寝屋川の少年乱入殺傷事件に思うこと。

 ワナビにとって忙しい時期とはいえ、やはり言及しないわけにはいかない。


 いま少しずつ話されてきた犯行動機としては、「小学校当時の担任がいじめを救済してくれなかったから」という怨恨があがってきている。
 しかし少年は実際には、担任とはまったく関係のない3人を襲って刺した。このことは、彼が単なる個人的な、個人に対する恨みで犯行に及んだわけではないことを意味している。
 類推するに、彼のなかで恨みの対象がだんだん移行していったのだろう。いじめを見過ごしていた担任や、いじめを行った本人たちに対するものから、小学校というフィールド、あるいはシステムそのものへと。
 彼が『小学校』を恨んでいたということは、担任にいじめの責任を被せていることから判断できる。ようするに、彼は『小学校』のシステムの力を信じているのだ。校長を頂点とし、そこから末端に至るまでのヒエラルキーの力を。ヒエラルキーの権力構造のもと、教師は生徒に対して責任を負い、ときに権力を行使し、監視管理し統率する存在であると、信じているのである。だから担任を悪いと恨んで刺そうと考えたのだし、システムの構成員/権力側の人間である『教師』を刺せた。直接の怨恨とは無関係である3人を、システムを攻撃するという理由のもとに刺せたのだ。


 個人の事象とシステムの問題を直結して考えてしまうことは、「セカイ系」と同根のものであると思う。主観的個人→客体的他人→総体的システムという繋がりの過程において、中間を飛ばしてしまっている。
 システムという大事象に自分のなにがしかを因果させたいという想いは、かつての俺個人が体験してきたことなので、理解できる。要するに、大事象と自分を直結し並べることで、あたかも自分自身も大事象になったかのような錯覚を体験できるのだ。しかしそれは、いもしない青い鳥を求めるようなものであって、なんら求めている真実・望んでいる解決にいたることはできない。システムも世界もあくまでそれはそれであって、個人を左右する原因にはほとんどならない。個人を左右するものはいつも、必ず地べたの、地続きのところに転がっている。彼のいじめにしたって、やはり原因は直接手を下していた連中に差し向けられるべきものである。
 彼がシステムを恨んだということは、彼にとってシステムという存在が大きかったということでもあるだろう。教師を上位とするシステム構造に、どこか彼自身も依拠してことが考えられる。


 しかしそれは、やはり逆恨みであるとしか言いようがない。
 小学生を6年経験して理解しなければならないことは、小学校というのはシステムの移行期にあるということである。1年生や2年生は、なるほど、自己思考力も足りないし、大人である教師が先導していかなければならないことも多いだろう。
 しかし高学年になると、状況は変わってくる。教師と生徒を中心としたヒエラルキーとはべつに、生徒のなかだけのヒエラルキーができあがってくるのだ。これこそが、日本のいじめの根幹をなすものなのだが、『小学校』というのは実は、大人社会が作るヒエラルキーからの脱却・移行期にあたる。
 移行期において、ふたつの社会は隔絶する。生徒間の問題は教師にほとんど波及しない。いじめの問題でよく教師の目や注意力が問題にされることがあるが、俺の経験から言わせてもらうと、そういうことを問題の遡上に乗せること自体が無意味としか思えない。隔絶した世界のことに、どうして気づけようというのか。
 加害少年である彼がもしそのことに気づけなかったのだとしたら、適応できそこねたのだとしたら、とても哀れで不幸なことだと思う。結局は、自分で発見して適応していかなければならないことなのだけれど。
 まぁ俺を見ればわかるんだけど、あんまり新ヒエラルキーに適応しきれなくても、生き続けるだけなら問題はない。楽しさ全開で生きられないだけで。


 『学校』とは周辺から独立した小世界である。内部のことは、内部にいなければわかりにくい。そしてその内部にはまた、独立したヒエラルキーが、ルールが存在しているのである。
 このような困難なことが、日本各地の学校でいまも続いている。そしてシステムに適応しそこねた人間がまた、システムを恨んでいく。そのうちの何パーセントかが『学校』を攻撃する。
 残念なことだが、校内の生徒だけの独立したヒエラルキーが存在し続ける限り、今回のような凶行はなくならないのではないかと思う。