なぜ新庄のこの時期の引退宣言は批判されるのか。

 引退自体についていろいろ意見もあるみたいですが、まあ俺は引退することについてはなにも反論はないです。どのシーズンで終えるか、ということに関しては、本人が自分の考えで決めるしかないことなので。ボロボロになるまでやるのも美学だし、頂点でやめるのもまた美学。他人がああこう言う話ではないでしょう。
 ただ彼の場合、一度引退宣言を翻した前科(笑)があるからなぁ。俺はなんか、まだまだ曲折があるような気がしてならなかったりする。まあ正式に引退したらタイガースファンとしてなにか書きます。


 でまあ、この件に関して主な批判の対象となっているのが、「シーズン序盤で言うなんておかしいじゃないか」ということだったりする。特に野球解説者――つまり現場を経験してきた人間でこの意見がけっこう多い。
 だが、この早期の引退宣言については、支持する人もいる。例えば欧米のスポーツなどでは、先に宣言してからシーズンに臨むことも珍しくない。そうすることで、観衆も「これが彼のラストシーズン」とわかった上で見るので、より意識して彼のプレーを目に焼きつけることができる。新庄はそのスタイルをとったのだ、と。


 先に立場を表明しておくと、俺個人はシーズン序盤での引退宣言にはやはり違和感があります。というのも、日本人の気質を考えたとき、早期の引退宣言は一義的にはファンのためにはなっても、一方ではファンを裏切ってしまうのではないかと思うのです。つまり、試合自体に悪影響が出てしまうのではないか、ということなんですが。


 日本プロ野球の場合、引退する選手が最後の打席、あるいはマウンドに立った場合、対戦する相手はすることが(暗黙の了解として)決まっています。最後の打席なら、投手は全球ストレートを投げなければならないし、最後のマウンドなら打者は三振してやらなければならない。そうすることが、引退していく選手に対する「敬意」となっている。一般的にこういう行為は、華を持たせる、という言いかたをされています。
 だが見方を変え――単純にものを捉えようとすると、これは勝負に手を抜いているようにも見えます。
(実際問題、わざと三振するというのは他の国でもやっているんだろうか?)


 少し似たケースとして、相撲の話をしましょう。
 相撲では、一度引退を口にすると、そこから先はもう土俵にはあがれない。小錦などはファンサービスとして千秋楽まで取ることを望みましたが、叶わなかった。先場所の魁皇の例などは、本当に特殊です。まああれは、友綱親方が勝手に先走って喋りすぎただけみたいなところもあるんですが。
 このシステムは結局、日本人気質をよくわかっているからこそ出来あがったものだと思う。「潔さ」という側面もあるんだろうけれども。八百長まがいの取り組みを見せるのは失礼、という意識もあったと思う。相撲は基本的に「興行」ですからね。いまでも。
 例えば少し前、琴ノ若が場所中に引退することがありました。彼の引退は義父である師匠の定年にあわせて、というのが規定路線でしたが、彼自身は自身の引退期日について公に口を開くことはなかった。目標として、師匠の引退まで取りたいということは言ってましたが。
 そして師匠の定年日前日。相手は駿傑。もしかしたらこれが最後の相撲なのではないかという空気のうっすら漂うなか、駿傑は立ち合い変化をして、楽々琴ノ若を破った。
 この変化自体はいろいろ批判を集めましたが、しかし一方では、駿傑がガチ相撲を取ったとも言える。もし琴ノ若が先に引退日を表明していたら、駿傑はただの一勝のために変化をしなかったでしょう。あそこで変化をしたのは、ガチで勝ち星を取りにいったからです。


 つまり、引退を宣言するというのは、この国においては勝負の公正性と関わってくるのです。
 そしてそのことを、一定の数の日本人は、意識する/しないに関わらず感じている。松永幹夫のラスト重賞でも、八百長だと疑いを持つ人間がネット上にいたのですから。
 だからシーズン序盤に宣言するというのは、勝負――試合に影響を及ぼすのではないかと、思うのですよ。相手投手のピッチングに影響が出たりとか。
 そういう意味で俺は違和感を感じているし、評論家も批判しているのでしょう。