「教養としての<まんが・アニメ>」(大塚英志+ササキバラ・ゴウ/講談社 isbn:4061495534)

 読了。またまた大塚さん。
 最近は未読の評論を片付けていたりする。大塚さんの評論で未読のやつは、もう手もとに残り一冊しかない。
 ちなみに、大塚さんの文学評論とか憲法評論には興味はございません。サブカルとか消費文化とか、そういうのだけ読んでます。


 本書は、まんが部門を大塚さん、アニメ部門をササキバラさんが担当しておられるのですが、今回はアニメ部門のほうが自分としては為になる話が多かったです。大塚さんの「記号的身体に肉体的リアリズムを宿す」話については、よそで読んだ記憶がありますしね。

 以下、為になったところを箇条書きで、メモ的に書いておきます。




○その1「ミステリーは、空間(世界)が閉じていることを前提にしたドラマ」

 出崎統のジュヴナイル思想にからめて、ちょこっと出てきたのが上の説明です。
 実は俺、なぜメフィストというミステリ雑誌から、ファウストというセカイ系雑誌(と書くと怒る人いるんだろうなぁ)が派生しえたのか――よくわかってなかったのです。ミステリのセカイ系に対する親和性の高さを知らなかったという。
 セカイ系というのは、セカイの認識の幅を狭めさせることで、相対的に世界と個人のかかわりを密にすることだと勝手に解釈しておりますが……なるほど、ミステリにおける「世界」ってけっこう狭いものね。鉢合わせするのはいつも同じ刑事さんだったり。


○その2「キャラクターにドラマ性を内包させる、という手法」

 石ノ森章太郎の作家性に言及する過程で出てきた説明です。
 ようは、キャラクターの設定のなかに、話を牽引するパワーが盛りこまれているということです。キャラクターの力が、そのままドラマの力とイコールになるという。
 ここで言うドラマというのは、特殊な運命だったり能力だったり、そういうものを持っていることであります。運命や能力に対する疑問や思考を拡大させて、物語を形成していくというやりかたを石ノ森章太郎はとっていたとのこと。
 ラノベに限らず、近年のエンタメ界隈はキャラクター至上主義になっておるわけなんですが。キャラ下手なオイラとしては、このへんをなんとか参考にできないかなとか考えます。