ランナーズファン

 チャイムが鳴っても、楕円の白線の上を走る真人の足は緩まなかった。ひとりで黙々と走り続ける。真昼の太陽に照らされたグラウンドは白く輝いて、真人の目を細めさせる。真人の呼吸と足音だけが、グラウンドに響いている。
 六時間目がいま終わったばかりの第二グラウンド。穂野川北高校の敷地の奥まったところにあるそこは、陸上部がほぼ独占的に使っている。グラウンドとは言うが、第一グラウンドの広さの半分もない。部員の多くは常々、その狭さについて愚痴をこぼしている。
 しかし真人にとっては、広いか狭いかなんてさしたる問題ではなかった。走って回れるコースがあるのなら、どこだって真人は満足できた。
 走り続けているうち、グラウンドにいつもの面子が入ってきた。なんだろう、うしろに制服姿の見慣れない連中がたくさんいる。不可解な集団の登場に、真人は走りながら首を傾げる。
「こらー服部ぃー! さっさとこっちに来いこのサボり野郎ぉー」
 と、人だかりの中心で木之下がこっちに向かって叫んできた。彼女はこの部の部長だ。砲丸の選手と一目でわかる、たくましい腕が特徴的。
 真人は楕円の白線のなかを横切って、集まりの輪に近づいていった。
「遅かったな木之下。なにやってたんだ」
「新入生のための説明会やってました! あんたも来いって昨日言ったでしょうが」
 木之下の言葉で、真人はこの制服集団の正体に納得する。なるほど新入部員か。そう言えばそんな集まりの話を、昨日言われたような気もする。
「忘れてた。悪い」
 自分のカバンからスポーツドリンクとタオルを取り出しながら、真人は素直に謝った。
「いいよ。あんたに常識は期待してないから。――ええと、一年こっち注目。こいつがさっき部室ですこし話題にした服部ね。一応ウチの長距離のエースなんだけど、ごらんの通り変なやつだから、扱いには気をつけること。ウチの部が先生に目をつけられるときは、たいていこいつが絡んでるから。いまこいつ、授業サボって走ってたんだけど、それ毎日やってんだから」
「ひどいな木之下。サボるのは六時間目に数学と化学と生物と英語と世界史と古文と現国があるときだけだぞ。いつもサボってるわけじゃない」
「……ね? こういうやつだから」
 木之下のひとことに、陸上部員がわははっと沸く。なにがおかしいんだかわからず、真人は眉をひそめながらドリンクボトルを傾け、中身をあおった。
「用がないんなら練習に戻るぞ」
「だぁー待て待て待った。あんたちゃんと、自分の下に入る長距離志望の子を見てってよ。――ほら! 前出てきて出てきて」
 木之下の呼びかけで、集団のなかから女子ひとり、男子ふたりが出てきた。真人は横一列に並んだ三人の胸についている名札を眺めた。
「ふんふん。武宮、鈴木に佐藤ね……」
「はい! 武宮あずさですっ。よろしくおねがいしますっ!」
 左端の女子がいきなり、大声で挨拶してきた。驚いて、真人は眉をびくぅっと数回上下させる。
「元気いいね」
「はい! それだけが取り得ですからっ」
 低いがよく通る声で、武宮ははきはきと喋る。体育会系少女にありがちな――鉢巻きが似合うボーイッシュな髪型。背はけして高くない。体つきも、長距離志望としてはちょっと肉づきがよすぎる。化け物じみてはいないものの、これぐらいの胸の大きさでも走れば充分、部の男の視線を集めてしまうだろう。
「注目されるのは好きか?」
「はい、大好きですっ。高校三年間のうちに、一度は大きな大会でトップでゴールに駆けこみたいです!」
 真人の問いかけに、彼女は目を輝かせて答えた。質問の意図はわかってないようだが、まあ大好きだって言うんだから、男の視線に耐えきることもできるだろう。もちろん真人自身は、そんな不埒なことはしな…………状況によっては、視界に入ってしまうことを避けられないときもあるだろう。
「じゃあこれで一年は帰っていいから。明日からは更衣室で着替えてここに来ること。今日でだいたい、それぞれの競技の先輩の顔は覚えたね? その先輩のいるところに集まればいいから。二年と三年は今日は自主練ってことで。帰りたかったら帰ってもいいよ。それじゃあ解散!」
 木之下の号令を聞いて、制服の集団は入ってきたときと同じようにぞろぞろと、グラウンドをあとにしていった。初めから着替えてグラウンドに来ていた二年と三年の一部の者だけが残り、各々、準備を始める。
 いや、ひとりだけ制服姿で残っている人間がいた。
「木之下部長! あたし今日から走りたいんですけどいいですか?」
 武宮の申し出に、砲丸を取りにいこうとしていた木之下は振り返る。
「べつに構わないけど。疲れてないの?」
「だいじょうぶです。もっときついときがありましたから。それじゃさっそく――」
 いきなり武宮はスカートの裾に手を突っこんで、ホックを外した。
 一気に足首まで、スカートは落下する。
「ぶっ」
「わーあーちょっと待った待ったぁっ」
 吹きだした真人の隣で、木之下が奇声をあげて慌てふためいている。
 だがスカートの中身を目の当たりにして、木之下の声はぱたっと収まった。跳ね上がった真人の鼓動も、すみやかに落ち着きを取り戻す。
「ちゃんとスパッツはいてますって。あはははははっ」
 武宮の下腹部から腿にかけて、黒い布がぴっちり体のラインを覆っていた。あらわになった生足には、しっかり筋肉がついている。肉がつきすぎかとも思ったが、意外といいカラダをしているかもしれない。
 真人の観察を尻目に、武宮はさらに上半身も脱いだ。下から、白地に赤字のロゴが入ったTシャツが現れる。
 そのロゴを見て、木之下があっ、と声をあげた。
「武宮あなた、中学、薫城だったの!?」
「はい。そうですよ」
 さらりと武宮は答え、屈伸運動に入る。武宮のシャツに書かれている文字は『KUNJOH T&F』――T&Fとはトラックアンドフィールド、陸上部のことだ。薫城学園と言えば県下の学生陸上界を牽引するとてつもない存在で、特に長距離では男女・中高とも他の追随を許さない。
 そんなとんでもないところにいた人間が、どうしてこんな弱小の公立に来るのか。
「それじゃあ時間ももったいないですし、とりあえず二十周走ってきまーす」
 なにかまだ訊きたそうな木之下を置いて、準備運動を終えた武宮は楕円形の白線の上に入っていった。このコースは一周二〇〇メートルなので……いきなり初日から四〇〇〇メートルを“とりあえず”走るんだと言う。
 この陸上部に、四〇〇〇を“とりあえず”走る人間はいない。一日の練習の締めに、三〇〇〇以上を走るか走らないかという部活だ。真人だけは別のメニューをやっているが。まともに指導する顧問もいない弱小公立では、こんな部活でも存在を許される。
 武宮が薫城のエスカレーターを外れてこんなところに来たのはおちこぼれたせいだと、真人は薫城の話を聞いた瞬間に推測した。地元じゃそこそこ速くて、自信を持って薫城に入ったはいいものの、そこにはもっと上のやつがごろごろいてついていけなくなったんだろう。よくある話だと思った。
「んじゃ俺も走るわ」
 真人はタオルとドリンクを置くと、木之下に向かって背中ごしに手を挙げた。
「ちゃんと面倒見てあげるのよ。あんた走るとき、自分の世界に入っちゃうんだから」
 木之下の注意に、真人は手を振って応えた。


 予想通りと言うべきか、真人が武宮に追いつくのはすぐだった。横に並びはせず、うしろに真人はつける。この位置なら、あの弾む物体を見ないですんだ。
 ざっとまわりを見回すと、短距離班はラインの引き直し、木之下はまだ柔軟をやっている。ひとりきりの高飛び班はバーを水平に調節していた。
 五周目ぐらいで、いつもの感覚が真人に起こってきた。真人は耳を澄まし、目を何度も閉じたり開いたりして、それを確認する。そうして、にやりと口もとを歪めた。
 走り続けるうちに、聞こえる音が自分から出る音だけ閉じていく。真人が走るのは、すべてこの感覚のためと言ってよかった。規則正しい呼吸と、そして足音。たったふたつの音だけが世界を占め、時間の流れさえ止まったかのような気分になる。こうなると、なにも苦しくなどなくなる。
 苦しいのはむしろ、走るのを止めたあとだ。喉は渇き節々は疲れ、大量の汗が真人を襲う。不快の渦へと引きずりこまれる。
 けれど、それと引き換えにしてでも、真人はこの快感を得たかった。世界を統べたかのような恍惚はなによりも得がたく、走れば走るほど真人を虜にしてきた。
 はっ、はっ、はっ。
 ざっ、ざっ、ざっ。
 まったく乱れないリズム。いつも変わらない。どこが過去で未来で現在(いま)なのか……境界はあいまいになり、流れの閉じた世界へと真人の身をいざなう。
 ざっ、ざざっ、ざっざざ、ざっざっ――
 その心地が、足もとから破られた。真人は意識を地面に向ける。
 すぐに、乱れの原因を掴んだ。武宮だ。
 近くにいすぎたせいで、足音を拾ってしまったのだ。
 真人は顔をしかめ、ストライドを広くして一気に武宮を抜く。これまで部活で何度も併走を経験してきたが、誰かの足音を拾ってしまうのはこれが初めてのことだった。
 拾ってしまったことは不可解だが、とりあえず抜き離してしまえば問題は解決する。追究はあとでやればいい。真人はそう自分に言い聞かせ、つとめて冷静になろうとした。
 だが、まったく音の乱れはなくならなかった。
 耳が真人に知らせてくる。すぐうしろに、武宮がついて来ていることを。こっち前に出たことで、今度は相手の呼吸の音まで聞こえてくる。
 武宮の音は、真人の呼吸のリズムを勝手に早めさせた。急なアップに、肺がぴくぅと痛くなる。
 口にたまった唾を吐き捨てて、さらに真人はペースをあげた。腕を思いっきり振る。足は素早く回転するように動かす。膝から下だけでなく、足の付け根から動かすことを意識して。
 こうなったら根くらべだ。相手がギブアップするか、自分が行ききるか――
 けれど、武宮はいっこうに離れなかった。聞こえてくる息は確かに荒くなっているので辛くはなってきているんだろうが、スピードのほうにまでそれが及ばない。
 真人は走りながら、必死に自分に言い聞かせていた。根くらべと決めたのは自分だ、だからこのままずっと、相手が落ちるまでなんとか耐えていけばいいのだ。
 相手の音に耳を澄ませ、真人は走り続けた。へばってきたら、音でわかるはずだ。その始まりを、真人は聞いてやろうと思った。聞けたらすごく、気持ちがいいだろうなと思った。
 いつどこで、音が変わるか。真人は高揚しながら待っていた。かすかに途切れたと思ったらまた戻ってくる、そんな武宮の喰らいつきさえ、すでに盛り上げるための前座に感じられた。何回そんなフェイクで楽しませてくれるんだろう――真人は胸を膨らませて、うしろの気配に気を注いでいた。
 それから五周ほど走ったところで、唐突に武宮の足音が消えた。振り返ると、武宮はコースを外れて、ベンチに戻るところだった。
「武宮ぁ、もう終わりかぁっ!」
 勝ち誇った気分で、真人は胸を張る。
「はい! 二十周終わったんで」
 だが武宮の返事で、その気分も瞬時に萎えた。さらに武宮は追い討ちをかける。
「先輩、ペースメーカー、ありがとうございましたっ!」
 どうやらムキになっていたのはこっちだけだったらしい。恥ずかしさのあまり、真人は武宮のほうに顔を向けずに、自分もカバンのもとへと向かった。
「お前、薫城でおちこぼれたんじゃ、ないのかよ。なんでそんなに速いんだよ」
 あがった息のまま、真人はタオルで汗を拭く。頬にも耳の裏にも首すじにも、不快なものが滴となって流れていた。
「えぇ!? そんなふうに思ってたんですか?」
 武宮も息を乱している。
「じゃなきゃ、薫城からうちの陸上部に入りなおす理由がないだろ。お前、三〇〇〇のベスト何分だよ」
 ドリンクを手にベンチに腰を降ろして、真人は髪のなかの汗もふき取る。
「えーと、十分一五ぐらいだったかな?」
 汗を拭く手が、固まってしまった。
 うちの女子の、誰よりも速い。真人自身のベストにも、あと三十秒に迫るタイムだった。
「ますますわからん。お前、どうしてうちに来たんだ」
「近いからです」
「は?」
「薫城は電車で一時間半かかるんです。薫城には寮もないし――子どもは親のもとでなければうんたらかんたらっていう変な教えがあるんですよ、あそこ。それでどうしても、一日で三時間、走れない時間ができちゃう。だから家から近いホノキタに来たんです。薫城の監督には引き止められましたけど。はははっ」
 あっけらかんと、武宮は言う。真人はめまいを感じた。近いからって、薫城で目いっぱい陸上に打ちこんでいた人間がこんなところに来るのはやはり変だ。
「こことあっちじゃ、全然環境が違いすぎるだろ。お前は記録のために走ってるんだろ。ならあっちのほうが」
「走るのが好きだから走ってるんですよ。あたし。走ってるときだけしか見えない世界が好きだから、走ってるんです。もちろん、記録は伸びたほうが嬉しいですけど。走るだけですから、どこでだってできるんです」
 ドリンクをあおっていた真人は、口から吹きこぼしそうになった。他人の口から、自分の目的と似たフレーズを聞かされるなんて。
 まじまじと、真人は武宮を見る。張りだした胸に一瞬目がいきかけるがそれを堪えて、目を合わせる。目のどこにも曇りはない。ほんとの本気で、武宮はあんなことを言ったのだ。
 武宮はきょとんとした顔をしていたが、ふと、真人が持っているものに気がついた。
「あ、先輩。ドリンクいただけますか?」
「ん? え、あああ」
 武宮のお願いに、動揺したまま真人は応えた。ボトルを渡す。
「あ。でも、コップがないな。誰かから借りてくるか」
 真人はベンチから立ち上がりかけた。
「いいですよそんな気にしなくて。そのままいただきますから」
 そして武宮は、臆することもなく直にボトルに口をつけて、飲んだ。
 さっきまで真人も直にドリンクを飲んでいたので、すなわちこれはつまり――
「あー。生き返りますね。どうもありがとうございました」
 なにも感じることなどないのか、武宮は普通の顔でボトルを返してきた。中途半端に浮かせていた腰を、真人は落とす。
 真人の鼓動が早まったのは、走り終えたせいばかりではなかった。武宮のほうをもう真人は見れない。
「やっぱり、誰かと走るっていいですよね。春休み中はずっとひとりで走ってましたから。今日は先輩のおかげで楽しめました」
「そ、そうか。よかったな」
「走ってると、聞こえてくる音が少なくなってきて――逆に、一緒に走っている相手のことが、すごくよく伝わってくるんですよ。その人が負けるかあーって意地を出しているのが伝わってきたら、こっちもこのやろーって、燃えてきたりして。それが好きなんです」
 武宮の言葉に、真人は混乱する。
 聞こえる音が少なくなる、というところまで同じなのに、武宮は相手の音を聞くのが好きだという。どうして、そんな違いができてしまうんだろう。
 相手を感じて走る。そういう走りかたも世の中にあってもおかしくはない。武宮がそれを好きだっていうのも構わない。
 けどこれまで、真人は誰と併走しても、相手の音を感じたことはなかった。どんなに近くにいても、自分以外の音は聞こえてこなかった。
 なんで、武宮に限ってそれを感じてしまったのだろう。
 しかも自分は、武宮の音を途中から楽しんでいた。必死に喰らいついてくる相手の走りに、どこまでくる、どこまでくる? とわくわくしていたのだ。
 そんなこと、いままでなかったのに。
 人と走っても、ちっとも面白くなんかなかったのに。なんで……
 風のように、真人の心のなかを動揺が吹き抜けていく。心のなかに積み上げてあったものが、風にがたがたと震えている。そのなかを、答えを探して真人はさまよう。
 考えながら、手にまだ持ったままだったドリンクボトルを見た。――真人のなかにある仮説が浮かんだ。が、即座に真人はそれを否定する。走ることに、そんな感情が混ざってしまうなんて、不純もいいところだ。武宮が女じゃなかったら、相手の音を感じることもなかったってのか。
「先輩、まだ時間ありますよね。もう二十周ぐらい走りませんか? 今度はもっとさっきより楽に流して」
 武宮がベンチから立ち上がって、真人を誘ってきた。せっかく“感情”を否定したそばから、目の前に武宮の胸が現れる。真人の心はぐちゃぐちゃに乱れてしまう。
「いいぜ。ついてこれるもんならついてきな」
 ボトルとタオルをカバンに放りこんで、真人はやけくそ気味にコースに駆け出した。
「だからそういうのは、今度はナシですって!」
 武宮が抗議しながら、あとからついてくる。またあの音を感じられるのかと、真人の心のどこかにいるものが喜び騒いでいる。
 自分で自分のことがわからないことにいらだちを感じながら、真人は感情そのままを地面にぶつけ、大きく加速した。