「『かもしれない』の森を行く」 11枚*1

「荷多取、それお前のだろ。ゴミ箱のなかにまぎれこんでたから拾っておいたぞ」
 千条亜理沙は新聞を顔前に広げたまま、部室に入ってきた相手にそう告げた。備品のパイプ椅子に、足を組んで座っている。スカートから膝がこぼれ、腿の生白さが覗いている。
 その千条の前、部屋の真ん中に鎮座する長机の上には、カッターナイフが置かれていた。縦長の机をふたつ並べてテーブルのようにしているのだが、そのど真ん中、机の境目を跨ぐようにしてカッターナイフは横たえられている。
 言われた荷多取進は血相を変えて机に詰め寄り、しかしカッターナイフには手を伸ばさなかった。
「なんで勝手に拾うんだよ。まぎれてたんじゃない、俺が捨てたんだ」
「まだ十分刃があるのに。もったいないって」
「だから要らないんだって!」
 そこでようやく、荷多取はカッターナイフを取り上げた。
 間髪入れずそのまま、文芸部と書かれたゴミ箱の底へ叩きつける。
「なにをカリカリしてんだよ……ったく」
 千条は新聞を開いたまま机に置くと、立ち上がって、ゴミ箱に近づいた。腰を折って、そこに手を突っ込ませる。長い髪が、顔を覆うように流れて地面を擦る。
「悩みでもあるのか? 相談に乗ってやってもいいけど。せっかくふたりしかいない部なんだしさ。あ、これ要らないってんならもらっていいか?」
 カッターナイフを顔の前で振って、千条は確認を取る。
 だが、荷多取は目をうつむけるだけだった。拳を固くして、ブレザーの袖を握り締めて。
「荷多取?」
「千条。俺、今日はこれを出しにきたんだ」
 ようやく口を開いた荷多取は、ポケットから白い紙を取り出した。千条の目が動いて、そこに書かれている文字をなぞる。
「退、部……届」
「一応、お前が部長だろ。先生の承認はまだだけど、部長の承認もないといけないらしいから。だから先に」
「バカかお前。ふたりしかいない部が、これ以上減らしてどうすんだよ」
 取り合う気にもなれないとばかりに、千条は踵を返した。席に戻って、再び活字に目を落とす。
「だいたいお前、一週間前まで部誌の話してたよな。今度はすごいのが書けそうだって。――なんか理由があるんだろ。言ってみろよ。事情によっちゃあ承認してやるから」
「千条には関係ない」
 小さな声で、荷多取は千条を拒んだ。
「関係ない、って言うことはやっぱりなんかあるんだな」
 だがそれで引き下がる千条でもない。わずかに見えた言葉の隙を掴んで、問い詰める。
 荷多取は答えず、退部届を机に置くと、身を翻した。
 その荷多取の頬のすぐ横を、なにかが駆け抜けた。
 ――ガンッ!
 ソレはそのままドアにぶち当たって、床に落ちる。
 カッターナイフだった。
「ふざけんなよ。言うまで絶対帰さない」
 険しい表情で、千条は荷多取を睨みつけている。
 荷多取は屈んで、足もとに転がるカッターナイフを拾い上げた。
 そして刃を、キチキチキチと親指で押し出す。
「千条には、見えたことがないだろ」
「なにが」
「鉛色の表面に、赤がかぶって見えることがあるんだ。もちろん本当にはついてないんだけど」
 話しながら、荷多取は親指を前後に動かす。つれて刃が、長く短く変化する。キチキチキチキチ、カチカチカチカチ――
「本当にはついてないんなら、それでいいじゃんか」
「それだけじゃない。ときどき……本当にときどきだけど。夢に、出てくるんだ。俺の目の前が、真っ赤に染まっていて。その赤の中に、人が」
 そこで荷多取は、言葉を呑みこんだ。カッターの音が止まる。いっさい千条の顔を見ず、壁を見て立ち尽くしている。
「夢の中でくらい、人殺してもいいんじゃないの? 罪でもないし、誰かに責められるわけじゃないし。お前も神経質なやつだな。十四年もそれで生きてきて、よく胃がもってるな」
 おどけた言葉を、千条は声に乗せる。だが荷多取は変わらない。
「何回も見れば、疑いたくもなるさ。ましてや、倒れている人間がいつも同じ人なら……」
 いよいよ、荷多取の唇が震えだした。頬にも顎にも、震えは伝播していく。カッターナイフが握り締められて、右拳のなかに埋まっていく。
潜在的に、その人に殺意を持ってるんじゃないかって、思って怖がってるのか。でもそれのどこが、部をやめることと結びつくんだよ」
 わからない、という顔をして、千条は顎に手をやる。目は真剣だが、手つきには余裕がある。
「――千条」
 荷多取は、長く深い息を吐いた。
「お前の鈍さに、いま俺は、怒ってもいいのか。それとも感謝しなくちゃいけないのか」
「は……」
 一瞬、千条の表情が呆けたものになった。口がだらしなく開いて、目も丸くなって。顔面の筋肉がすべて緩くなった。
 しかしそれは、本当に一瞬のことだった。
「荷多取、お前それやっぱり神経質すぎ」
 千条は口だけ微笑を作りながら、まっすぐな目で荷多取を見据えた。
「神経質なもんか。俺はお前を、いつか殺してしまうかもしれないって」
「『かもしれない』はしょせん、『かもしれない』だろ。絶対だと思ってたものが崩れることだってあるし、その逆もある。自分で勝手に決めつけて怖がってたって、結果は関係なく起こるんだよ。だいたいそんなこと言いだしたら、お前は頭ん中に浮かんだ全部の『かもしれない』に、心配ばっかしてんのか?」
「千条は、あの夢を見たことがないからそう言えるんだ」
 荷多取は、カッターナイフのお尻を机に着けると、そこで手を広げた。音を立てて、前のめりにカッターナイフは倒れる。
「じゃあ……もしあたしが『かもしれない』は『かもしれない』でしかないって証明することができたら、お前部に残るか?」
 そこで唐突に、千条はそんなことを切りだした。
 新聞を捲って、社会面を広げる。向きを入れ替えて、荷多取から見やすいようにする。
「この事件。隣の市で起きた殺人事件。中一の女の子の首が、校門にさらされてた事件」
 そう詳しく言われずとも、荷多取はすでに十分、事件のことは知っている。ここ数週間、ニュースやワイドショーの主役を張り続けてきた事件だ。嫌でも頭に入る。
「これの犯人、二十代の男だろうって言われてるよね。偉そうなオジサンが何人も出てきてさ、プロファイリングだとかなんとか言っちゃって。サカキバラの模倣がどうとか、世代の影響だとか。怪しい車の目撃談まで出てる」
 それも知っている。荷多取はうなずいて、続きを促す。
「この事件の、この犯人の『かもしれない』が外れたら――もうどうでもいい心配なんかするな。それで部に残れ」
 有無を言わせぬ口調で、千条は荷多取に命じた。
 なにがそこまで千条に言いきらせるのか。荷多取は疑問を感じながらも、その日はあらためて問うことができなかった。


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 そして荷多取は、自分の行動を激しく後悔した。


 翌々日、日曜の夕刻。速報のテロップは、十六歳の少年逮捕の事実をけたたましく伝えた。クイズ番組はすぐに特番のニュースに変わり、警察署の前からレポーターは早口で同じことを何度も繰り返した。
 さすがに驚いて、荷多取は千条に電話をかけた。
 呼び出し音がずっと、鳴り続けるだけだった。
 ――犯人の少年が千条の兄だと知るのは、翌日、学校に着いてからだった。


 かつて千条が住んでいた家の前に、荷多取は立っていた。
 世間は狭い。マスコミが『A少年』と報道をしたところで、地域にはなんの意味ももたらさない。どこの誰なのか、知ることは極めて容易だ。
 千条の家族は、町を去った。まだ門には表札が残っている。外す暇もない慌しさで、出て行ったのだろう。
 荷多取は家を見上げる。千条はすべてを知っていた上で、荷多取にあんな投げかけをした。どんな気持ちでいたのか、荷多取には想像もつかない。むしろ考えを及ばせることは、千条に対して失礼な気がした。
「結果は関係なく起こる、か」
 思い出しながら、荷多取はつぶやく。『かもしれない』はしょせん、『かもしれない』。いかに強くそうなると信じていたところで、あるいはならないと思い込んでいたところで、結末には影響しない――例えそれが、理不尽だとしても。
 荷多取は家に背を向けた。それから一度も振り返らずに、路地をあとにした。