気の滅入りそうな事実からとにかく目を逸らして、かろうじて平静を保とうとしている。解決にはもちろんほど遠いのだが、対峙する勇気をそれこそ中身無くなりかけのハミガキ粉チューブのように捻り出さないかぎり出せない愚か者には、そうすることしかできない。


 世のなかにおいて力を持っている価値観として「当たり前」というものがある。例えば、「結婚し、子を成す」こととか、「家庭を持つこと」とか、「ティーンのうちに異性と交際する」こととか、「自分で働いて、自分を養う」こととか、「親不孝をしない」とか、まあおよそあらゆる方面分野において「当たり前」は存在し、ツッコミ不能・無用の価値観として俺たちの前に横たわっている。
 だけど、その「当たり前」ができない人間にとっては、それらが「当たり前」として存在していることが、どれだけのプレッシャーになっていることか。この世には未婚のまま死んだ人間もいるし、異性と交際しないまま死んだ人間もいるし、働くことなく死んだ人間もいる。いるはずなのに、それらは無視できうる誤差・マイノリティとして処理され、「当たり前」の塔は揺るがず崩れない。
 たとえ世のなかの99%の人間がそれをできるからといって、残り1%の人間が同じようにそれをこなせるわけではないのに。そのたった1%を、世の人は認めず、「異常」の烙印を刻みつける。その人にとってはそれがせいいっぱいなのに、「常とは異なる」と宣告してしまう。
 「価値観」は政治とは違う。多数決の論理ではないはずだ。「当たり前」は確かに多数派なのだろうが、全員がそれを達せられるわけではない。そして「達せられない」ということは、個人の要素としてはけっして「達せられた」ことに劣らない。「当たり前」側に属する人間が、属していない人間に対して無理解であったり、軽蔑のまなざしを向けたりすることが今後なくなればいい。そう願いたい。