オイラはとかく「空気を読め」「お前じゃま」という類の無言の視線にさらされがちな学生だったので(特に女子からの)、人の顔色には敏感である。というか怖れている。だから、誰かを困らせるようなことはしたくはないなと思っている。ただしその思いは誰かのためでなく、自己保身から来ているものでありますが。
 しかし――それをいつもやり続けることには、どうしても限度があるわけです。人には誰に束縛されるものでもない、自由な自分の意思というものがあるので。
 そこに、対立が起きるわけです。人を困らせるかもしれないという気持ちと、自分のやりたいこととの間に。
 オイラは今回自分を優先した。それはきっと、集団のなかで生きる人類としては誤りなのだと思う。
 でも、あのときはああするしかないと思ったのですよ。向こうからオイラの話したいことを振られた以上。経験上、メールでのやりとりは避けたかったし。


 ……なんかものすごい「言いわけ」らしい「言いわけ」だ。実際これ書いてるのだって、相手の悪い顔色が自分に向けられるのが怖くて書いてるわけだし。動機が不純すぎる。
 我ながら恥ずかしくて頭から穴に埋まりたくなる。
 っていうかいっぺんまきしまお前はしんどけ。萌えないゴミは役に立たない。


 で、それに関連してちょっと思いついたことを整理ぎみに。
 ソーシャルネットワーキングサービス――一番有名なのはmixiですけど、これが隆盛したのって結局、コミュニケーションにおける労力を取っ払いたいということを多くの人が考えてたってことなんじゃないでしょうか。
 招待状システムによって、参加者自信が参加者を選別してるようなもんなんですから。
 選別ってのは、言いかえれば、不要なものを除けていくってことですし。
 コミューンにおける不要なものってのは……コミュニケーションするのに労力を使う人です。電波、荒らし、ネイティヴ日本人なのに日本語が不自由、性格が傲慢すぎ、性格が卑屈すぎ、などなど……あんまり例をあげるのもやめときますが。そうしたヒトビトを排除した上に成り立ってるコミューンが、例えばmixiで。


 んー、だけどね。思うのですよ。それってどうなのよ、と。
 生きていく上では、いろんな嫌な人苦手な人ともつき合っていかなくちゃならん場合もあるんですよ。いかにネットとはいえ、安易にそういう夢の城を築いちゃうのはオイラなんか怖い。


 あれか、もしかして、ネットコミュニケーションは現実コミュニケーションの練習だと思ってるの、オイラだけですか。苦手な人を上手にあしらって、ときには利用できるところだけちゃっかり利用する練習。どうせネットだから、失敗しても関係を切ろうとすれば現実より簡単に切れるし。
 ドライでしょうか。しかしみんなどこかしら、ウェットとドライ両面持ってると思うのですよ。そして使い分けもしてると思うのですよ。こういうドライな考えのときもあるし、逆にネット上で、熱くでウェットに動いてるときだってあるのよ。あんまり多くはないけど。