兄妹日和 その2

 ドアを開けた瞬間から、そこは白崎航ワールドだった。
 まず、においからして違った。なんと言えばいいのだろう。10代の男子特有の、重量感のあるにおい。それが部屋じゅうに満ち満ちている。
 まなみは入口で、完全に圧倒されてしまった。鼻がひくひくとうごめく。鼓動が速まる。頭がぼーっとしてくる。
 ……我に返るまで、3分近く消費した。
 頭を振って、まなみは前進する。遅れを取り戻さなければならない。
 部屋の広さは5畳。まなみのより半畳だけ広い。南側の、床から天井近くまである大きな窓は、庭に通じている。庭にある物置が、ここからはよく見える。
 その窓の前には、パソコンラックが。そしてもちろんパソコンもある。友だちから調子の悪いパソコンを譲ってもらって、自分で直したらしい。
 パソコンラックを囲むのは、ふたつの本棚。難しそうな本から、まなみでも知っているマンガまで並んでいる。そしてこの本棚とラックの狭い谷間に布団を敷いて、航はいつも寝ている。
 まなみは迷わず、パソコンの電源を入れた。
 11歳の知識を、なめてはいけない。いまはインターネットでエッチなものをいっぱい手に入れることができることぐらい、まなみとて友だちから聞いて知っている。確か「ういにー」とかなんとか、そういうやつだ。
 このパソコンは、航専用。そして両親は、そもそもパソコンが得意ではない。入手したあとで、こそこそ隠さなくてもいい条件が整っているのだ。
 やがてモニタに、スタートの画面が映った。無地の深緑色の壁紙に、フォルダが3つほど置いてある。ごみ箱と、ネットとメールのやつだけ。
 マウスを握ったまま、まなみは手を止めて、考えこんだ。少々、予想を裏切られたかたちだ。いや。むこうもそこまで無警戒ではなかったと言うべきか。
 とりあえず、まなみは学校の授業で使ったことのある、eの字のフォルダをダブルクリックした。ブラウザが、モニタいっぱいに広がる。
 そこには、妙な日記があった。


【ちょっとちょっと。あんたなんだか、いつにも増して元気ないわね】
『おお、わかってくれるか』
【一応、あんたの脳内に住んでますので(爆)】
『……実はな、リアル妹にあらぬ疑いをかけられているのだ。親切心のつもりでぱんつ畳んだら、ヤツめ、烈火のごとくブチキレですよ。挙句の果てにはヘンタイよばわりまでしてきて』
【あら、全部正解じゃない。あんたの妹にしてはなかなか見る目あるわね】
『待ていコラァ(笑)』


 ……………………。
 これは、なんと言ったらいいのだろう。
 書いてある説明をそのまま信じれば、航と、航の脳内にいるという「リィン」という女の対話日記、ということになるんだろうが。
 それにしたって、しかし。
「き、きもっ……」
 まなみは思わず、言葉を漏らした。体に、鳥肌が立ってくる。
 ヤバい。エロとは違う方向性だけど、生理的にヤバい。マヨネーズご飯と同じくらい、受けつけない。えまーじぇんしーえまーじぇんしー。
 まなみは、シャットダウンをクリックした。モニタの横にあるタワーがガリガリと音を上げる。まだまだパソコンのなかで探せるところはいっぱいあったが、これ以上続けるのはまなみが持たなかった。いったん撤退して、落ち着いてからまたトライすればいい。
 弱味を握るだけならこれでよかったのだけれど。まなみの目的はあくまでエロの証拠だ。脳内彼女との対話は、直接エロとは結びつかない。書いてある内容も、残念ながらそんなにヒワイではなかった。
 次に怪しいスポット、押入を、まなみは開ける。
 航のにおいが、さらに濃密になった。
 原因は、押入の上の段にででんと横たわっている、布団。
 ふらふらと誘われるように、まなみはその布団に頭を預ける。息をするたびに、また頭がぼーっとしてくる。そんなにいいにおいでもないのに、むしろ臭いくらいなのに、なぜだか航のにおいはまなみをふにゃふにゃにしてしまう。
 意識を取り戻したのは、視線が陰に潜むいかにもなダンボールを捉えたおかげだった。まなみはふすまを、布団の側に移動させる。
 押入上段、布団とは反対側の隅。そこに、ダンボールがあった。側面にある「有田みかん」というひらがながすでに滑稽に見える。
 まなみは身を乗り出して、そのダンボールを手もとへ引っ張った。案外軽い。ガムテープでしっかりと上は閉じられている。畳の上で調査しようと思って、ダンボールを持ち上げる。
 その瞬間。まなみの足が、滑った。
 お尻から、地面に激突する。
 そして、ダンボールは。まなみの手を離れて、天井へ、空中散歩。
 散歩のゴールは、パソコンラックの角だった。
 角との戦いに、ダンボール将軍はあっさり敗北した。具体的に言えば、破れて穴が開いた。敗れて破れた。ハラキリならぬ、ハラ破れ。
 中身のガラクタが、いくつか、畳にこぼれ落ちていく。パソコンの中身だか部品みたいなものやら、金属片やら。
 まなみは即座に、落ちたものを拾った。たったいまできたばかりの穴にそれを戻していく。
 破れてしまったものはしょうがない。破れ口を壁にくっつけてしまえば、何日かはそれでやり過ごせるはず――
 ――――キキッ
 自転車のブレーキ音が、近くで鳴った。続いて、ペダルの回転する音。スタンドを立てる音。
 航が、帰ってきた。
 まさか、こんなに早く帰ってくるとは。まだ出てから、30分もたっていないのに。
 まなみは下を見る。こぼれ落ちたものの量、それから押入までの距離、重さを、さぁっと目で計る。
 航がここに来るまでに状況を整えるのは、完全に不可能だった。
 自分の計画の浅はかさを、まなみは呪った。しかし白旗をあげるつもりはなかった。奇襲がダメなら、正面からやりあうだけである。