滅びゆく街のなかで

 ――まったく、レムのやつ、どこに行ったんだ……
 心の中でぼやきながら、僕はシティ中枢の機関部区画を急いでいた。薄ぼんやりとした明かりに照らされた通路は、右に左に別れ道を生み出しながら、奥へ奥へと伸びている。こんなところまで来たのは久しぶりだ。
 いくつものシャッターの前を、僕は過ぎていく。
 どのシャッターも、もう二度と開けられる事はない。まじまじと見つめていると、まるでシャッターが、自分の事を忘れるなと叫んでるような気がしてきた。目を逸らす。
 レム――僕のたった一人の家族。七つ離れてる。血は繋がってないけど、妹だと僕は思ってる。
 僕の両親は八年前に、僕の育ての親であるレムの両親も、三年前に天国へ旅立っていった。幼い僕らを置いて、親達は天国からの使いに従ってしまったのだ。
 先に死ぬ方は気楽なもんだよな、と思う。シティの気圧のせいで、早くに死ぬ事が避けられない運命だとわかっていても。
 残された人間の寂しさなんて、もう関係なくなるんだから。
 シティ。世界で初めて深海に作られた街。ほんとはもっと長い名前らしいけど僕は覚えてない。
 六十年前。気圧調整機の故障がわかってから、シティはおかしくなった。
 そのずっと前から機械は故障していたらしい。
 人の知らない間に、周囲からの影響による高圧化は進んでいた。
 気がついた時には、シティの人間はその空気に適応し過ぎて、地上の低い気圧では生きられない体になっていた。
 地上の人間は、異常を持った街をなんとかする事に価値を感じなかったらしい。援助は、いっさい行われなかった。
 さらに、高い気圧が体にかける負担は大きく――今は、僕とレムの二人だけが、このシティに暮らしている。
 レムはかわいい。何かあると、黒くてまっすぐな髪を躍らせながら、大きな瞳をくりくりさせて、僕のところに駆け寄ってくる。笑っているレムは特にかわいい。
 そのレムが、さっきから見あたらない。レムの姿がどこにもない。
 ――ちくしょ……どこだよ、どこだ……
 レムがいなくなったら僕はひとりだ。そんなのは嫌だ。耐えられない。ひとりは怖い。怖い。怖い――
 と、そのとき、壁際の地面に何かあるのを見つけた。
 箱だ。僕の膝ぐらいまである。
 箱がぴったりと身を寄せている壁、その上のほうに、備えつけの梯子があった。見上げてみる。梯子は穴に飲まれていて、その先は暗くて見えない。こんな梯子があるなんて今まで知らなかった。
 ――まさか……
 僕は梯子に手をかけると、そこを登りだした。


 穴の出口から顔を出すと、そこは、真っ暗な空間だった。誰かの息遣いが聞こえる。
「レム?」
 僕は穴から体を全部出して、気配のする方へ寄っていく。
「……ジャン兄ちゃん?」
 応えたレムの声は、鼻声だった。
 僕はほっとして、息を漏らす。
 闇の中で手を動かして、レムの姿を探す。天井がやけに低い。半球状になっているみたいだ。
 やがて、暖かな感触が、指先に触れた。
「どうしたの、そんなに泣いて」
 レムの隣に、僕は並んで座る。
「……あたし、いつかはここでひとりになっちゃうの? ここから出られないんでしょ?」
「それ、どこで――」
「資料室」
「……」
 僕は言葉を失った。今までレムの目にそういうものが入らないように注意してたんだけど……
「あたし、怖い。ひとりはいや。兄ちゃんが死んじゃうのもいや。ねえ、怖いよ、怖いよ兄ちゃん……」
 嗚咽が聞こえてくる。レムが僕に体を預けてきた。肌から、震えているのが伝わってくる。
 僕はそんなレムの体をぎゅっと抱き締めた。
「まだ、ずいぶん先のことだよ、レム。今すぐ、僕が死ぬわけじゃない」
「でも、でも」
「わかった。じゃあ約束するよ。僕はレムが死ぬまで死なない」
「――ほんとに?」
「ああ」
「絶対だよ? 絶対、絶対、だよ?」
「ああ。絶対、だ」
 ――怖いのは、レムだけじゃないんだ。
「だから……帰ろう、レム」
「うん」
 と、今来た穴がどこかわからない。僕は四つん這いになって、手をあちこち動かす。
 急に明るくなった。
 何かのボタンに触ってしまったらしい。まあおかげで助かったからいいけど。
 顔を上げて、穴まで行こうとして――
 僕は息を飲んだ。
 僕らの周り一面、見渡す限りに、たくさんの白いかたまりが降っていたのだ。
 半球状の透明な天井の向こうに広がる暗黒。その暗黒に降る白い何か――確か、マリンスノーって言うはずだ。地上に降る雪に似ているから、そう名づけられたとか……
 光を得た深海の中で、その光を楽しむように、ゆらゆら揺れている。
「きれい……」
「これが、雪……」
 僕らは見とれて、言葉を漏らす。色んな大きさや形のマリンスノーが、すぐそばを通り過ぎていく。
「これが見られるんだから、ここもそんなに悪くないよな?」
「うん」
 ようやく笑顔を取り戻したレムと一緒に、僕はしばらくその光景を見つめ続けていた。