の彼方へ飛び去っていった。
『この星で、あなたたちに会えてよかった。この星を出られるのも、わたしの能力が戻ったのも、全部あなたたちに会えたおかげだから……』
そんな感謝の言葉を、これ以上ないってくらいの笑顔で言って。ふたりは紺青の夜空に消えていった。
でも、感謝の言葉を言わなきゃいけなかったのは、むしろこっちのほうだったんだ。
「なんか、綺麗だね。今日の夕焼け」
有希も自分と同じように、西の空を見つめていた。道路の対岸、そのはるか向こうに、赤い太陽が沈もうとしている。一日が終わってしまう物寂しさと、去り行くものの去り際の見事さを同時に魅せながら。
「そう、だな。本当に、綺麗だ」
まるで、一日に起きたいろんな出来事が、結晶になって輝いているような、そんなふうに思えてくる。
地面の下に帰った結晶は、一度砕かれるんだろう。砕かれて、それをもとにしてまた違う一日が始まる。彼らは砕かれるために、空を回っているわけだ。
けれど、彼らはけっして砕かれることを怖れてはいないだろう。
砕かれても、新しいなにかに生まれ変われるのを、知っているから。そしてその新しいものが素晴らしいものであることも知っているから。
そう。――砕け、壊れてしまうことを怖れていたら、新しいものは生まれないのだ。
コンビニを過ぎ、曲がり角に差しかかった。亮介は角を折れる。自分の少しあとに、有希が並ぶようについて来ている。
亮介はちらりと、有希のほうを見た。
「ん? なに?」
微笑を浮かべながら、有希は眼差しをこちらに向けてくる。
――ずっと、怖かった。
想いを伝えることは、いままでの関係をめちゃくちゃに壊してしまいそうで。だからずっと、避け続けていた。
だけど、逃げるばかりじゃ、なんにもできやしないんだ。
これから自分はいくつものことに立ち向かって、いくつものなにかを失ってしまうんだろう。
だけど、失い傷つくことを怖れるあまり、立ち向かうことをやめてしまったら。それは、失う代わりに得られるはずだったものを、永久に手に入れられなくしてしまうことだ。
なにかを得ようと思ったら、なんにも怖い思いをしないで得るなんて、無理なんだ。
それに気づかせてくれたのは、遠い星から来たふたり。
だから本当は、自分のほうがふたりに感謝の言葉を言わなきゃいけなかった。出発のときの慌しさのせいで、言いそびれてしまったけれど。
「あの、さ」
歩きながら、亮介は言葉を紡ぐ。頭のなかは緊張で真っ白になっている。顔を上げられない。地面だけを見て、足を前に動かす。
ひょっとしたら――いやたぶん、ほかに好きな男が有希にはいると思う。
「ずっと、怖くて言えなかったんだけど――」
でも、自分の気持ちをごまかして、この想いからずっと逃げ続けるだなんて。そんなことはもう、できない。
「俺と……つき合ってくれない、かな?」
言って。亮介は足を止めた。
うしろは振り返らない。ただじっと、答えを待つ。うしろでしていた足音も自分と一緒に止まっている。羽音のような、原付の走る音が遠くのほうでしている。
唾を、ごくりと飲む。
なにかが落ちる音が、かかとのすぐうしろから聞こえた。
思わず、亮介は振り返ってしまった。まだ答えを聞いてなかったことをすぐに思い出して、後悔する。
その後悔も、数秒後にはどこかへ行ってしまっていた。
有希は、顔を真っ赤に紅潮させて、呆然と立ち尽くしていた。口をぽかんと開けて、固まってしまっている。
「えっ、あ……その」
亮介と目が合ったことで我を取り戻したらしく、慌ててカバンを拾い上げる。
「ずっと、って、いつから――」
「ずっとはずっとだよ。自分でも憶えてないぐらい、ずっと前から」
一度告白してしまうと、どこか気が楽になってしまった。普段なら恥ずかしくて照れてしまうような言い回しも、簡単に口に上る。
有希はカバンを両手で握りしめたまま、俯いて黙りこんでいる。
驚きすぎて、なにも言えないんだろうか。そりゃあ、いままでそんなふうに思ってもいなかった相手から告白されたら、そんなふうになっちゃうのもわかるけど。でもそれならそれで、黙っているというのはよくわからない。
わからないけれど、亮介はただ有希の答えをじっと待つ。
そのまま、長い時間が過ぎて。
「……わたしだって、ずっと怖くて言えなかったんだから」
有希は、繋がりのわからないことを言った。
「はい?」
たまらず、亮介は訊き返す。
「だって、高校入ってから、わたしのこと避けてたじゃない! それでわたし、もう諦めてたのに……。こんなのずるいよ。そっちだけわたしを驚かせていい目見て。ずるいよ」
有希の黒目の輪郭が、少し滲んでいるような気がする。
「だってそれは、俺がぜんぜんそっちとつりあいが取れてないから――だいたい、ガーティスに入られた日の夕方だって、東高のやつと親しげにしてたじゃないか。あれはなんなんだよ?」
「あれはうちの文化祭に来た人が、知り合いぶって声かけてきたの! あれも含めて二回しか会ってないのに。どうしてあれを見て誤解するわけ!?」
調子が、いつもの有希に戻ってきている。ちょっとホッとしながら、亮介はそれに言い返した。
「なんで二回しか会ってないのと、あんなに楽しそうに話せるんだよ」
「向こうが勝手にひとりで盛り上がってただけで、わたしは楽しげになんかしてない! そもそも、ずっとわたしを見てたって言うんなら、どうしてこっちの気持ちに気づいてくれなかったの!? バカっ」
「そんな言いかたないだろ。怖がってたのはお互いさまじゃないか。そっちだって、気づけなかったことでは同じだし」
路地の真ん中だと言うのに、亮介たちは大声でやりあった。亮介は有希の目を見据える。有希も同じく見つめ返してくる。
……やがて、有希のほうが堪えきれずに、クスっと笑いをこぼした。
「なにがおかしいんだよ」
「だってふたりとも、同じことで悩んで怖がって先に進めなかっただなんて。こんなの、笑い話じゃない。バカらしすぎて笑っちゃうわ。あははっ」
有希は目尻を拭いながら、さらに笑い声を上げる。
なんだか、こっちまでおかしいような気分になってきた。亮介もつられて、大声で笑う。
「あはははっ」
「ははっ――ははは」
……ひとしきり笑ったあと、有希がこっちに手を伸ばしてきた。
「ちゃんとわたしのこと、幸せにしてよね。亮介」
亮介の全身の血が、一瞬で沸騰する。
「バカ言え。……プロポーズじゃあるまいし」
「一緒にいる時間を幸せにするって意味なら、夫婦も恋人も同じだと思うけど? それよりちゃんと、これからは名前で呼んでよね。公園のとき、こっちから道を作ってあげたのに、亮介ったらそれを避けるんだから」
「悪かったよ。ゆ――有希」
照れながら、なんとか亮介は口にできた。そして、おずおずと有希の手を握る。柔らかい、自分より小さな手。
「もっと昔みたいに、ちゃんと言ってくれなきゃダメ。ほら、もう一回」
「まじで? カンベンしてくれよ」
「だーめ。わたしたち、スタートが遅れたんだからね。どんどん取り戻していくんだから。ほらっ」
有希が亮介の手をぎゅっと握り返して、早く早くと迫ってくる。
秋も深まる日のある夕方。庭先の紅葉と同じくらい顔を赤くしたふたりの姿は長い影となって地面に刻まれ、影は太陽が沈むまでずっとその場に残り続けていた。
(終)