話題沸騰のボクシング亀田について少し。下書きなしで雑に書く。といってもヤオとか買収とか取材態度とか相手への敬意とかの話はしませんよ。そんなヨソで語りつくされてるようなことはしてもしょうがない。


 亀田は試合後、「親父のボクシングが世界に通用するって証明できてよかった」と言って号泣した。このシーンはテレビ的にもおいしいと判断されたらしく、何回も各局で流された。まーようするに、親子の美しい絆を示す感動のシーンとして捉えられてるわけです。
 だが一方で、オイラは「怖いなぁ」という目でそのシーンを見ていた。
 あのシーンで感動できるという、その心の根底にあるものは、「親の意志・期待に子が従順であることは美徳である」という思想です。
 いや確かに、親の期待に応えれば親は喜ぶし、単純に考えれば喜んでくれる=親孝行ということになるわけなんですが。その期待ってのにも、良し悪しがあるというのがオイラの考えでして。
 パッと思いつくのは、先日の奈良の件ですね。医者のお父さんが、息子も医者にしようとしてビシバシやってたら、子どものほうが折れて家に火つけちゃったって事件。まあ他にも医学部受験関連では、オイラは予備校時代、親の期待に原因を持つ多浪地獄の話を講師の方から聞かせていただいたりしています。
 ようするに、世のすべての子どもが、親の望み通りのストーリーを歩めるなんてことはありえないのです。たまたま亀田は運良く(?)、これといった挫折もなく、親父の望みである「世界チャンプ」というところに到達しましたけれども。それは本当に稀有な例で、やっぱり多くの子どもは親の期待をどこかで裏切ってしまうものだと思う。
 裏切る、という表現はあまり適切じゃないかもしれない。だって多くは、努力したけど無理でしたってことが多いんだもの。それは本人が能動的に「裏切」ったわけではないでしょ。ある程度、親の期待に応えたいと思って生きてきて、でもがんばったけど叶いませんでした――という。いわゆる「挫折」ですね。
 その挫折からどれだけリカバーしていくかってことで、人間としての「成長」とかそういうことが果たされていくわけなんですが。なかには「裏切り」の重さに耐え切れず、放火しちゃったり、精神がイカレたりして、再起不能になる子もいます。はたから見てると、そんな期待なんか投げ捨てて生きていけばいい、というように見えるんですけど。当人たちにとってはその期待に応えることこそが「生」であり「セカイ」であったわけですから。長い間柱にしてきたものを簡単に捨てることはできないわけで。
 個人的な意見としては、亀田は今回負けて挫折を感じたほうが、より強いボクサーになれたでしょうね。ただ親父の期待を妄信しているだけでは、心がちゃんとしているとは言えない。中学相撲の有望株でも高校進学するほど、少子化の影響か、世間の教育に対する意識が変わっているなか、中学もロクに行かずボクシングのみやらせてきたあの親父の教育方針に対する客観性を、亀田自身が持つぐらいになければいけないというか。
 亀田を見ていると、「親孝行の美徳」観の前に踊らされている、自分で考えることのできない子ども、という感じがします。周囲の期待の「プレッシャー」に耐えてまかりなりにもココ(世界戦で12ラウンド無事立ってられるところ)まで来たことはかなりスゴいとは思うんですけど。逆に言えば、破滅の風船がより大きく膨らんだ、という気もします。いずれ亀田も負ける日は来るんです。そのとき、昨日以上に膨れあがった風船は盛大に弾けて、亀田はものすごい挫折感を味わうことでしょう。挫折を味わったことのない亀田が、その衝撃を受けてどれほど平気でいられるか……人事ながら不安です。彼ほど「親の期待や意志」を「セカイの柱」にしている存在はいませんからね。


 少しと言いながらわりと長くなりましたが、というわけで皆さんは親の期待に100%応えようとしないでください。ほとんどの人間にはできませんから。世のなかの子どもの半分は、親より劣化してるんです。親が出来たことが出来なくなってるんです。そうでないと、ずっと過去から世代を更新してきた現在、この世は天才だらけになってるはずですから。期待に応えるだけが親孝行ではありません。
 親のほうもどうか過剰な期待を持たないでください。苦しむのは子どもです。