兄妹日和 その1

 白崎まなみは、荒れていた。
 ばたーん、ばたーん、と足音をたてて、大またで歩いている。一歩ごとに、背中のランドセルが大きく揺れる。ランドセルにぶら下がっているうがい用のコップは、もっと激しく揺れている。
 向かっているのは、自分の家。
 というより、いまは下校中と言うほうがわかりやすいかもしれない。
 たまたま近くに転がっていた小石を、まなみはかつーんと蹴っ飛ばす。あわれ小石は壁にぶち当たったあと、排水溝の奈落へと呑みこまれていった。
 ……話は、つい三日ほど前にさかのぼる。
 法事のために両親が帰省したこともあって、その日は朝から、家にはまなみと航、兄妹ふたりしかいなかった。そしてまなみは、友だちと約束があったので、ひとりで家を出た。
 帰ってきたのは、夕飯前。玄関を開けると、香ばしいにおいがした。
「ただいまー……っておにいちゃん、なに作ったの?」
「先に手洗ってこいよ。どうせ外で転んで手をついただろ」
 まなみと血が繋がっているとは思えないほど、航はなにごとにも器用だ。男女逆ならちょうどよかったのに、とは口さがない叔母の弁。しかしどんくさい男というのも女と同じように役に立たないと思うのだが。
「あーそうそう、あとそこに洗濯物たたんであるから。もってけよ」
 言われてまなみは、視線を居間のソファに向ける。
 たたんだ洗濯物の山の頂上。そこに、まなみのパンツがあった。それもご丁寧に、ぴちっと小さく折りたたまれた状態で。
 まなみは当然抗議した。おにいちゃん、なんであたしのパンツ触ったの! と。人生ではじめて、羞恥と怒りを同時に体験した。
 それに対して、航はなんと言ったか。
 まず、大笑いした。
 それから、「世界のどこに、妹の下着を恥ずかしがる兄がいるのか」と主張した。
 正論である。これ以上ないくらい正論である。スリランカ人もびっくりするほどセイロンである。というか、妹の下着で恥ずかしがってる兄はちょっとヤバい。
 しかし、その正論と航がイコールであるという証明は、どこにあるだろう? 航の言ったことは、しょせん一般論である。世間一般の兄はそうであるというだけだ。もしかしたら、白崎航という人間は、妹のパンツをたたむ瞬間、欲情していたかもしれないのだ。
 それに、まなみの気持ちはどうなる。仮にもおたがい、若い男女である。11歳と16歳という年の開きはあるが、十分若い男女である。
 若い女性の下着を、若い男性が堂々と触っていて。それでいいのだろうか。
 まなみにとって、それはよろしくなかった。たとえ実の兄でも、よろしくなかった。理屈の問題ではなく、感覚の問題だった。
 しかし航は、まなみが必死に抗議すればするほど、笑ったのである。
 これ以上の屈辱があるだろうか。
 これはもう、戦わなければならない。なんとしても、あの兄のエロさを証明しなければ。もしなんらかの証拠が見つかれば、いかな兄とて自分に向けられているエロ疑惑から逃れられないはず。
 そしてそれを試す機会を、まなみは今日、水曜日と定めていた。
 水曜日の午後、航は友だちの親戚だかの店で、頼まれて働いている。なんの店かは知らないけれど。家に帰らず、学校から直接、店に行く。そのときだけは確実に、家をあける。
 つまり、チャンスなのである。
 主のいなくなった部屋に忍びこみ、証拠をつかむ。そのチャンスは、何日もない。今日しかない。
 遠くに、平屋の我が家が見えてきた。高ぶりを抑えきれず、まなみはさらに足を鳴らして、家路を急ぐ。


「なんだよ。人の顔じっと見て」
 はたしてはたして、なんということか。
 航は、家にいた。私服姿で、ソファに寄りかかりながら、お茶を飲んでいた。
「お、おにいちゃん、バイトは? それに、学校」
「ああ、今日休みなんだ。その代わり、明日出るんだけど。学校も創立記念日で休み」
 ランドセルが、肩からずり落ちそうになった。
 なんて、こと。最悪の事象がふたつも重なるとは。
「じゃ、じゃあ、いまから出かける予定とか、ない?」
 言った瞬間、航は怪訝な顔をした。
「まなみお前、なんか俺に隠しごとしてるのか?」
「――してるわけないでしょこのヘンタイ!」
 自分の失敗をごまかす勢いで、まなみは声を張った。顔は完全に紅潮している。
「まだアレ、根に持ってんのかよ……」
 気だるそうに、あるいはあきらめの気分もあるのか。航はうしろ頭を掻きながら立ち上がった。そのまま、まなみの横を通り過ぎていく。
「ちょっと出かけてくる」
「え?」
「べつにお前に言われたからじゃないけどな」
 そして足音は玄関に達して。続いて、ドアの開く音、閉まる音。最後に、自転車のロックの外れる音と、ペダルを踏みこむ音がした。
 自転車で行ったということは、それなりに遠くに行った可能性が高い。
 どうするか。どうすべきか。
 まなみは高揚とリスクを天秤にかけた。もし航がすぐ帰ってきてしまったら、まなみは言い逃れできない。侵入者として個人的な処罰を受けるだろう。
 しかし、そこまでわかっていても……まなみの感情は航を許さなかった。
 なんとしても証拠をつかんで、エロのレッテルを確定させ、パンツの件で謝らせなければ。
 決めたら、実行は早かった。ランドセルを自分の部屋に放り投げると、まなみは航の部屋に突進した。