スクールカースト

 最近「スクールカースト」という単語が、そこここで話題になっているらしい。
 で、あちこち読んでみるかぎり、以前ここでちょっとだけ言及したことのある、「生徒のなかだけのヒエラルキー」と近いものであるらしい。


 カースト、という表現には少々ドキリとさせられる。なぜなら、ヒエラルキーは三角形――つまり上位層が少なく、下位層が多いという構造がほぼ約束されているが、それに対し、カーストというのは必ずしも「上層少>下層多」とはならないのではないか、という感覚を抱かせるからだ。もっとも、俺はカーストの人口構造というものを詳しく知っているわけではないので、もしかしたらカーストでもやっぱり下層人口が多いのかもしれない。このあたり、知ってる人はどうかツッコんでください。
 つまりカーストには、絶対的少数の賎民という存在が生ずる可能性が、あるのではないかということである。いや、実際にキーワード説明を読むと、そういう事態を想定した上で、キーワード作成者はヒエラルキーではなくカーストという単語をチョイスしたのではないかと思われる。
 俺の個人的な体験として、クラスのなかにはやはりそういう、絶対的賎民とでも言うしかない立場の人間はいた。誰からも気持ち悪がられ、軽蔑され、直接イジメという行為が下されていたわけではなかったが、明らかに意図的に疎外させられているようなクラスメイトはいた。そして俺はそれを横目に、いつか自分はああいう立場になってしまうのかもしれないと、ひとりでおびえていた。


 しかし、いま思い出してみても、すべての層が個々で完全に隔絶していた――という感じはまったくしない。もちろん人間なので、すべてのクラスメイトと仲がいいという状態は不可能である。が、まったく交流がないというのはどうにも俺には想像しづらい。体育祭文化祭などのクラス行事ともなれば、ある程度の多層構造は垣間見えたものの、それなりにまとまっていたように思える。
 まあでも「恋愛機会の減少」という項目の存在を見るにつけ、やっぱり俺の学校もカーストに縛られていたところはあったのだろう。上位層男子との交流があるとはいいながらも、やっぱり下位層男子にはとにかく恋愛機会がなかった。特に、女子と会話をする(恋愛の話に限らず、雑談でも)時間のなさというものは、上位層男子との比較において、無残としか言いようがなかった。


 キーワード先では、カーストの層を規定するものはコミュニケーション能力ではなく、人気である、と定義している。
 しかし、そもそもその人の人気を形成するのは、広義のコミュニケーション能力ではないだろうか。
 広義の、とつけたのはもちろん理由がある。キーワード先では人気獲得要素の具体例として、「一緒にいて面白いこと」「外見的魅力に優れていること」「運動能力が高いこと」を上げている。この三つは、俺に言わせるとどれもコミュニケーション能力の範疇に入ってしまう。
 ようするに、ここで言っているコミュニケーション能力とは、「自己表現能力」とも言える。自分という存在を、どれだけ他人にポジティヴにアピールできるか。それに成功した者だけが、受け入れられる。そして、ポジティヴな印象を与えられなかった者は落伍していく。
 下層民たちは、一部の例外を除いて、自分に対するプラスの自信を持っていないことが多い気がする。それは生まれついて下層カーストとしての扱いを受け続けてきたゆえのものなのか、あるいはそういうふうな性格に生まれついてしまった者は下層カーストに生きるという運命を背負わされているからなのか、ここでは議論しない。ともかく彼らは、自分に自信を持っておらず、よって自分をポジティヴにアピールすることができない。相手の顔色をうかがいながら、喉もとまで来ている言葉を呑みこんでしまう。
 そうやって、いつまでも他人にアピールする機会を持たぬまま、下層から這い上がれない。
 ついでに言えば、「テストの点がいい」というのがキーワード定義のコミュニケーション能力のなかに入っていないことは、なかなか鋭い。テストの点というのは、教師と生徒という別の枠組みのヒエラルキーのなかで影響を持つ事象であり、そしてその別枠のヒエラルキーは、生徒間カーストとすこぶる相性が悪い。人物と場合によっては、マイナスのコミュニケーションスキルとなってしまうのだ。具体的に言えばテスト前にノートを見せろと強要されたり、出席票の代理提出を頼まれたり、などなど。これらは一部を除いて、上層から下層への一方通行の「お願い」として行われる。上層者に悪意がない場合が多いのが、この事例の悲惨なところである。


 スクールカーストは悪だ、と言ってしまうのは簡単だ。だがしかし、人が多く集まればなんらかの序列ができてしまうのはしかたのないところでもある。例えば春先に行われた、天王寺駅に集合して行われた某オフでは、オタク知識や読書量の差で序列が生まれていたように思う。多くを脳内に有する者ほど会話に参加し、含蓄ある言葉を発し、他の参加者を魅了していた。そして蓄えのない者は、ときおり起こる笑い声にあわせているだけしかできない。
 あのたった一日にも満たない時間のなかでさえ、そうだったのだ。もちろんそんな序列など、俺個人が勝手に感じた幻想であるかもしれない。願わくばそうであってほしい。コミュニケーション能力に重大なコンプレックスを持つ俺の被害妄想であってほしい。
 しかしやはり、どこか完全には否定できないのだ。多くを語れない参加者など存在価値があるのか、と。羨望と嫉妬と自己嫌悪の渦のなか、結局俺自身が自分をどうにかするしか仕方がないのかな、とも思う。
 この発想自体、ある意味カーストという価値観の前に敗北しているんですけど。出口が見えないなぁ。