苛め自殺流行のなか、かつての自分/いまの自分を省みて、いろいろ考える。
 こうした事件が起こると必ず出てくる論調として、「強くなれ」というものがある。あるいは「鍛えろ」とか。「弱い」から苛められるのであって、それを打破するには「強く」なるのが一番の近道だと。苛めるバカどもはいくらでもわいてくるのだから、自己を変えないと根本的解決にならないとか。
 だけど……オッサンになったいま、そしてワナビとなったいま、あらためて考えたい。


 「弱い」ということはそんなにいけないことなのか?


 自然界なら、その理屈は正しい。弱肉強食、弱きは淘汰され、強い者のみが生き残り繁栄していく。種それ自体を残していかなければならないという使命のためには、それがベストな方法であることは言うまでもない。
 だけど、人間もそれと同じでいいのだろうか。
 人類が凡百の動物から抜けだして万物の霊長として繁栄してこれたのは、弱きを支え助けあって生きていく懐の深さがあったからこそじゃないんだろうか。そしてその差異こそにまた、人類の霊長としての矜持があったんじゃないだろうか。
 オイラは現時点で、そういうふうに考えている。弱きは虐げられても仕方がないという論理には賛同しかねる。


 だけども。ここでまた考えないといけないのは。現状の社会においては、「弱きは強くならなければならない」という思想が大多数の人たちによって支持されているということだ。かつてのオイラもそう思っていた。だから自分の弱さを嫌悪し、いつも自分に自信を持っていなかった。
 多くの弱者たちはおそらく、そうした価値観をいまも信じていて。弱い自分を否定し続けているはずだ。
 エンタメ作家というのはコンセンサスに敏感でないといけないので、多数がそのような価値観を信じているならば、それに沿ってキャラクタの感情を構成しなければならない。もちろんコンセンサスをひっくり返して書くこともできるが、それには「逆の価値観」でなければならない確固とした理屈の構築が、読み手を納得させられる理屈が必要になってくる。難易度は断然違ってくる。
 コストをかけられるポイントの数というのは限られているわけで……となると、ときにはこういうポイントはスルーしてしまって、そのまま世間に合わせるかたちにしてしまうこともあるかもしれない。
 でも、その場合も……自分の心を騙して書いたもので、読み手を騙せる(フィクションで楽しませられる)のか、という不安が生じてくる。


 結局のところ、オイラは難しいほうの道をとるか、自分を騙すのを上手させるかしかないらしい。
 雑談終。