靖国で会おうと言って死んでいったのだから、魂は靖国にしかない。新追悼施設なんて作っても意味がない」とは某コメンテーターの某番組での弁ですが。
 死んだら、生きてるときに望んでたところへ行けるかってのは、実際のところ、ほんとにそうなんかはわからへんよね。だってみんな、死んだことあれへんのやし(笑) ただ希望・期待として、自分が死んだときは行きたいところ行けたらいいなっていうもんがあるから、靖国に魂はあるって考えるんやけど。
 この、生者の理屈ってのは万国共通のもんですからね。お墓ってのは洋の東西を問わずあって、みんなそこで故人を悼むんやけど。ほんまに埋葬したとこにまだ魂がおるかはわからへんのよね。でもみんな、そこで悼めば想いが故人に届くって信じてる。
 追悼だけやのうて、祀るってこともそこらへんは同じかもね。天満宮に道真はいないかもしれんし、将門の首塚には違う呪霊がいるかもしらん。関帝廟だってそうや。祀るってのはただ、生きてる人間の側が「いい家(社)こさえましたよ」っていうて、提供しとるだけで。いい家もらったからって住まなあかん道理はないわな。
 A級戦犯含め、靖国には200万柱以上の魂が祀ってあるけど、あれだけ騒がしいと、もうどっかよその静かな家へ行ってるかもわからんね。
 自分の場合、死んだらひとつところに留まらず、世界中を放浪して覗き見しまくりたい(べつにエロいことだけやなくて(笑) ようは行きたくても行けなかった南極とかエリア51とか行きたいってこと)んやけど。やっぱ、死んでも家とかあったほうがええんやろか。