UNKNOWN

 里美がマンションの三階にある家に着くと、ドアの前に花束が置いてあった。見事な赤いバラだった。
 ――?
 心当たりがない。
 ……疲れのせいで幻覚を見ているんだろうか。
 たしか今日は、鞄を落として困っていたお爺さんを手伝って一緒に探しまわって、その後は駅で体調を崩した女の人の介抱をした。
 損な性格ね、とか人によく言われる。知らない人によくそんなに関われるね、とも。
 でも、人が困っているのを見ると、どうしても助けてしまうのだ。そうしないと、逆に心が疲れてしまいそうな気がして……
 そんなことだから、疲れのせいで幻覚を見ているのかと、里美は思ったのだ。
 しかし、それならこの甘い香りは――?
 手を伸ばしてみる。
 掴んでみる。
 確かな茎の感触。
 ……。
 少し考えてから、里美はおもむろに花束を小脇に抱えた。
 そして、ドアに鍵を差し込もうとする。
「それ、持って入るんですか?」
 不意に、廊下の奥から声がした。奥は照明が切れかかっていて、暗い陰になっている。
 陰から現れたのは茶髪の少年だった。黒目がちの大きな瞳で、こちらを見ている。
「え、ええ」
 戸惑いながら、里美は答えた。
 ――誰だろう、この人……?
 里美はじっと彼のことを観察する。
 柔らかそうな撥ねっ毛に、不健康そうな白い肌。出てきてからずっと微笑みを浮かべている。幼ない印象を受ける中性的な顔だち。
 着ているジャケットは、濃い茶……一瞬、それが血の色に見えて、里美は慌てて頭を振った。よく見ればチョコレート色じゃないか。
「誰が置いていったのか、わからないんですよ。気持ち悪いでしょう?」
 少年は、里美の視線を気にしている様子はない。
「……ううん。でも、これを置いてった人が悪い人だとしても、お花に罪はないでしょう? こんなに一生懸命咲いてるのに、捨てるなんて……」
「この花束が、誰かが怨念をこめたものだったとしても?」
 少年は微笑みを崩すことなく、続ける。
「お花だって、好きで怨念とか、こめられたわけじゃないわ。だから元々の気持ちだって――綺麗に咲きたいって願う気持ちだって、残ってると思うの。だったら、私はその気持ちを信じたい」
「……強いんですね」
 少年は息を漏らすと、笑みを深くした。煙のような息がその笑みを覆う。
 ――何が強いんだろ?
 里美は首を傾げ……そこで、肝心なことを聞き忘れていたことに気づいた。
「あなた……誰? ずっとあそこにいたの?」
「ただの通行人ですよ。お気遣いなく」
 そう言って、少年は里美の脇を通り、階段の方へ行こうとした。
「寒かったでしょ。ウチで温かいものでも飲んでく? すぐ用意するから」
「――いいんですか?」
 初めて、少年の顔が笑みから外れた。口をぽかんと開けている。
「だって、あなた見るからに寒そうなんだもの。顔色悪いし――」
「そうじゃなくて、こんな見ず知らずの男を家に上げていいんですか? 羊に化けた狼かもしれませんよ、僕は。それからこの顔色は地です」
 再び、少年の顔に笑みが戻る。
 里美もつられて、笑った。
「自分からそんなこと言う人は、何もしないわよ。ふふ」
 そして、持ったままだった鍵を、鍵穴へ差し込む。
 と――
「わかりました」
 背中の空気が、がらっと変わった。悪寒のようなものを感じ、里美は振り返る。
 そこには、相も変わらず笑顔の少年がいた。しかし、その纏っている雰囲気に、さっきまであった柔らかさのかけらも――
「あなたの強さは、僕らの妨げになる」
 突然、花束が震え――次の瞬間、里美は花に顔を掴まれた。
「ひっ――」
 里美は引きつった声を漏らす。
 花束はもう、バラの花束ではなかった。同じ赤の花束ではあったが、それは血まみれの、無数の掌たちだった。
 顔から必死で引きはがそうとする。しかし花たちは、蠢きあって里美の顔面にくまなく取りつき、強い力で引っ張り続ける。血でぬめっているはずなのに、しっかりとした力で引っ張られる。
 そして里美は見てしまった。
 花たちが自分を引き込もうとしている空間――包み紙の奥。そこが深い暗黒になっているのを。
 底のない、永遠に落ち続けるかのような深淵が広がっているのを。
「やっ、や――」
 とうとう、里美の足が地面から浮いた。必死で足をばたつかせ抵抗する。
 暗闇の淵に手をかけようとして、紙が破れる。破れても破れても闇はなくならない。
 そこからは一息だった。
「――――!」
 悲鳴とともに、里美の体は闇に取り込まれた。


 地面に転がる包み紙を拾い上げると、少年はそれを細かく破りはじめた。
 そしてそれを乗せた手を、手すりの向こうへ伸ばす。
 風に舞い上げられたそれは、散り散りになって街の夜景に混じっていった。
「……あなたのような、相手のことを素直に信じられる強さを持った人は、僕らにとって邪魔なんです。人は疑いの心を持つからこそ恐れを持ち、恐れの心が『未知なる闇』の領域を保たせる…………」
 空気に掻き消えてしまいそうな声でそう呟いた少年は、再び廊下の奥へ向かい――闇に溶けていった。